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ニュースメディアという場所

いろいろ哀しくなると、かろうじて読める外国語である英語のニュースサイトに行ってみる。脳の違う部分を使えるので、冷却効果が生まれるのに違いない。びっくりするほど、気持ちのクールダウンに効果的なのだ。そう考えると、わたしは英語がネイティブ言語になる日は生涯やって来ないだろう。それはそれで、また哀しい。

ともあれ、今日はNYタイムズを読んでいた。

(日本時間2/28、22時半現在)もちろんCoronavirus関連の記事が目につく。そして中間選挙。しかし、そればかりではない。自分たちのことだけに忙しくない、こういう世界もあるのだということにホッとしながら、別の意味でピリッとしてくる。

北海道の知事が「非常事態宣言」をしたのがそのまま訳されていて、大丈夫かなぁ。いまこの瞬間にも、全世界が誤解してるはず。そもそもこの例外カード使うのって、その実、首を締めることになるのでは、とか。何よりトルコとロシアがかなりヤバそう。感染症に乗じて争いに油を注いでしまおうという考えが実行されようとしている。人間の業の深さよ。

・・・・・・こんな感じのことが、トップページのニュースをざっと読んでい流だけで、うかがい知ることができた。

ニュースサイトのトップページは新聞でいうところの「一面」だ。そこに何をどうやって載せるかはとても大切。 新聞よりも面積の多いウェブページだから、紙よりは情報量を多く入れられるのでおトクである。しかしながら、日本ではこうはいかないことが多い。少なくとも、今日はそう感じた。

日本が悪いとかじゃない。ただ、どこか一社でもいいから、BBCやNYタイムズぐらいには、世界はいまどうなっているのか俯瞰できる感じがあればいいのに。「世界は日本をどう見ているか」ではなくて。

ところで、Web媒体とつながりのある新聞記者の人ほど「新聞メディアは読者に寄り添っていかなければ」「どうしてこれが新聞社で扱えないのだ」といった意見を述べている傾向がある。それが改革なのだという。しかし、それは優先されるべきことだろうか? わたしはそうは思わない。もちろん「とても歯痒いのだろうな」という察しはつく。

けれどもそれは、別のメディアがやればよいことだ。

主戦場は、そこではないのでは。

たとえば、日本に暮らす、日本語以外の母語の人にわかりやすい紙面を作るとか。もしくは海外のニュースを普通に載せるとか。その時、日本語と同じレベルの他言語化は資金的に難しいのであれば「やさしいにほんご」的なものでも構わない。

ただし、日本のメディアはどのように伝えてるのかを英語で発信することにも、真剣に取り組んだ方がいい。「非常事態宣言」はカッコ付きのものなのだから、具体的に行われることを挙げるにとどまるだろう。自衛隊が銃を持って警戒にあたるなんてことではない、とわかってもらう必要がある。そうした齟齬が笑い話にはならない時代に生きているのだから。

コミティアの学漫ブースで、編集したマンガ本を出した

このあいだの続き。今日は長めです。

結果どうだったのか? ・・・少なくとも、55名のかたに購入いただいた。しかし3チーム中最下位。これは悔しい。だけど、買ってくれた人がいるのはありがたい。でも悔しい。その繰り返し。まぁ、どちらも本音です。

チームBのリーダー吉田さんがすごくよい文章を書いてます。この記事には、「やった人」にしか出せない言葉がたくさん出てきます。コミティアでもなんでも「やった人」なら共感できるはず。

次に進むため、わたしなりに振り返ってみた。

◆編集長という立場

まず、いままで会ってきたすべての編集長の人に平謝りしたい。わたしはなにもわかっていなかった…。いや、もちろん商業誌と比較するものではないのは承知のうえだけれども。これはもうほんとうに、もっと敬意を払わなくては!かたく心に誓いました。

◆リーダーとして

全力は尽くしたと思っていた。でも、いま振り返れば、やれることがもうちょっとあったのかもしれない。

身体的には限界突破していたので、「ほんとうにもう、もうムリ……」状態だった。しかし、まさにそこが敵。体力が削られたために「右眼と左眼で見る」的なことが十分ではなく、至らないところがあったと思う。

