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「自粛要請」だだ漏れの三月

テレビ、新聞、ネット、ラジオの多くが、情報を伝えるのではなくて「自粛すればなにかが成功するムードを醸成するPR」をしている。そしてそれは、少なくとも3/22現在は成功しているようだ。

「こんなときだからみんなで我慢しよう」というメッセージ性のあるコンテンツと、観光地や花見でほのぼのしつつ、県から自粛要請があった格闘技イベントが敢行したことに眉をひそめること。さらには、大相撲は無事に千秋楽を迎え(いやこれはよかったのですが)、関東地方に限れば天気もおだやかで、ソメイヨシノの開花もだいぶ早まり、めでたい感じがする。結果的に「なんだかよくわからないけど、みんなで乗り切れば大丈夫じゃない?」的な楽観的な志向をつくり出している。

メディアから投げかけられてる言葉は、まるで「以上、3/22の空気感を醸成しました」なのだがーーあれ、そういうことだっけ? たぶん違う。暮らしていて、情報が伝わってこないことが危うい。

こういうことを言うと、すぐに広告代理店の陰謀論と結びつけられやすいが、実は広告の制作が「できる」人と組んでいないからこそ、こういうことになるのだろう(念のため言っておくと、関わっていればいいわけではない)。なぜなら、情報を伝えるのが広告の第一義のはずだから。

そもそも「自粛」というのは、頼まれてするものではない。するもしないも、自分が決めること。お願いするなら「中止・延期のどちらかを要請する」と言えばいい。それなのに、宙ぶらりんな言葉を投げかけられるから、わからなくなる。不毛な議論が生まれてしまう。

要請の担保ができるかどうか、現時点で言えることがないのであれば、何を優先にしたいのか説明する。シンプルにそれだけのはずだ。台風や地震で「逃げてください」とか「命を守る行動を」と言うのと同じ。

「言葉尻ばかりに目を向けるな」とか「揚げ足取り」とか言う人もいるかもしれない。けれども、実は広報の目線では重要な点のはず。「どんな理由で、何をしてほしいのか」説明がないのに「お願い」をされてもやるかどうかは運次第になってしまう。

そもそも人は、自主的な判断をするとき、現在あるだけの情報を目の前にして、いろいろな考えを探るものだ。現在、 オフィシャルな情報源として認められているのは、厚生労働省や自治体のサイトだが、そこには「知りたい」と思っている情報は載っていない(ように見える)。

つまりは、こういうことだ。
【厚生労働省】
新型コロナウイルス感染症対策専門家会議の見解等(新型コロナウイルス感染症)
(新型コロナウイルス感染症対策専門家会議「新型コロナウイルス感染症対策の状況分析・提言」(2020年3月19日)PDF

【東京都】
新型コロナウイルス対策サイト

どうだろう。もちろん、情報を出していないわけではない。しかし、とにかくわかりづらい。

たとえば……
1)大規模なイベントとは何人以上なのか?
2)「感染状況が拡大傾向にある地域」や「感染状況が収束に向かい始めている地域並びに一定程度に収まってきている地域」とはどこを指すのか?
3)「症状が軽い陽性者等」が「高齢者や基礎疾患がある人と同居していて家族内感染のおそれが高い場合は、接触の機会を減らすための方策を検討」と言っても、自分が症状が軽い陽性者等に該当するかどのように知ればいいのか?
4)渡航歴もなく医療従事者ではない人の感染数が増えてきてるのでは?
ーー等々、わからないことだらけである。伝わってないのは、伝えていないのと同じだ。

その一方で、明確に読みとれる箇所もある。国に対して求めたことは、これから進められていくのだろう。周知広報の充実が求められているのだ。これから充実するに違いない。

(3)「3つの条件が同時に重なった場」を避ける取組の必要性に関する周知啓発の徹底

まん延の防止に当たっては、国民の行動変容を一層徹底していく必要があります。このため、専門家会議としては、国に対しては、3つの条件が同時に重なった場を避けることの必要性についての周知広報の充実を求めます。

https://www.mhlw.go.jp/content/10900000/000610566.pdf

それにしても、ここまで「自粛を要請され続ける」のって、なんだか「自己批判しろ」と請わているみたいで可笑しくなってくる。政治の季節に必ず反動をしてきた日本社会。このシラケが怖い。

「テレワークはいい」だけじゃない

三連休、いかがお過ごしだったでしょうか。

わたしは自宅にいざるを得なくて、いろいろと悩まされて仕事も進まず、ほとほと嫌になりました。明日からは仕事です。こういうとき、大人になるって便利だなと思います。でもおかげで、連休中にやるべきだったことに手をつけられてないってヒドい大人です。うーん、どうしよう。

