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そして「X」へ

その日は、突然に。本当にやってきた。イーロン・マスクが買収するとかしないとか。「Twitterなくなるってよ問題」だ。最終的にTwitter社自体がなくなって、「いつか来るだろう」とは思っていたけど、もう本当に、突然の出来事だった。イーロン・マスクが「Twitterやめて、Xだから」と言った数十時間後、青い鳥のアイコンは「X」になってしまった。

UnsplashZane Leeが撮影した写真

geocitiesが消滅するとき、まるで限界集落を先取りで見ているようだった。Twitterの場合は、真の変革をするためには、衰退を見守るよりも物理的に殴るほうが確実なのだというひとつのモデルを見ている。

やはり「X」は大事。記号としての「X」は。……そんなことを書いていると誤解されるかもしれないが、わたしはイーロン・マスクの信奉者ではない。本当にぜんぜん違う。

ただ、やはり未知の変数Xは捨て置けない。「X」は少しの間隙など、ものともせずに次を作っていく。


さて、Twitterが作る「ゆるふわ」な世界は、ただの幻だったとしても。虚空に会話をすることで満たされた心の平和があったことは覚えておきたい。

何か本当に世の中(「セカイ」ではなく)を変えることができるのではないかと、ほんの少しの希望が灯っていたことは悪くなかった。Twitterが「キャズムを超えた」瞬間に、それが起きるのかと期待したけど、それはかなり間違っていた。それすら覚えておいた方がいい。「キャズムを超えた」瞬間から、変容の一途をたどっていた。そもそも、結果的に「#MeToo」が生まれたのであって、最初から「正しい情報」の場を作ろうとしていたわけではなかった。この辺りは、後の世に誤解されないか心配だ。

そして、破滅に至るも人々はどこか他人事だ。結局最後まで、大喜利的なTweetが生まれては消えていく。Facebook(というかMeta)が始めたThreadsは、たしかに初期のTwitterのようだ。が、その大喜利的な何かの気配まで進出している。人は学ばないらしい。


世代論でくくるのが大雑把すぎるのは承知の上だが、「Generation X」、そしてその子ども世代である「Generation Z」が現代の資本経済で主役になっているのをヒシヒシと感じてしまう。間にはさまれたミレニアム世代(日本ではロスジェネ世代)からすると、なんとも言えないのだが、さては隣の芝生は青いというやつに過ぎないだろうか?

ちなみにどうでも良いことだが、パンクバンド「Generation X」のビリー・アイドルがどうしているかと彼のTwitter(X)アカウントを覗いてみた。すると、67歳で元気に活動中であるとわかった。すごい。

さらに蛇足になるが、このバンド名の由来と言えば、ビリーの母親が持っていたジェーン・デヴァーソンの『Generation X』に由来するという逸話が定説となっている。世代名は、ダグラス・クープランドの『Generation X: Tales for an Accelerated Culture』で世間に膾炙したものと思うけど、なんとも言えない偶然であり必然。

↓中古しか出回っていないようですが、意外とこの辺りは電子書籍などになると売れそうな気がする。


Twitterの画面を観てみよう。今のところ、青い鳥のアイコンだけ去って行き、「X」というロゴに書き換わっているのだが、各種ボタンやリンク処理には、元のブルーがそのまま残っている。なんとも突貫工事っぽい。そういえば、少し前から「認証を受ける」「フォロー」のボタン(PCブラウザ版の右カラムボタン)は、スミ一色になっていた。そういうところはスタートアップ的な香りがする。せっかくだったらドラスティックにすべてが変わるような仕掛けにしたらリッチな感じがするのに……と思ったものの、もしかしたら課金している人にはそうなっているのかもしれないな。

そういえば、少し前にイーロン・マスクがThreadsの表示を「Twitterと酷似している」と言ったのって、実はこの「X」の画面のテストアップと似ていたのかもしれない。結果的に後発になってしまったので、とりあえずブルーを残している可能性もあるのか、ないのか。それこそ、本意はイーロン・マスクしか知りえないし、自身も分からないのかもしれない。

