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「個性」で生きやすくなるとは限らないのに

「個性は美しい」と人は言う。しかし、果たしてそうだろうか? 善きものとしての個性しか見ていない可能性に、もっと敏感になったほうがいい。

少なくとも現在の日本で、病気や障害を「個性」と捉えようと言ってしまえることの愚かさよ、と個人的には思っている。

そんな中で起きた、今回の花王ロリエのKosei-fulプロジェクトにまつわるあれこれ。広告手法や広告のありかた、生理に対する態度について、今回は取り上げない。ここで言いたいことはひとつ。

このキャンペーンに反対したいと思うなら、病気や障害を「個性」と言うべきではない。

なぜならいずれも同じ問題を抱えているから。

「生理を“個性”だととらえれば、私たちはもっと生きやすくなる」
それは、
「障害を“個性”だととらえれば、私たちはもっと生きやすくなる」
「病気を“個性”だととらえれば、私たちはもっと生きやすくなる」
と同じことなのだ。

そもそも個性……とやら。それは、そこまで美しいものだろうか? 生きやすくなるものだろうか?

この夏のはじめ、エッセイマンガ『普通の人でいいのに!』(冬野梅子/モーニング月例奨励賞2020年5月期受賞)がバズった。

この主人公への共感の声が広がっていた。サブカルチャーが好き(特にお笑い方面)で、そこで繋がった友人がいる。中庸のメンタリティ。しかし、大切にしているものを「ただの趣味」と笑われたら怒ることのできる知性も持ち合わせている。それをコケにした(ように見える)周囲に鬱憤をぶちまかそうとするのだが……わたしは、読み進めるにつれて共感というよりも、ステキな人だなと思った。社会は彼女のような「普通」の行いで回っている。この作品が賞をもらえるのもバズるのも、そうあって然るべき。とても正しい。

彼女が嘆く「普通」に憧れる人もいる。わたしはもう諦めているが、生涯手に入れることができない。かと言って、天賦の才があるわけでもなく、ただひたすらに「普通」になれないだけ。「普通」と自覚したのと同じように、苦しさの中で茫洋としている。「普通」になれなないことを絶望しながら、逸脱を求める。

しかしこの苦しさを持ってしても、かつてわたしが大事な友人を傷つけていた過去は免れない。というのも、数年越しに、ある人を傷つけるのに加担したと知ったのである。「経理っぽいね」「経理すごい!」と言ったのはお酒の勢いでもなく、接待スマイルでもなく、本気で感想を述べたのに。「この小説よかったよね!」と同じ感覚で。わたし自身はずっと、その部分ができないことで心を削られていたから、できる人に最大限の敬意をはらっていたのだが。でもそこで「ごめん!」などと言うのはまた違う。謝ればいいってものではない。

何はともあれ、わたしのまわりで「個性」はいまのところ、生きやすさにはつながっていない。現場からは以上です。

Photo by Jason D on Unsplash

(補足)「ヒロシマタイムライン」二重の危うさについて

昨日書いた記事だけど、やはり補足が必要だと思う。

フィクションを描くにあたり、「ひろしまタイムライン」は、「烏丸ストロークロック」から監修として柳沼昭徳、広島を拠点に活動する「舞台芸術制作室 無色透明」からサポートとして坂田光平を迎えている。ただ、彼らがどこまでかかわっているのか定かではない。この状況で言えることは少なすぎる。

柳沼氏は地域に根差した演劇プロジェクトを行なってきた。東日本大震災後の仙台で完成させた「まほろばの景」も幾度かの修正を重ねて、上演を重ねている。

とにかく、放送局がこの企画を中途半端に進めたわけではないのはわかる。しかし、だからこそ、そこで生じた齟齬を、誰かが掬い上げることができなかったのだろうか?