つまり「体力をつけておけばよかった」ということ。カラダづくり再開かも。(とか言いながら、レッドブル片手の意思薄弱な自分がここにいるよ)

◆コミティアこうすればよかったかも委員会

もしそんなものを開くとしたら、こんな感じです。

1)接客マニュアル

→こういうのって押しつけられたら楽しくないけど、リーダーとしてはやるべきだったのかもしれない。ただ、推したほうがいいのか、引いたほうがいいのかって、人や場所の雰囲気を見ながらやるのは、いろいろ発見があった。仕事で販促品とか作っても「売れろ〜売れろ〜」と念を送るだけなので、実際に売るのって楽しい。たまにだから楽しいとか言ってられるんだろうけど。

2)休暇

→これは難しい問題だ。人は暮らしていかねばならないから。ややこしい案件ほど突然やってくる広告関係の仕事がアダになった。翌日の半休が精一杯。土曜は休出したんだよ、これでも。忙しい自慢をしているつもりはなくて、有休とりやすい仕事ができない体質だから、仕方がない。裁量労働制という名のダークグレーな場所(だからといって高給でもない)でなないと仕事ができない人間もいるのだ……ぜんぜん自慢にならない。

3)店頭まわり

→イラレでカチカチと作ってる間は「このままでは店頭まわりにしては地味だ…もっと目立たねば…しかし予算もない…ぐぬぬ」と思っていた棚。意外と「プロっぽい」と好評だった。しかし、周囲を見て、もうちょっとハンドクラフト感があったほうがよかったのかも。なんか隙がない感じはあったなぁ。

4)アカウントの運用とか

これは、うん、ごめんなさい。これからもがんばりたい。キャラを作るとかしなかったのは、破綻しそうだったからな。長期運用できるんじゃないかなぁ。がんばります。

◆同人誌をつくるということ

広告関係の仕事でもディレクションをしていて、スキル的にそのまま使えるところも大きかった。しかし、決定的な違いがある。

「同人誌作成は、人がお金で動くわけではない!気持ち!」

これが、ホントにすごい難易度が高かった。

それぞれの日常や目標を抱えながら、「いいものにしたい」と思っている。見ている方向や、どこまでやるのかが、ちょっとずつズレてしまう。

(難しさの一例…たとえば普段の仕事なら、飛び道具として、たまーに、焼肉パワーも使える。しかし、今回わたしのポケットマネーが潤沢だとしても、これは有効ではなかったはずだ。みんな焼肉やお寿司を楽しく食べるだろうけど、そこゴールじゃないからね……)

言葉だけで人を動かすことの難しさは、すでにわかっていたことではある。それでも届かないことがあると無力感しかない。この体験も大事だった。

わかる人にもわからないかもしれない話をする。ときめきトゥナイト第2部で鈴世が「無力だ……!」の言葉とともにうなだれるような感じ。あれって絶対必要だったはず。そんな感じで、必要なことだったのだ。

同人誌をつくって売る、この課題は「中間講評会」のようなものだと思ってたけど、本当にこの半年あまりの集大成のような気がする。引き受けてよかった〜と思ってます。

◆このあとどうするの?

打ち上げは楽しかったけど、なんか自分だけ戦ってない気がした。そりゃそうだ。だってわたしはマンガ描いてないから。

同人誌つくるのでおあずけ状態だった『群像』のリニューアル以降を読んだ。なんとも言えないモードに突入した。どうせ、などと言ってる場合ではない。戦う準備に時間かけてる場合じゃない。みんなとっくに書いてるだろうけどね……!