もしも小学生のときに休校があったら、本当に希望が見えなかったかもしれない。そんな風に思う。いま苦しんでいる人たちに何もできず、不甲斐ない。

そんなわけでこの記事。

新型コロナで突然の長期休校 子どもを取り巻く別のリスクが見えてきた/朝日新聞GLOBE+

学校には、様々な理由で児童相談所がかかわっている子どももいます。長期休暇によって、家の中で子どもと親だけになり、子どもが逃れられないような環境になっていないか、すごく心配です。新型コロナも命にかかわることですが、家庭の中でも命にかかわることがあることを忘れてはいけないと思います。

この手の問題は、COVID-19でロックダウン状態になる他の国でも起きているようです。まぁ、そりゃそうだよね。親子のことだけじゃない。誰かの彼女も、誰かの彼氏も。誰かの配偶者も。

テレワークは自由も生むが、いいことばかりじゃない。組織や企業の課題とは別に、個人レベルでの問題も抱えている。(感染症禍がなければ、家以外のところでも場所は探しやすいけれども)

しかしテレワーク、実際どれぐらい導入されてるのだろう?

Twitterでは、だいぶテレワーク見かけるけれど、そうでもなさそう。なぜかと言えば、時差通勤したところで、たいして変わっていない気がするから。

すべての業種・職種がテレワークできるわけじゃないし、テレワークやクラウド的なコトが万能ってわけでもないのは忘れないでおきたい。究極的には、人間はリアルにモノを食べないと死んでしまうから!

蛇足ですが、ライブハウスがダメなら、満員の通勤電車は絶対にヤバいと思う。なぜならば個人的には「耳から音楽を聴いてライブハウスだと思えば、ギリギリ耐えられる(しかし毎日は、もうムリ)」だから。

当初、3/1の時点では(新型コロナウイルスの集団感染を防ぐために)、下記の3点が集団感染が起こりやすい共通点で避けるべき対象と言われていたのですが、今では「マスクしてしゃべらなければいい」みたいな雰囲気できてませんか。その条件は
1)換気が悪い
2)人が密に集まって過ごすような空間
3)不特定多数の人が接触するおそれが高い場所
…これって満員電車でしょ、どう見ても。

いま最新情報では(新型コロナウイルス感染症対策専門家会議「新型コロナウイルス感染症対策の状況分析・提言」2020年3月19日)、ちょっと違ってきています。
「①換気の悪い密閉空間、②人が密集している、③近距離での会話や発声が行われる、という3つの条件が同時に重なった場」は避けるのが望ましいが、行く必要がある場合は感染症対策をして行きましょう、ということになっている。
専門家会議の人に質問できるなら、なぜマイルドになったのか? ぜひ聞いてみたい。

目覚める前に、休め。/『新しい目の旅立ち』

コロナ禍とか、五輪とか、いろいろなニュースに目を覆いたくなる日々が続いている。しかし同時にわたしたちは、覆ったはずの手、その隙間から見てしまう。見たくないというのは口実なのか? いや違う。見たくないという気持ちに、恐怖が勝ってしまうのだ。遅れてしまうことは、現代では社会的な死を意味している。

そんなわたしたちに必要なのが『新しい目の旅立ち』である。なぜなら、その目を休めることができるから。

この本は【タイ文学】だが、タイのことを知らなくても問題ない。むしろ、タイの本ではない。「マッサマンカレー」や「コップンカー」、「象」の世界を期待したら損である(もっとも、タイに生きる作家の書いたものだから、まったく関係ないとは言えないのだが)。タイの現代文学者が旅先のフィリピンで遭遇した出会いを内的にまとめたものだ。広い意味で言えば、随筆や旅行記ともとれるだろう。

作家プラープダー・ユンはフィリピンの「シキホール」という島を訪れる。その島はフィリピンの都市部では「黒魔術の島」と呼ばれている。ここで彼は自然と一体化することを追求するつもりだったのだ。しかし、その目論見は、思いがけぬ方向に転回していく。

哲学者や思想家の名前がたくさん出てくる。世界があるとかないとか、そんな大きいことは言っていない。同時に、ビジネスは哲学であるとか、狭いことを言っているわけでもない。もっと「人」の根本に立ち返ることができる本である。