結果的に、これは広島在住の「日本人」のための、「日本人」に向けたコンテンツだ。その「日本人」には、外国にルーツがある者は入っていない。そしてこのコンテンツは、日記を残すことができた割と恵まれた境遇にいる人が、良識者として代弁している。

その世界を見る目は一方的である。自分たちがどのように世界から見えているのかは気に留めていない。当時の「日本」と同じような図式である。同じ瞬間、世界には、別の視点で「日本」を見ていた人も存在していたことを、2020年のわたしたちは認識しているのに。

思うに、75年前の「当事者」の声を聞きすぎたのではないか? いま暮らしている75年後の世界で、どのように受け止めるかが重要なのに。声なき声の「間」を拾うというのは、そういうことではないはずだ。

これはあくまで推測に過ぎないが、Twitterで「上演」をするような感覚があったのかもしれない。ゆるアカウントがキャラを使って繰り出すツイートは、まるでセリフである。ただ、昨日の記事でも触れたように、Twitterは舞台とは異なる、開かれた空間だ。それゆえの危うさを抱えている。

もちろん、そこまでの意図があったのかは想像に任せるしかない。しかし、表面を見るだけでも、実験的なプロジェクトであることは確かだ。過去にも、ある意味「ネタ」として歴史をなぞる試みはあった。たとえば関ヶ原の戦いの同日、「今頃小早川が…」「ここで形勢が…」というツイートが流れたのだった。しかし、これは10ヶ月もの間行われる(予定)プロジェクトだ。これまでに例のない実験には、危うさがつきものである。

つまり、二重の危うさを抱えていることがわかる。そして同時に思い出すべきは、この街に原子爆弾が投下されたことに、実験的な側面もあったことだ。「実験」という意味を与えることは免罪符にならない。少なくとも75年後の2020年において、それと引き換えに人の苦しみを肯定することは、よほどの覚悟を背負う行為なのだ。

世界一危うい「マスメディア」のTwitterに登場した、救いのないフィクションについて

ほんの数週間前に好意的に受け入れられていたTwitterアカウントの企画がヒートアップしている。いまのところあまり言われていないけど、「Twitterというメディアをわかってない」「安易にフィクションに頼ることで【虚構】の力を萎えさせた」ということがヤバいと思う。だってNHKなのに。


そもそもの問題は……

そもそもの発端はNHK広島放送局が企画した「もし75年前にSNSがあったら? 1945 ひろしまタイムライン」である。これは3月から行われている試みで、当時広島に住んでいた3名(中学1年生シュン・新聞記者の一郎・新婚主婦やすこ)の日記をもとに、3人のキャラクターが発信する体裁をとっている。日記に描かれなかった部分は、想像しながら創作しちているという。被爆75年を機に、若い世代にSNSを通じてリアルに知ってもらおうという意図だそうだ。

今回、問題が指摘されたのはシュンのツイート。いまNHKの放送であれば通常使わないであろう言葉が散見される。どうしても使うべき場合は、断りの文を入れるレベルのものだ。どういうものだったかは、いまのところ載せるつもりはない。下記にアカウントを載せておくので、気が向いたら8月20日のツイートを見てもらえれば。

シュンのアカウントです。

これに対して、NHKの回答は以下のとおり。

[当時中学1年生だった男性にとって、道中の壮絶な体験が敗戦を実感する大きな契機になったことに加えて、若い世代の方がにも当時の混乱した状況を実感を持って受け止めてもらいたいと、手記とご本人がインタビューで使用していた実際の表現にならって掲載しました。]

https://www.nhk.or.jp/hibaku-blog/timeline/434538.html

これに対して「そこじゃない」というリプ・エアリプがついている。確かにその通りだ。

春先にこれを知った時にも嫌な予感がかすめた。「原爆から75年で節目の年なのに、だんだん当時を知る人も亡くなり、建物も朽ちていく……広島市でさえ継承が難しい問題」を取り上げていた番組で、この企画を語っていた。その「若者=SNS」という無邪気さに不安がよぎった。この方々はTwitterをわかっているのだろうか?と。


ツイートは全世界でアクセス可能な断片

Twitterは全世界からアクセス可能だ。アカウントから配信するということは、全世界同時にタイムラインに流れているのである。わからない言語でも、最近はGoogle翻訳がついているので割と読めてしまう。ただ「割と」読めるだけであって、トンデモ翻訳になっている可能性がある。機械翻訳が翻訳しづらい口語は誤解を招きやすい。つまるところ、全世界に向けて発信されていること、忘れてたのだろうな。日本以外のルーツを持つ人も、日本・広島に住んでいるのだが、それについても、考えていなかったのだろうと思う。ひどい。