2020/2/9に国際展示場へ来てほしい、たったひとつの理由

久しぶりの投稿になってしまった。大きな言い訳は、ひらめき☆マンガ教室で同人誌を作っていたから。もちろん、マンガを描いてるわけではない。いろいろあって「編集長」とサークルの「リーダー」をした。その生活も、もう終わる。

明日、2月9日の14時までに。国際展示場に来てほしい。そこでは「コミティア」というイベントが行われている。同人誌の即売会だ。入場券代わりに1000円で「ティアマガジン」を手に入れたら、西ホールにある「の07b」のブースに行ってみてほしい。そこでは『さよなら家族・またきて家族』という本が売っているはずだ。表紙あわせて172ページ、500円。その本には、3ヶ月分の熱量が詰まっている。

ひらめき☆チームA『さよなら家族・またきて家族』

「ガラじゃないこと」もたくさんした。それでも、作品をベストな状態で見せたかった。何がなんでも、よい本を作りたかったし、いろんな人に読んでほしいと思う。

今回のコミティアの参加予定サークル数は、過去最多だという。SNSもマスメディアになってしまった2020年。こういう場所での体験が「オルタナティブ」なコンテンツに触れることなのかもしれない。

いや、それより何より。読んでくれたあなたにはぜひ、『さよなら家族・またきて家族』買ってみてほしい。

ただただ、それだけです……!

あいちトリエンナーレ再訪(0)

9月に引き続き、会期終了前にあいちトリエンナーレに行ってきます。

再訪後に記事も書くけど、その前の状況を書いてみたい。

9月来訪時には豊田エリアを回ったが、今回は時間的に無理だろう。これが悔やまれる。全体的にキュレーションの輪郭がしっかりとしていた。さらにあいちトリエンナーレの軸となっていたのは、ホー・ツェーニンの「旅館アポリア」だと思う。なので、そういう意味でも豊田会場おすすめ。駅前のミネマツヤのタイごはん美味しかった。

https://ja-jp.facebook.com/AjianWuTaiMinematsuWu/

今日のところはまず、9月の印象を記しておく。人はすぐに、大事なことを忘れてしまうから。

たしかに大きな分断があった。それを超えていく可能性も見えた。意外かもしれないが、底知れぬ静けさを感じた。

名古屋駅に着いて、まず思ったこと。

「あれ?名古屋が通常営業している」

太閤口前のOOHビジョンはちょうど流れていたけど、それぐらい。本当に街中でやっているのか不安になるぐらいだった。

こんな話を聞いた。わたしの親戚が名古屋に住んでいる。初回のトリエンナーレは「街全体が芸術祭」という雰囲気だったそうだ。「なんか凄そうだけど、現代美術ってよくわからないからなぁ」と首をひねる上司を連れ出すことも気軽にできたそうだ。

しかし「前回から」状況が変わっていたという。興味のない人が「なんか凄いのが近所でやってるらしい」と気づくこともなかったと。

暮らしている人の実感として、こういうことがあるのは確かだ。予算額とか、広報の使い方とか、検証してみたら良いのではと思った。誰もしないなら、やってみたいけど、どなたか数字の得意な人と組んでみたい。

果たして今日の名古屋は、どうだろうか?

それでは、行ってきます。

「ひらめき☆マンガ教室」提出課題へのコメント集【随時更新】

突然ですが。このポストで書いたように、「ひらめき☆マンガ教室」に通い始めました。

そこで、提出課題へのコメントをnoteで投稿しています。どうしてnoteかと言えば、検索性も高まるし、通りすがりの人も怪しまないと思うんですよね。

これらのコメントは個人的な見解だけ載せています。基本的には「最初の読者」としての感想です。わたしは講師ではなく、描き手にとって参考になるとすれば、ただただ「第3の視点」ということに尽きると思います。

他の人はどう感じたのか、ということにも興味があるので、何かあればレスポンスいただけるとうれしいです。

UPしたら下記にまとめていく予定です(マガジン機能がいまいち使いこなせていない説あり……)。よろしくどうぞ!

課題5への感想

課題4への感想

課題3ネームへの感想

課題2ネームへの感想

課題1ネームへの感想

身体を操る作法、その境界線/劇団ダンサーズ『動員挿話』

はじめに

劇団ダンサーズ『動員挿話』@SCOOL

劇団ダンサーズは、「ダンス作戦会議」のメンバーが中心となって、「ダンサーが演劇をすること」を行うプロジェクト。この旗揚げ公演は、静かながら大きな衝撃を与えるものだった。