繰り返しになるが、タイ文学がどんなものかわからなくても問題ない。「外国文学」と聞いて身構えてしまう人にこそ読んでほしい。日本語で最初から書かれているような感覚で読めるはず(おそらく翻訳にあたって気をつけたのだろう)。

特におすすめなのは「田舎暮らし、いいなぁ、憧れるなぁ」と口に漏らす人。都市で暮らす人なら、一度は口にしたことがあるだろう。この本に書いてある感覚が共有できるはず。目を休めたら、見えてくるものがある。

これは休息ということだけではない。目を逸らす、目をつむる。目は放っておくと、真正面を向いてしまうから、意識的にいろいろなところに向けてみる。過去、未来、後ろ、横、見えそうにない彼方とか。

本の性格上、章ごとにベッドで毎晩読んでみるのもよいだろう。たとえば、スマートフォンの代わりに。一気に読んでしまうことだけが、正しいのではない。

さらには、そうして見えてきた結果が、心地よいものではない可能性もある。自分の欲望とか。捨てきれない炎とか。休めることがいいこととは限らないのだ。

それでも、外からの情報を基準にすることで、どんどん自分のピントがズレてしまうことのほうが、ほんとうは怖い。情報から取り残されない代わりに、自分自身を生贄に差し出している、とも言えるのかもしれない。

ちなみに、作者自身が都会者であること、この記事を書いているわたしが東京圏以外で住んだことがない(普通免許を持っていないということで察してください)ので、このような書きかたになってしまった。田舎暮らしの人の感想も聞いてみたいと思っている。

さて、補足になるが、彼の来歴には、舌を巻くほかない。ほぼ少女マンガの「憧れの人」だ。ルッキズムはよくないと思いつつ、「ユン様」と言ってしまいたくなる。

1976年、タイの「メディア王」である父とファッション雑誌編集長の母の下に生まれ、中学を終えると渡米。アートを修めると帰国し、映画批評や短編小説を発表していく。1990年代後半に盛り上がったタイのカルチャーシーンの中心人物に。少々あざとさも感じる(しかし正真正銘の)バックボーンの彼が描く都市生活者の人間関係は、ポストモダン小説として熱狂的なファンを生む。そして2002年の短編集『可能性』は東南アジア文学賞を受賞し、世界文学のなかで【タイ現代文学】が「発見」された。

これは私見だけれども、タイの人にとってみれば、村上春樹に似た受容のされ方があるのかもしれない。

彼のほかの文章も読んでみたいと思った。

(↓amazonのページに飛びます)

最後に。いま、もしも大切な人にプレゼントするなら、この本だ。絵本以外で、そんな風に感じたのは初めてだ。大切な人にこそきちんと伝えておきたいことが、さりげなく伝えられる気がする。それは「わたしとあなたは違う、個である」ということ。本書の装丁のように、さりげなく、凛とした佇まいで、相手に伝えられたらいいなと思う。もちろん、それを「感じ取ってもらいたい」という思い込みもまた、横暴なのだけれども。

あいつと、また会うなんて。

今朝、都合のよい夢を見ていた。懐かしい人が出てきた。笑っていた。こちらも笑った。「また会おうね」と言って別れた。すべて夢の話だ。

夢占いをする気など毛頭ないけれど、ここ2〜3年の自分の行動に似ていると思った。

「わたしのような者が読んでも書いても、世界は変わらない」と手を振って別れたはずの、人文系の本棚。書店に行くと、その前に立つ生活に戻りつつある。そして、文章を書こうとしている。「わたしのような者」とはつまり、研究者でもオタクでもない、何物にもなれない生き物のこと。

奨学金を返すためだけに就職をしたかっただけなのに、内定ゼロで卒業式とか。文章を書く仕事に就いたと思ったら、定型文が書けない愚か者とか。派遣切りに遭わないで済むと思ってたら編集長交代で逆転で派遣切りに遭うとか。体のサイズとか。まぁ何にせよ、基本的に「じゃない方」なのだ。世界の真ん中で何かを発表するのなんて向いているわけがない。

だがしかし、実際には、背を向けたからと言って特に何も生まなかったし、別に特段稼げるようになれたわけでもなかった。魂を売り渡すぐらいで富豪になれるのであれば、みんなとっくにそうしている。だったら、書き続ければよかったのかもしれない。すべてがもう、あとの祭りだけど。

収穫があるとすれば、物事を見る角度が拡がったということぐらいだ。「人には本を読む気力すらないほど疲れることがある」とか「アカデミックな人はウソをついているような感じがする」とか。そういう肌感覚が備わったことは、とてもよかった。まぁ、それぐらいである。どっちの側にも立てるということは、片方の側だけでもないということでも。だからたぶん、ベン図の重なりの中。