さらに、ツイートはただの断片に過ぎない。今回「ツイートごとに注釈を入れたら」いう意見もあったが、それだけで140文字なんてすぐに埋まってしまう。熱心なフォロワーよりも、流れてきたツイートに「オッ」と反応することに気を配らなくてはならない。ネガティブな情報の拡散力は激しいのだ。

もとより、彼ら3名のアカウントのコメントは、割と古風な表現が並んでいる。そこには古き良き面影もあるかもしれない。同時に、亡き祖母が使っていたけど右翼としか思えない言葉がサラッと書いてある。全然よくないことけれど、当時は使う人もいたのだろう。阿久悠の『瀬戸内少年野球団』を小学生の時に読んで「この子たち怖い…」と思ったことがあるのだが、それと同じだ。

しかし、今回のようにヒートアップしない限りは、特に問題にされなかった。おそらくフォロワーになれば文脈もあるので「そうか、当時はこう考えてたのね〜考えさせられるな」とも思うだろう。しかしご存知のように、爆発的に盛り上がるのは、脊髄反射的なレスポンスだ。特に今回のようなネガティブな反応が炎上しやすい(ということを「NHK特集」か何かで観たばかりなのだが……)。


妄想による妄想のためのツイートの行く末

そもそも、これらの内容は真面目であってもフェイク的と言ってもいい。「いま」という言葉を使いながら1945年のことを書いているのだから。もちろんTwitterで架空のキャラクターが扮しているアカウントは数えきれない。過去のことを延々と載せるbotもある。しかしこれは、国を代表する放送局が送り出すアカウントだ。それなのに、フェイク的なbotを流して無責任が過ぎる。ツイートする時にデフォルトで「いま何してる?」と表示されるが、本来は「防空訓練終わった」などと答えられるわけがないのだ。

そして、どこまでが日記に書いてあった出来事なのか、どこまでがキャラクター創作なのかが不明瞭なまま、タイムラインは更新されていく。キャラクターが歩きだすということは、自然とそういうことになるのだが、この題材を使う時に適切だろうか? 昨年の「全裸監督」でも示しているように(その例を持ち出すことさえも「不謹慎」と言われそうだが)、現実をベースにフィクションを立ち上げるのは、なかなかの危ない橋だ。

極め付けは「#もし75年前にSNSがあったら」というハッシュタグである。

この「if構文」の使い方がまずい。あるわけがないのだ。それは想像力の問題ではない。SNSがあったら、そもそもああいう形での戦争は起きてない。これは歴史を扱う企画として、穴のあいた餡ドーナツを作るようなものだ。ふと思うことがあってもいい。けれども、それは単なる妄想だ。この人たちが「2020年にタイムスリップしてきた」なら、まだ良かったのかもしれない。

しかし、現実にまずいレスポンスをわたしは目撃した。それは原爆投下以降のツイートに対しての反応だ。「もしも75年前にSNSがあったら、励まし合えるからこんなに孤独じゃなったのに、やりきれない」といったもの。書いている人が真剣なほどツラくなる。禅問答のようなif構文ハッシュタグがツイートされるとき、「お題の答え」は「あったら良かったのに」を誘導する役割を担っている。それはミスリーディングだ。


無意識的なメディア選定の狂い

底本にしたのが日記というのだが、そもそも、日記とツイートは、だいぶ違う。ツイートは瞬間的にワッと言ってみるものだ。しかし、日記はそうではない。もう日記を書いている人も少ないとは思うのでブログでもいいが…いや、ブログとやはり違う。日記は「今この瞬間に見てもらう」のではない。10年後の自分や、後の世に誰かが見るかもしれないと思えども、すぐに誰かの反応を聞きたいことは書かない。その日の出来事を反芻して、書き留めることと、胸の中にしまっておくことを取捨選択して、記録する。ペンや紙が限られていた当時であれば、なおさらだろう。