演劇として演劇を実践する劇団ダンサーズ、旗揚げ公演は岸田國士「動員挿話」 – ステージナタリー

『動員挿話』は岸田國士の戯曲。舞台は日露戦争が始まった明治三十七年の東京。出征命令が下った将校の邸宅で起きる、静かで不穏な心理の応酬だ。あらすじとしては、将校の出征にあわせて、彼に仕える馬丁も従軍したいのに、馬丁の妻が首を縦に振らず、その顛末を描くもの。戯曲自体は青空文庫でも読める。

岸田國士 動員挿話(二幕)/青空文庫

なぜ、『動員挿話』か

作品の中で、この馬丁の妻は狂気のカタマリとして描かれる。その彼女のひととなりを乱暴に一言で言えば「美人すぎるインテリメンヘラ」だろうか。女学校出身で浪漫派に染まったとおぼしき、個人主義の人。過去の経験から夫に対する独占欲が強すぎる面があり、正論ではっきりと物を言う人。おそらく当時は、相当な狂いっぷりだったと思われたに違いない。岸田國士は、それが美しいと思ったのかもしれないが、その判断は演出に委ねられている。その判断基準を宙吊りにしたおかげで「だから女に教育はするな」という根拠にもなりかねない。というよりも、そういう論調が多い世の中で、岸田國士は、かえって自身の立場を強固なものにしたはずだ。

そう考えると、なぜ今、岸田國士を上演するのか? という問いも立てられるかもしれない。ただ、今回の劇団ダンサーズにおける岸田國士とは、時代を代表する記号として選ばれていた。このプロジェクトは、近代演劇を年代順にやっていきたいという試みでもあるからだ。

しかし、おそらくは『動員挿話』を選んだことには意味がある。やたらと令和の改元で祝賀ムードが加熱した日本において。アメリカから大統領が国賓として来るからと言って物々しい警備が敷かれた東京において。

しかし、これをむやみに「反戦」とくくると見失ってしまう。そういうものも含めて、世間やムードに取り込まれる社会に対してのアンチテーゼなのだ。思わず、個人の身体は表現してしまう。実は、舞台で本音をもらすのは、馬丁の妻だけではない。社会の空気に対して、思わず口にしてしまう言葉、仕草、その感情表現すら、本当は身体の一部なのだから。

演劇とダンスの間で揺らぐ

この作品は、『動員挿話』をダンス作品として上演するのではない。ミュージカルでもなく、ダイアローグを交わしながら踊るというのでもない。演者は、あくまでも演技をしている。そこには、SEはあるが、音楽はない。役者として、会話を紡いでいく。

岸田國士の美しい言葉を活かす、抑揚を抑えた発話と、ダンサーの仕草が交わるところにある表現。それは今までに見たことのない芝居だった。

その様子を観ていると、芝居とダンスの生まれた瞬間を想像してしまう。日常の何気ない仕草が、芝居になり、ダンスになる。その違いは、どこにあるのだろうか? と。

ところで、ダンサーが物語を踊るのは、特に珍しいものではない。誰もが知っているクラシックバレエの演目を思い浮かべればわかりやすいはずだ(たとえば『白鳥の湖』)。その流れはコンテンポラリーダンスにあっても絶えたのではない。人によって解釈の違いはあるにせよ、感情と身体をリンクさせることは、オーソドックスな方法である。

私が観た5/25(土)には、告知としてアフタートークは無かったのだけれども、観客と演者のアフタートークがセッティングされていて、その辺りの肌触りを確かめることができた。

おそらく、ダンサーから演劇を捉えたとき、そこまで壁はないのだと思う。発話も身体表現の一部だと思えば、落差が「なさそう」に見えるから。今回の演じ手も、思っていたのとやるのは大違いだったという感想を一様に述べていた。(比べるのもおこがましいが、かくいう私も似たような経験がある…)

しかし、観客席にいた宮沢章夫さんが仰っていた言葉で、自分の当たり前は他人の非常識だというクリエイションの基本を思い出した。「ダンサーの人が集まって何かをしようしたときに、それが演劇である理由がわからない」そして「俳優が数人集まってもダンスしようとは思わないだろう」といったこと。これは、なかなか衝撃的な指摘だった。

そして、演者の側からは「生身の自分」が思っていないことを発話することとの擦り合わせの話も出た。このような、身体をどのように使うのかを突き詰めていくアプローチを聞けば、ともするとロボット演劇を思い出すかもしれない。