しかし今から思えば、そうした背中の気配を、精一杯追い払っていた。ある場所では「キャッチーすぎる」と言われ、また別の場所では「批評っぽい」と言われた。もちろん実力不足だってある。「突き抜けた遊び心」も「あられもない鋭さ」があれば、結果は違ったかもしれない。そう、中途半端なのだ。

この「どっちつかず」の優柔不断なところを変えたかった。けれども、最近思うのだ。それは要らないことだったらしい。たぶん、こういうことが「わたしにしか書けないもの」につながっている。

もちろん、夢のようには都合よくいかない。でも、もうわたしには「やれたかもしれない委員会」を開いている余裕はない。

・・・・・・と言いつつ、焦る日曜日の夜。

だがしかし、時間は等しく流れる。

わたしは会社で働いている。でも管理職ではない。部下もいない。そして「裁量労働制」の契約だ。だから、あえて言う。

けっして、死ぬまで働いてはいけない。しかしながら、それを防ぐには、労働時間だけを計測しても、あまり意味がない。苦痛な時間がただただ多過ぎる、それこそが問題なのだ。

こういうのは、本当にダメな働き方だと思う。いくらお金もらっても、我慢が可能な時間は上限が決まっている。アレルギー反応と同じようなものだ。

もちろん個人の意見です。でも、長時間仕事をすることが「=悪の権化」って単純にパターン化するのはやめた方がいい。

特に「なにかをつくる」仕事なら。時間をかければかけるほどいいとは限らないけど、天才と呼ばれる人ほど努力してるということを忘れて(見ないフリして)、自分の運のなさを嘆くのはカッコ悪い。

とはいえ、ほんとに体は大事です。わたしは風邪をひいたらすぐに休む奴です。(しかし意外と風邪をひかないのだ……)

突然なにを言い出すのかといえば。

いまやってる仕事で実感してるのです。苦手なことばかりをずっとやらざるを得ない状況。

同じだけの時間を過ごしても、「あぁ〜〜いつまでやればいんだろう〜〜〜意味ないのにこれ〜〜〜もう〜〜〜〜〜〜〜〜〜」って思いながらの仕事は、時間と関係なく、体力の奪われ具合がぜんぜん違う。

先週から、ほんの数時間なのに疲れ目に祟り目。「眼球痛い…なにこれ…変な病気かな…わたし死ぬの…?」となってしまった。(実際には眼精疲労)

「どうやって切り抜けようか」そればかりを考えているのだが、全然終わる気配がない。提出日に向けて、強行突破して早く駆け抜けるしかないようだ。続きは明日。ひゃーーーー。

ガチャ課金をやめられそうな、たったひとつの方法

某ゲームでガチャを回しすぎて、ダメだってわかってるんだけどやめられない、あぁもう、どーすんだこれ・・・・・・と思っていたところ、「秒」でやめられそうな方法に遭遇した。

その方法とは!

「開発会社の広報ブログを読む」

これに尽きる。

「え、それだけ?」って思うだろうか。いやいやどうして、みるみるうちに効果抜群のはず(2020年3月現在)。

そもそも、課金するのってキャラクターに惚れてるとか、手に入れたキャラと一緒にゲームで勝ちたいとか、そういう部分が多い。運営さんのことを思わないわけではないけど、それはまたどこかで「運営さん」という仮想体に身を委ねているのだと思う。

ただ、実際の開発現場の様子だとか会社運営の話は、そのキャラクターとは別のレイヤーにある、ものすごい現実だ。しかも代表の言ってることが「?」だったりすると、途端に萎えてくる。それが、移植されたり、キャラコンテンツを別会社から借りてるとかだったりすると、余計に疑念はふくらむ。

「ちょっと待て、わたしは、この人のビジネスプランを享受しているのだろうか…いや、ゲームは面白いからいいんだけど…いいんだけど…」

正直、ドン引く。それはまるで、大きい潮が引いていくかのような「ザザザーッ」という効果音付きで。

読みものとしては「あぁ、こうやって作られているのだな」とわかるので興味深く、貴重な機会でもある。スタートアップかくあるべし、的な。

とはいえ、こうした記事を載せることで、防止策をうってくるかもしれない。中の人が完全にキャラクター化して発言するとか。しかし、今日時点では、そこまで手が回っていない。新サービス投入、イベントのたびに繰り広げられるバグとの戦いに、そんなことまで構っていられないだろう。そうしたことは、想像に難くない。