つまるところ、この企画はハナから媒体を間違えている。「1945ひろしまタイムライン」という別のWebサイトを作り、そこで似たような仕組みを稼働させることだって可能なはず。

日記を口語体に直して毎日UPするのではダメだったのか?前にも書いたが、実際のSNSに流さず、「1945ひろしまタイムライン」という架空の次元をwebサイトに立ち上げるのではダメだったのか? 広島の日本人だけではなく、いろいろな当時の日記を時系列で見せていくという手段もあったはずだ。

最終的に、NHK_PRさんなどで「更新」をお伝えすれば、もっと広く知ってもらえたのではないか。


もはやTwitterは「マスメディア」

ここのところ、Twitterがキャズムを超える以上に広がりきった結果「マスメディア」化している。他のマスメディアと異なるのは、情報を発信する側も受信する側も「危うさ」を抱えている点だ。因果律が通用しないところで、突然炎上したり注目されたりする。

タイムライン機能は人の目が追える限界に挑戦しているので、自分のタイムラインに複数上がっていたら「すごい話題」だと錯覚してしまう。ひとつひとつはそうでもないけど「それぞれ」が「みんなが話題にしてる」と錯覚した時に「Twitterで話題」になる。しかし、ほとんどのバズの数字は、従来のマスメディアからするとたいしたことのない範囲だ。テレビの視聴率1%は、誤差はあれど100万人程度に換算されるといわれている。平均視聴率が1%台の番組は、景気が悪そうに感じるだろう。しかし、一度に100万ビューというのはとてつもない数字に思える。それがマスメディアに登場するだけで、マスコンテンツになる。

多くの人が気付いている通り、最近テレビのニュースや情報番組で「Twitterで話題」「ネットで注目」というコンテンツが増え過ぎている。「こんな過激な意見がある」「こんな動画がある」という事実を従来のマスメディアが流す時、それは突如マスコンテンツとして再生成される。

「Twitterで話題」というコンテンツは、ほとんどの場合は「あぁ知ってる」という情報だろう。どこでも観られない、かわいい特ダネを見つけることをしない。いっそのこと、番組スタッフのニャン子姿をインスタにもTwitterにも上げず、その番組だけ流したほうが、よほど観る価値があるだろう。

もちろん、ツイート内容に関する規制はない。たとえば民放連に代表されるような業界団体もない。けれども実質的なコンテンツの拡がりからすると、もはやマスメディア並に影響力を持っている。それでいて、最終的にはあくまで個人の意見であると収斂されていく。


Twitterアカウントのキャラ変

企業やサービスの広報として「中の人」やキャラクターが扮する、ゆるアカウント(軟式アカウント)は人気がある。特に広報アカでは異動による「中の人が交代します」卒業ツイートへのレスがつくほど。他社のアカウントの発信にかぶせて、自社の商品をアピールしたり、コラボが決まったり……人間味のあるやりとりがTwitterの良さのひとつと思われてきた。けれども、だんだんとそうではなくなっている。

Twitterの日本進出が整った2009年頃から、このようなアカウント開設が相次いでいた。いち早く自国の新サービスとして活用していたアメリカ市場でも同様だ。というより、たぶん真似をしたのだと思う。しかし10年以上が経過した2019年に入ってから、先行するアメリカでは、そのようなアカウントへ一般の人が冷めた視線が目立つようになってきたという。「中の人」がミームを生み出す内輪ウケに食傷したようだ。

ウケ狙いのゆるいSNSが「オワコン」な理由/東洋経済ONLINE

コミュニケーションの軌道修正をしているアカウントは増えているようだ。しかし日本では……ゆるアカウントがここまで増殖してしまっては、もう手遅れかもしれない。現実にもゆるキャラがたくさんいるのだから。

今回作られた3つのアカウントも、その延長に過ぎなかったのだろう。


フィクションの暴力性に対する脇の甘さ

そもそも、この取り組みは正解なのだろうか? ある惨禍を当事者以外がフィクションにすることについて、国内でもいろんな見解が交わされてきた。記憶に新しいのは東日本大震災のことだ。当事者以外が描く「震災後文学」については語るのが難しくなっている。原発についても、津波についても。