しかし、そういうことではないのだ。

この舞台では、発話するセリフが音楽になり、身体がリズムを刻んでいた。セリフから身体の動きが引き出される、その意味では演劇だろう。しかしリズムにあわせて身体が動いてしまうという点では、それはまた、ダンスでもあるということだ。群舞の1つの形態を見た、とも言える。この二重性、そしてその境界が曖昧であること。それが故に覚える浮遊感。静かにさざ波を立てる作品である。

このプロジェクトで心がざわめくのは、とにかく自分が「当たり前」だと思っていたことが揺らぐからだ。宮沢さんの指摘は、それを如実に表している。

だから、目が離せない

劇団ダンサーズとしての活動は、今後、時代順での上演を構想しているという。一説には、唐十郎までやるとか。それが現代にまでやってきたとき、ダンスと演劇との融合が見られるかもしれない。同時に、さらに裂け目が大きくなるのを見れるかもしれない。

その揺らぎを作り出す劇団ダンサーズがどう変わっていくのか? 今後の展開が気になるプロジェクトだ。

ひらめき☆の扉を開ける

2019年5月4日。ついにその日はやってきた。

ずっと気になっていた「ひらめき☆マンガ教室」に申し込んじゃったのである。

https://school.genron.co.jp/manga/

まさか、申し込むとは思っていなかった。

実は、その数日前。わたしは朝まで「無料生放送」を観ていて、無性に「忘れものを取りに行きたい」と思ったのだ。
このままでいいのか? 終わっていいのか? ……単純に、マンガ書いている人の話って、聞きたいよね?

夜明けとともに寝落ちしながら、心はほぼ決まっていた。

さてわたしは、聴講生として、課題を出す代わりに、勝手に予習・復習係をしようと思う。その経過は、noteにまとめる予定。

しかし、これが実現しも、それは優しさではないと思う。
「純粋にまだ見ぬ同期を応援したい」などと、殊勝な心は持ち合わせていない。わたしは、マンガをきちんと語れるようになりたくて。だから、やろうとしているのだ。

例えば、マンガにおける「エロ」の境界線。

というのも自分の中で、主に女性の扱い方について「許せるエロ」と「不快なエロ」がある。その「不快さ」は素朴に湧き上がる感情だ。対象は、いわゆる「フェミ」と呼ばれる人が「指摘」するものと、ほぼリンクしている。なぜ、こちらは許せて、そちらは嫌なんだろう? 

そう考えると、ものすごい謎だ。一朝一夕ではどうにもならない課題だけど、これを言語化することは、今後もマンガを通して何かを語るには必要なことだ。習慣づけしたい。

注)毎日エロのことを考えてはいません。

『LOCUST』Vol.2へ寄稿しました

明日5/6は、第28回文学フリマが開催されます。会場は「東京流通センター第1展示場」です(浜松町駅からモノレールで10分。空港快速の止まらない東京流通センター駅前)。

実はわたし、ここのウ-37で出店している『LOCUST』Vol.2に論考を寄稿しました。今号のテーマは「FAR WEST 東京」で、八王子・福生・奥多摩を中心の記事です。

わたしが寄稿した論考は「西の空の下、墓は群れる」です。同人誌でなければ、載せることが叶わないであろう内容でして、武蔵陵墓地と多摩ニュータウン、近代の東京を結んでいます。改元・天皇の即位というタイミングで読むのにぴったりだと思います。武蔵陵墓地については、ここ数日の間に事件もありましたね…。

この『LOCUST』は「旅と批評のクロスポイント」と銘打つ、旅行誌を擬態する批評誌という試み。批評再生塾3期生を中心にしたプロジェクトです。11月に発行されたVol.1の特集は「千葉内房」でした。

今回の特集では、八王子・福生・奥多摩を筆頭に「西東京」のもうひとつの顔が見えてくるはずです。短めの13の論考。八王子にゆかりの深い劇作家の宮沢章夫さん、奥多摩での作品をライフワークにする写真家の有本伸也さんのインタビュー。おしゃれなカルチャー誌と思ったら、奥多摩の旅館「荒澤屋」でご主人に伺った民話でダークツーリズムを誘います。しかも、充実したコンテンツガイド、年表、そして中村紗千さん作の「FAR WEST 東京マップ」…濃厚です。1冊1500円。一足お先にゲットしましたが、このような感じです。

編集部の方にはご迷惑をかけました…。お詫びに伺います。ではみなさま、明日は会場で!