つまり、開発会社として真摯である姿勢が、逆に課金に歯止めをかける結果になっているという事例。まぁ、ゲームのプレイ自体は、まだまだ続けますが……ほぼ無課金になることは間違いない。

怒りの正体_2020年3月4日

今日は仕事の打ち合わせで、苛立ちを隠せなかった。どんな理由であれ、あんまりいいことではないと思ったから「どうしてこんなに苛立っているのか」核心の理由を探ってみた。解決できれば苛立ちを抑えられるかもしれない、と思ったからだ。

「説明がわかりづらかったから?」「 意に沿わない仕事だった?」

たしかに、それもある。しかし、それだけじゃない。

COVID-19(新型コロナウイルス性肺炎)の与えるインパクトを抑えるために、あらゆる手立てを考え、実行していこうという案件。それに、異議はない。むしろそうしなければ。

だけど……「いまするべきなのは〈それではない〉」と強く思う仕事だ。それを強制されるのは、心が折れそうになるのだ。さらに、こちらは不快感を共有したいのではない。「別の〈これしかない〉ものを考えませんか」と言うチャンスもないまま仕事が進んでいて、萎えてしまったのだ。

同時に哀しくなるのは、気持ちに嘘をついたままでもなんでも、案件化しなければ、売上が立たない、むしろ、そこは取りこぼせない位置で仕事をしているということ。まさに、あの「置かれた場所で咲きなさい」そのもの。俗っぽい話で紹介するのも気がひけますが、シスター渡辺和子が生前記した新書のタイトルです。

あげくの果ての、レイシズム。理解不能な論をもとにオリエンされたら、そりゃあわたし、怒りますよ。

ここまで書いて、思った。やっぱり、この「怒り」は売り渡してはいけない。むしろ、怒るのは当然のことだ。置かれた場所で地に根を張るのも、水やりにも疲れたら、たんぽぽの綿毛のように飛んでいきたい。

食欲でごまかす、そんな日だってある。

ここ数日、わたしはとにかく食べている。心の隙間を埋めたいのかもしれない。肉とか、辛いものとか、ラーメンとか。たまに甘いものも少々。無限に食べられそうな気がしてくる。

ところで、親に見られたくないものを見られたときに「人生終わった」と肩を落とすのは、センシティブが過ぎるのだろうか?

ある人には「大人になってまで、そんな大げさな。中二では……」と言われた。大半の人はそう思うのかもしれない。しかし、多くの人は大人になってから、そういう経験をしたことがないはず。

わたしは諸事情があって、生きるマインドがかなり異なる親と暮らしている。意見の食い違いは確かに苦痛だが、それよりも何よりも「それは見ないで…聞かないで…」というものを無邪気に扱われるのがツラい。やめてほしい。わたしには、そこに死が見えてしまうから。だから、わたしはいつでも危険の只中にいる。この緊迫感は十代の頃と変わらない。

先日、久々にそういうことがあった。本当に堪えていたのだろう。今日、会社の自販機で何にしようかと眺めながら、ぼんやりと口走っていた。

「もう、ひとりになりたい・・・」

ええっ、こんなところで、わたしは何を口走ってしまったのだ? 自分でも戸惑った。周囲を見渡して、誰もいなかったのは幸いである(ホントに事務所に人がいないタイミングで、よかった・・・)。

ちなみに、この願いを叶えたいのであれば、すべてを捨てて逃走すればいいだけなのだが、それはしない。はっきりとした理由がある。これから向こう数十年、息を殺して生活するのは嫌なのだ。ただ、それだけ。だから、わたしは紛らわすために、食べる。食べる。食べている。

イベントが終わる前に…

某スマホゲームのイベントが終わりそうなのに攻略できず焦っている。明日月曜日なのに、何してるんだろう。いちおう勤め人なのにな。

見通しが甘かったなぁと思うことは度々ある。今日はそのひとつを紹介したい。「ゲーム実況YouTuberになることについて」の悔悟である。

あらかじめお伝えしておくと、わたしはいわゆる「ゲーム」の身体性を持たないまま大人になってしまった者だ。しかし、テトリスは別。ボタン電池で動くミニゲームとiモードの公式アプリで、パズルゲームの感覚は研ぎ澄まされているのである。

以前、派遣で働いていた時、休みが増えると給料が減ってしまうので副業を試みていた。そこで「ゲーム実況流して広告収入するっていうのもあるなぁ…」とボンヤリ思い描いていた。当時はそこまでスマホゲームも黎明期。リリース日が同じパズルゲームなら、やり始めが同じなので「自分だってできるはず!」と意気込んでいたのだ。