そもそも「戦争を知らない」世代が経験していない戦争を語ることについては始めから批判されているし、その世代が中心となった学生運動ですら、その後の世代の切り口は変容を指摘される。いずれにせよ、この国で当事者以外がフィクションとして記すときの解は、まだ得られていない。

ましてや、実在の人物をトレースしたキャラクターを「操作」するには、たいへん高度な技術が必要なのだ。「虚構の物語」を描く作家として緻密な仕事が求められる。

まずは文語調で書かれたものを、今っぽい喋り方でリライトする難しさ。橋本治の「桃尻娘」や大和和紀の「あさきゆめみし」の完成度に近づくには、どれほどの文学性が必要だろうか。企画において、日記に書かれていない日の出来事は、他資料を参考する、想像してみる等でツイートを続けているという。どうしてここまで現在に寄せてくるのか。今っぽい喋り方をすることで、日記の中のそれぞれの振る舞いの違和感が生じてくる。それはもう、キャラクターがちゃんと動いていない状態だ。

実際には、作家を入れるなどはしていないようで、この辺りに覚悟の足りなさを感じる。虚構を立ち上げる時に、通常のTwitterアカウント運営のノウハウは通用しない。全く別の技術が必要なのだから。


本当に求められる虚構の力

過去の惨事を固有名で向き合う時に、虚構の持つ力は絶大だ。もちろん、ある種の暴力が発生する。しかし、事実と対峙するには必要なことだと思われる。HBO制作のドラマ「チェルノブイリ」の受容について、昨年盛り上がったことを忘れてはいけない。

【 #ゲンロン友の声 】私たちは今できるかぎりの虚構に触れるべきなのだと思います。/genron note

ドラマ『チェルノブイリ』、事実がまっすぐ伝えられない状況は、まさに今の日本の姿だ/速水健朗:Newsweek Japan

SNSの台頭によって、わたしたちはもうずっと「事実は小説より奇なり」という言葉に支配されていないだろうか? しかしそもそもは、バイロンの作品の中で生まれた言葉である。密着ドキュメンタリーには作れない虚構の力はまちがいなく、あの戦争にだって適用されるものだ。

そしてこの企画、下記のイタリア制作の番組に着想を得たのではないかと推測している。何かしら、少なくはない影響を与えているはずだ。先日、NHKで放映もされた。

『#アンネ・フランク 時を越えるストーリー』

しかしこちらは立て付けが圧倒的に違う。こちらはSNS世代の若者が、アンネ・フランクの足跡を巡り歩き、本人の視点で「アンネの日記」を読み解くドキュメンタリーだ。日記をリライトするだけではなく、実際に歩き、その場所に触れて、自分の考えを組み立てていく。この映像を通して私たちは、その様子を追体験することができる。その時、視聴者も自分なりの答えも出せるかもしれない。

いずれにせよ、そのような力強い虚構の力を使うには、Twitterのゆるアカウント運用では荷が重かったはずだ。安易にフィクションを作り出したのは、ただの無意識だったのかもしれない。しかしその無意識的な行為が、メディア自らが媒体を取り違えていることを白日に晒した。ましてや、今回のことを単純化した「フィクションは紛い物」のような論調が出てくるかもしれない。そもそも停滞している事実から虚構を立ち上げる機会が、ますます限られてくる。ここに「現在の日本らしさ」が凝縮しているのだが、これで終わっていいはずがない。元にした日記は現実に存在しているのだ。願うのは、無闇な中止でも単なる続行でもない。伝えようとしていたことを現代の文脈で捉え直すコンテンツにつなげる方向に話が進めば、ひとつ変われるはずだ。そうでなければ、誰も救われない。

敗戦75年目の「ゆきどけ荘」

7月下旬に、こんなサイトが公開されていたのをご存知だろうか。就職氷河期世代への支援ポータルサイト「ゆきどけ荘」という政府広報Webサイトだ。「ゆきどけ荘」に集まる住人は就職氷河期に遭遇して今でも困難を抱えており、大家さんが彼らの悩みに答えていくというストーリーが展開されている。これを公開するという行為はディスコミュニケーションの極みであり、8月15日にしげしげと見ると「さすがは日本」としか言いようがない(もちろん皮肉)。

