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人生相談という「リアリティショー」について

ずっと気になっていた。きっと多くの人は「人生相談」に幻想を抱いている。

実は、誌上で行われるほとんどの人生相談は「リアリティショー」なのだ。

相談者と同様に、同じような境遇がある人・特定の状況を考えたい人・正体のわからないモヤモヤを抱えている人に向けて、考え方を提示する。相談者のリアルを外側からコンテンツとして受け取る。だからどんな媒体であっても、回答者の声は、決して相談者のため「だけ」に用意されるものではない。

つまるところ「相談者が喜べば問題ない」という見解は、当たらずとも遠からずという話になる。

あらゆるコンテンツと同様に、回答者や発信した媒体には一定の責任が伴う。

回答者のパーソナリティとスタッフのディレクションを賭して世の中に出さなければ、うまくいかないコンテンツだ。前提として、相談者の話をちゃんと聞く。相談者の置かれた状況を考える。最善を尽くした答えを出す。そのうえで、コンテンツがどのように受け取られるかを考える。すべてが揃って初めて成り立つ、デリケートで複雑なコンテンツだ。

紙でも、テレビでも、Webでも、同じことなのだが、うまくいっている例としてラジオの長寿番組を紹介する。

ニッポン放送の「テレフォン人生相談」は1965年から続いているが、番組作りに、その辺りが強く表れている。

まず、司会者と専門家の回答者は別の人物だ。さらに司会者は曜日ごとに異なっている。オンエアはキー局は平日の昼間(生電話ではなく、収録)。ちなみに、放送にふさわしくないと判断された場合には専門家が紹介されると聞く。万全の態勢とはこのようなことを指すのだろう。

何度かネットニュースになることはあったと記憶している。しかし、いわゆる「炎上」には至っていないのは、何重にもバリアを張っているからに違いない。

最近、いろんなメディアの人生相談が「炎上」したケースがあるけれども、いずれもその機能がうまくいっていないケースに見える。

もちろん、必ずしも回答者が専門家である必要はないが、それと同時に、回答者の発言が絶対でもない。

だから、ディレクションが求められる。どんなセレブリティでも、ファンが多い人でも、信奉している人でも、その人に「ものを言う」ことができないのであれば、とたんに無用の長物になる。

例外的に、一人ですべてを行える天才も、たまにいる。けれども、それはひと握りの天才だ。おそらく100年に1度ぐらいに現れるレベルが必要なのだ。奇跡に近い。

誰もが自由にものを書き残せる時代だとしても、みんなが天才になれるのではない。むしろ、その自由と引き換えに失うものもある。そのひとつが、天才かそうでないかを気付く感覚ではないか。

そもそも、今までうまくいっていたものだって、今後どうなるかはわからない。ニッポン放送の「テレフォン人生相談」を再び挙げると、ラジオはすでに時間や地域を気にせず聴けるものだ。平日の昼に家にいる子どもも増えた。書き起こしや切り取りのアーカイブも増えていくだろう。

奇しくも、日本でも昨今はテレビのリアリティショーについて、そのありかたが問われている。一種の「リアリティショー」である人生相談についても、そのありかたを再考すべきだ。なぜ相談しようと思うのか。なぜ他人の相談が気になるのか。なぜ回答に怒るのか、悲しむのか、安堵するのか。同じ過ちを繰り返さないために。

Photo by Sachina Hobo on Unsplash