だがしかし。ご存知の通り、現実はうまくいかなかった。

わたしはここに、完全な過ちを認めたい。ゲームをやり込んでいる人は、そんな次元にはいない。プレイ場所やタイトルが違っていても、他のゲームに応用できる能力を持っている。すでに高みにいる。ほんとになんかもう、見通しが浅はかだった。

そしてこれを書きながら、救いの報せを知った。また来週、後半戦も用意されてるらしい。よかった・・・。まだ間に合う。いっぱいガチャ回すぞ!!!(頑張りどころが違う・・・予算も超えているのに・・・)

日記とはいえ、「パズルゲームばかりして何やってんの?」「そんなのゲームじゃない」とか「本読め」とか、感想があるだろう。それは受け止める。でも日常的にこのようなゲームをしてしまう人がいるということを体感しておきたい。割と真面目に、そう思っている。

なんにせよ、大きなことを言いたいときは、その後ででもいいから第三者の意見を聞いておきたい。

9.11とグリーン・デイ

グリーン・デイが日本公演を延期との報。しばらく来ないんじゃないか・・・。

デビューから何十年たっても見せつけてくる、悪ガキ3人組のこの雰囲気。「やってられねー!」ってときにヘッドフォンでガンガンに鳴らした音。ノスタルジーでもなんでもいいから、現実を乗りきらたいときには最高の武器になる。既にそれって若者の代弁でもないのだけど、でもとにかく「この世はクソったれ」と言い続けている存在は、心強い。まごうことなき懐古主義ですが。

個人的には、リアルタイム的な出会いで言うと『American idiot』のリリース時にぶち当たっていたので、9.11と重ねて見てしまうことが多い。

というわけで9.11の話。この2月で、アメリカはアフガニスタンでの駐留を終える。どうやら正式にサインしたようだ。そこでNYタイムズの、このまとめ記事がすごく良い。(Photos From America’s Longest War)※戦争を撮ったもので、衝撃的な写真が含まれます。連日ソースが同じですみませんが・・・

ともあれ9.11について。

今にして思えば、世の中の尺度について知っていく、その始まりがこの頃だった。WTC崩落のニュースを見て喜ぶ人がいるのに「信じられない」という人がこんなに多いのか、と。こっちが信じられない気持ちだったのだ。女子学生がお酌しないと不機嫌になる教官に「時代錯誤でバカバカしい」と思っていたが、就活中にそれが未だ世の中の暗黙知だと知った。学生時代の鬱々とした気分を引きずったまま社会に出た新卒1年目には、中東に支援活動をしに行って人質にされた日本での反応があって、むしろ世の中の多くの態度に唖然とした。

だから2011年に、日本が分断されたというのも「え、もともとでしょ? 何をいまさら」などと思っていた。

9.11当時、わたしは横田基地からほど近い場所に住んでいて、毎日行き交う飛行機の音がとにかく不快だった。他人の国の話じゃない。東京都から輸送機だって飛び立っていたし、明らかに戦闘機の形をした飛行物体が訓練していた。

そこから約20年。ようやくアメリカの駐留が終わる。一連のこの長い戦争で、誰が、何を得たのだろう。ほんとうに戦争なんて誰もしたくないのに、なんでこんなことしてるんだろうって気持ちが強くなるばかりだ。橋本治の『20世紀』をざっくりと借りれば、19-20世紀の物語は終わっても、物語が生んだ苦しみと向かい合い続ける、それが20-21世紀だ、とでも言いたげである。

しかし。他の国の話をしてる場合じゃないのかもしれない。誰に問われるでもなく、「お前は何をしてきたのか」と自問すると「ただ生きてきた」としか答えようがない。この20年、生きるのに必死だった。生み出したものが何もないというのは、これまでの出来事に対して失礼だけど、ほんとに、びっくりするほど、生きてるだけだったような気がする。

ところで、パンクのイベントに行くと年上のお兄さんたちは「グリーン・デイはパンクなのか問題」で言い争ってたのだが、当時若かったわたしは「ジョー・ストラマーもビリーもどっちもカッコいいでいいじゃん」などと身も蓋もないことを言って「かわいい」などと言われたのだった。青かった。自分が30まで生きるわけないと思いながら、目の前のオジサンはとっくに40過ぎていることに気づかずに。だからやっぱり、このままではマズいのだ。