知名度はいまひとつだと思う。SNSプロモーションを主にしているからか、おそらく見る人が限られている。Twitterでザッと検索すると「ターゲット」の否定的なコメントと「ターゲット」より下の年代の嘲笑コメントが目立つ。「ターゲット」と同年代でも「普通に新卒で正社員になって今も働いている人」には無関係なので見向きもしない。何より「当事者より上の世代」は目にする機会も少ないようだ。彼らの声は、おそらく交わることがない。

時期的にもCOVID-19関連ほどのインパクトもないからだろう。内閣官房が旗を振っているのに、特に誰も気にしていない。正義の盾に使うのは勘弁してほしいので、攻撃対象に挙がらなくてよかったけど、就職氷河期のことなんて、無かったことにされているという表れだ。

もちろん誰かの制作物である前に、「OKを出した=これじゃないとOKを出さなかった」のはクライアントである。政府・内閣官房、関係各所との紆余曲折あったことはふまえても、天を仰ぎたくなるキャンペーンだ。予算が足りなかったんだと思うけど……。マズい点を5つ挙げてみる。

1)これがポータルサイトなのか
まず、ポータルサイトと名乗りながら、その役目を果たしていない。情報の更新が遅く、目的の情報にたどり着くまでの導線が長くなるように設計されている。制作者も本当は「ポータルサイト」とは思ってないだろう。本来の提案では「ポータルサイト」部分があったけど、そこまでしか予算がなかった可能性もある。

せめて総務省のこのページの更新をお知らせするだけでも違うはずだ。
「地方公共団体における就職氷河期世代支援を目的とした職員採用試験の実施状況」
このお盆時期に「就職氷河期枠」の公務員試験のエントリーが結構多い様子だ。ということを記事を書くために調べてる途中で知ったのだが、ポータルサイトとはそういう役割を持つべきもの。いっそのことファーストビューで検索窓でも設けておけばよかった。

注ぐべきところに予算を使わない、ディスコミ傾向の広報……発注元が同じだと、どの案件も似たようになるということだろう。

2)才能のムダづかい
そして、今日マチ子さんをムダづかいしている。「税金が〜〜」などという問題ではない。そんなことは正直どうでもいい。ただもったいない。本来ならこの題材と相性がいいはずなのに。次からの項目とも関連する話だが、理由のひとつは単純な類型化をしすぎたのだろう。「支援施策一覧」を見ればわかるように、掲げている施策は20個もあるのに、ケース紹介が3組に集約されている(しかも、すべて網羅されていない)。キャラクターが自由に動いていないところが歯痒いところだ。

3)正社員じゃないとフリーター
「鈴木スミレさんのストーリー」のサブタイトルは「わけあってフリーター」である。その紹介文にのけぞったのはわたしだけだろうか? 内閣官房の認識では、非正規雇用というだけでフリーター。まるまる引用しておく。

[仕事熱心な鈴木さん。しかし、学生時代の就職活動では希望の仕事につけず、⾮正規雇用を転々としている。今の会社は5社目。真面目な勤務態度が会社にも評価されているが、正社員になれる目途はない。正社員として働くことを望んでいるものの、正社員の経験はなく、自信をなくしている。]

とのことだ。
このストーリーでは、大家さんに公務員をすすめられてヤル気を出して終わる。非常勤で公務員してる人はどう思うんだろうか?(※ここですすめられてるのは、特別枠の公務員のことですが)ちなみに彼女は34歳設定。

4)寄り添いなどしない
「田山テルさんのストーリー」はどんなストーリーなのかがよくわからない。紹介文がすべてである。また引用してみる。


[勤勉で⼏帳⾯な田山さん。就職したい気持ちはあるが、6年前に勤めていた会社で派遣切りにあったトラウマから、就職活動をしていない。とくにやりたいことや、これといったスキルもなく、何から⼿をつけていいのかわからない。
働きたい気持ちはあるものの、40歳になり、もう自分には無理なのでは、とあきらめつつある。]