わたしにはまだ、野心がある

4月まで通っていた批評再生塾。この最終課題で完成稿が出せなかった理由はいくつかあるが、どんな理由があるにせよ、完成できなかったという歴然とした事実がある。「お疲れさまでした」と労われることもあるのだが、ちゃんと卒業できた感じがしていない。そりゃあ、そうだ。このモヤモヤを晴らしたくて改稿中だが、いつまでも終わらない。「〆切がある」というのは、なんて幸せなことだったのだろう。自分で〆切作らなきゃ、マジでだめだ。

家のことで八方ふさがりになると、家出して東京じゃない場所でひっそりと仕事をしたい衝動に駆られる。しかし、結局のところ、それはしたくない。その理由を突き詰めていくと、わたしにはまだ、少なくない野心があるようなのだ。結構笑えるけど、この野心を育てたいと思う。

特撮って男の子向けなのか。

昨日、某動画のコメントで「特撮は男の子向けでしょ」と流れてきて、夜中に「うっ」と声を発してしまった。そうか、やっぱりそうなんだよね…と。

わたし、特撮は好きです。でも、ライダーがイケメンかどうかは関係ない。というかですね、見えない力によってヒーローに選ばれた時点で、かっこいいに決まってるわけです。

タンスを開けては、今日こそ異次元空間に通じていないか確かめてみることもあるけど、気づいたら、フィクションと知ってて観てるんですよね。

なぜか毎年、半年ぐらい経った頃に、武器がパワーアップして、新発売アイテムが出てくるとか。世界の平和は1クールごとに乱されて解決するとか。「ひみつ本」をジッと見たら、宙づりされてるピアノ線が見えるとか(今はそんなことないと思うけど)。そこで、人はシニカルな態度を身につけるわけですよ。そしてその後に始まるニュースを見たら、真面目そうな大人が悪いことをしている。「あぁなんて馬鹿ばっかり」などと思う。しかし同時に、「こんなに悪いことしてる人が多いなら、このままでは世界が滅びてしまう!」と真剣に考えることもある。

ところで「戦う美少女」よりも、一緒に戦ってる方が気分がいい。何かというと、ライブマンの前半の感じが好き。これは決して、ブラックバイソンとグリーンサイが嫌なのではなく。いまにして思えば「ジェンダーバランス」を子どもながらに感じ取っていたのかもしれません。ロボットも女子型だったしね。

ジェンダーバランスということに引きつければ、わたしは、もうずいぶん長いこと、特撮について誰かと語りあっていません。というのは、しょうもない理由。話が合いそうな知識水準にいる人はほとんど男性なのですが、しかも彼らが複数いる前では「すみませんね〜」と下手に出ないと話せない感じがイヤだから。そう、なぜかいつも「すみません」から入らなくてはならない。

、わたしは、もうずいぶん長いこと、特撮について誰かと語りあっていません。というのは、しょうもない理由。話が合いそうな知識水準にいる人はほとんど男性なのですが、しかも彼らが複数いる前では「すみませんね〜」と下手に出ないと話せない感じがイヤだから。そう、なぜかいつも「すみません」から入らなくてはならない。

少女マンガや宝塚については「僕が偏愛しているのは……」と、高尚な感じで語られるのに。ファンダムに基づくものであっても、理論や事象と結びつけても有り難がる傾向は、確実にあるなぁと思う。その逆って、なかなかないですよね。

そうは言っても「美少女」には戦っていてほしい。東映不思議シリーズは「美少女シリーズ」になってからの方が好きです。これはやっぱり、男女雇用機会均等法を反映しているとか、幽玄道士ブームに乗っかるとか、セーラームーンへの布石だとか、色々とあるんですが。とにかく言えるのは、石ノ森章太郎はすごいってことだと思う。