とのこと。それって6年後の鈴木スミレさんと入れ替わってないかな、などと考えてしまう。(そんなわけないけど)
「あなたにもいいところがあるじゃない」とフワッと褒めつつ、結局のところ「とにかく働け」しか言わない。「とにかく何も考えなくていいから投票しよう」という呼びかけと同じ構造だ。

5)ひきこもる人の話は聞かない
ここまでくると大喜利状態ですが、「佐藤ご夫妻のストーリー」がすごい。ひきこもり状態の44歳・息子と同居中の70代夫婦の悩み相談。また引用する。


[不登校からそのままひきこもりになってしまった、息子の佐藤ヒトシさん(44歳)。外に出るのは、たまにコンビニに行く時ぐらい。同居しているご両親のシゲオさんとヨシエさんは、誰に相談することもできず、時間だけが過ぎてしまった。自分たちも70代になり、これからのことを考えて不安をつのらせている。]

ということだが、一番不安なのはヒトシでは?
しかし大家さんは夫妻をねぎらうばかり。内閣官房としては、ヒトシの話は聴くに値しないようだ。

このような点で、いまの「日本」の一端が垣間見れるわけです。「さすが政府広報」と言いたくなる(再・皮肉ですからね)。

とはいえ、笑ってる場合でもない。今日は2020年8月15日、敗戦から75年目だ。実はこの日にも通じている。加藤典洋さんの『敗戦後論』を援用すれば、ずっと負け続けているのに負けていないフリをしているのかもしれない。

こじつけでもなんでもない。戦後の営みの積み重ねが、就職氷河期という状態を作ったのだ。しかし、正規ルートから外れた人に「負け」を押し付けるだけで流されてきた組織は結局のところ自らも脆弱になっている。それは自治体で、企業で、業界で。さまざまな場所にある日本の社会という組織のことだ。そして戦後75年目のいま、世界で流行っている感染症に晒されている。

来春の新卒採用は厳しいという。さまざまな予測によると「団塊世代がいないので、人手不足が起きるので就職氷河期は来ない」とされている。学生時代からの起業も以前にも増して活発だし、働き方もますます柔軟になっている。しかし、この耳触りのいい言葉は、前にも聞いたことがある。まさに就職氷河期まっただなかに聞こえてきた言葉そのままだ。「負けてなどいない」と言うことは、実は何も変わってないのではないか? (こんなことを言うのは、正規ルートから外れてる自分としては、セカンドレイプ的な苦しさがあるのだけれど)

自分のいる社会は、過去に愚かなことをした。そこで暮らす自分も愚かなことをするかもしれない。だったら、そうしないためには何をするべきか? そんな想像力を働せるには「愚かなことだ」「負けた」と認めなければ始まらない。理由がわからなければ、対処しようがないからだ。

『敗戦後論』ではただの事実として描かれているのだが、戦後すぐには「明治人」「大正人」「昭和人」がもの言う世代として同居していた。その状況、ある意味では今に似ている。つまり、まだチャンスは残されている。しかし無限ではないし、個別の死はすぐ隣にあることもまた事実だ。25年後、わたしがまだ生きていたら、敗戦100年目に何を言っているだろうか。もう少しマトモなことを言っていると良いのだが……。(そしてその頃、就職氷河期世代が「定年」を迎えることになる)

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「おもてなし」を世界に掲げた東京の無意識レインボー

なんで、みんな言わないんだろう。
いや、もうしょうがないと思っているのかもしれないけど。

東京都が「感染拡大防止ステッカー」の活用を呼びかけている。東京都が設定したガイドラインに沿った対応の申請をした事業所や店舗に発行する貼り紙について。都のガイドラインでは、主に人と対面する業種ごとに対策が振り分けられていて、それを遵守した店舗・事業所にステッカーの掲示を認める制度だ。

各自治体でこのように「お墨付き」を与える制度はできているのだが、目にした中で東京都のデザインがいちばん酷い。「かわいくない」「ダサい」そういう言い方も有りうるが、嗜好の問題で片付けられそうなので、もっと強く否定したほうがいいと思う。世界を「おもてなし」しようとしていた自治体としては「失態」とも呼べるものだ。

一目瞭然、モチーフとしてレインボーが使われている。2020年の夏に、東京で。なぜ、あえてのレインボーなのか。虹色のものを身につけること、掲げることは、LGBTQを否定しない、普通のことだと表明する印でもある。虹がLGBTQのものだと言いたいわけではない。しかし、もしも予定通りにオリンピックが今頃開かれていたとしたら、どうだろうか?イベントや店舗で自治体が認証した揃いの虹色のステッカーがあれば、そういうことだと思う方が自然だったはずだ。「グローバル的」な流れではその方が多数派なのだから。

それなのに。

「感染拡大を止める」と全く別の目的の意匠でレインボーを使っている。これはおそらく、全くの盲点だったのだろう。もしも「そのような意味も込めました」と後付けしようものなら、さらにひどい話である。

たとえば、こんなことも予想される。日本語…というより漢字が読めない人がこれを見て、とある飲食店に入ったとしよう。もしかしたらその人は「あぁこのお店は安心できるのかも」と思うかもしれない。仮に当事者でなくても、変な話を聞くことがないとわかる場所は、ホッとできる。それなのに、聞こえてくるのが店主と他の客の差別主義的な会話だったら? そして……あまり考えたくはないけれど、「感染防止対策をやってるけど、それだけで、そんなつもりじゃない」と言う人だっているだろう。残念ながら。

この話、半分は実話だ。このあいだ偶然入ったお店がこのマークをしていたのだが、耳を覆いたくなる話を「店主が」していた。すぐに出たけれども。

つまり、誤解だらけで、誰にとっても迷惑なデザインだ。これで本当に世界に向けて「おもてなし」しようとしていたことを思うと、滑稽さすら感じる。

https://www.seisakukikaku.metro.tokyo.lg.jp/cross-efforts/corona/anewnormalwithcovid19.html

さらに、仕組みの設計にも問題がある(すでに言い尽くされていることだが)。

基本的には用意されたデータを各自で印刷する。印刷できない場合は郵送できるが、原理的にコピーも可能だ。むしろ推奨している。ましてや、ステッカーの掲示がないと店舗・事業所の営業できないという性質のものではなく、ただの呼びかけに過ぎない。

そんなザルのようなステッカーだが、掲示するための申請は、さまざまな情報を渡さなくてはならない。事業所名や住所、電話番号などを東京都のHPに掲載される。取材NGや連絡先のメディア非公開でやってきた事情などは考慮されない。また、東京都あるいは「その指示を受けた者」の立入検査を拒まないことをに同意する必要がある。しかも「場合によってはオープンソースとして第三者に公開されるかも」という項目には最初からチェックマークが入っている。どこかのECメルマガのようだ。

https://www.bousai.metro.tokyo.lg.jp/taisaku/torikumi/1008262/1008420/index.html

それでも多くのイベントや店舗で使われているのは、背に腹が変えられないからに決まっている。

ここ数ヶ月、クリエイティブの力の必要性が語られる場面が増えた。確かにこういう齟齬が起きないように、クリエイティブの力は活用すべきだ。ただし、それは決して未来の話ではない。現在進行形の課題として、わたしたちの日常のそばにある。少し前に一部で盛り上がったローソンのPBパッケージリニューアルより盛り上がらない。いくらインフラ的な側面もあるとはいえ、ローソンも民間企業。東京都の政策は大手企業の経営戦略よりも公共に関わる問題だ。もしかしたら政治的な配慮のなさはもっと強いインパクトを持っているかもしれない。多くの人は、距離が近すぎて見えていないのだろうか。

それにしても。こんな時に、ほんとにどうしてやってしまったのだろう。全くわからない。意見を通せる立場の人だっているはずのに。その立場にある人が口をつぐんだのか、その人の訴えが聞き入れなかったのかは知る由もない。ひとつだけ言えることがある。2020年の夏に「虹」を無意識に選んだ自治体が世界を「おもてなし」をするのは簡単なことではなかった、それだけだ。

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