ここ10年以上、ビジネスで「デザイン」が大事なのだと言われ続けてきたけれど、実際にものすごく成功した(ように見える)イーロン・マスクの振る舞いを見ていると、それもまた怪しく思えてくる。
※ただこれは特殊事例に違いないのだが。

「Twitterなくなるってよ問題」は、当分の間続くだろう。いろいろな意味で、時代のはざまに生きている実感をもたらす。そして、それにしても。仮にも「Z」だったら厄介な世の中であることも、考えずにはいられない。

国立競技場に映るは国の真影

神宮に建つ国立競技場を真上から見ることが増えた。このあいだ見た写真は、どういう加減だか光が反射していて、まるでオーバル型の鏡のようだった。

開催が迫るなかでオリンピック関連のニュースには、いくつも論点があり、すべて拾うと枚挙にいとまがない。ただ、TOKYO2020というイベントが現在を映す鏡であるという観点から見ていくと、焦点が定まってくるように思う。

いろいろあったけれど、やはり大きかったのは7月15日、オリパラの開会式・閉会式の概要が発表されたことだ。ビッグニュースではない。しかし、ちょっとしたリリースが大きなニュースになってしまった。(※パラリンピックについては、未発表の部分が多い)。

造語乱発のコンセプト

まずは、コンセプトが謎に満ちている。公式のリリースは以下です。

東京2020大会開閉会式4式典共通コンセプトならびに東京2020オリンピック開閉会式コンセプトを発表

https://olympics.com/tokyo-2020/ja/news/news-20210714-03-ja

何が何だか? という感じだが、抜き出してみると、こうなる。

【オリパラの開会式・閉会式共通コンセプト】
Moving Forward

【オリンピックの開会式コンセプト】
United by Emotion

【オリンピックの閉会式コンセプト】
Worlds we share

なかなか破壊的である。たいして英語できるわけじゃないけど、なんか変じゃないか……United by Emotion……SFの世界みたいなのを楽しめばいいかもしれないけど怖い。でもたぶんこれ「エモい」ってやつを使いたかったんだと思うから哀しい。ただの憶測ですが、企画書段階の「コンセプト」がそのまま使われているような気がする。作業チーム内でイメージを共有するために使われる、インナーコミュニケーションとしての言葉を作るというのはあるから。それにしても謎が多すぎるけれど……。

補足を入れながらざっくりまとめると、こういうことだと思う。

TOKYO2020は「進め、その先へ」(訳はイメージです)というスローガンの下繰り広げられる夏の祭典です。まずはオリンピックは「つながる心」(訳はイメージry)で始まります。オリンピック競技はここでいったん幕が降りますが、舞台は続く。「多様な世界が広がり、接続」(訳はイメry)され、その情熱はパラリンピックにつながっていく。

もとから開示されている資料によれば「起承転結」で4つの開会式・閉会式を表そうとしていたので、こんな構造だと思う。パラリンピックの開会式・閉会式のコンセプトは次回発表するらしい。(そうそう、だから第一報では、パラリンピックの開会式・閉会式のメンバーは発表されてないのだ)

このおかしさを、日刊スポーツがインタビューすると、こうなる。↓

https://www.nikkansports.com/olympic/tokyo2020/news/20210714000127五輪パラ開閉会式統括、組織委日置貴之氏が共通コンセプトに込めた思いとは

https://www.nikkansports.com/olympic/tokyo2020/news/202107140001278.html

うん……。なるほど。たしかに、日本語のひとことでは表せない概念があるのは認めよう。しかし、他の言語で言い換えできないほどの抽象的なメッセージでは伝わりづらいはずだ。 せめて、国連公用語ぐらいは用意するべき。そうだ、つまりは英語圏じゃない人のことを考えていないのが透けて見える。

「それぞれの解釈にゆだねる」という言語感覚に対する鈍感さや知性の欠如が哀しくもある。しかし、このボンヤリとした感じで留めおこうとするのは、ある意味で日本らしいと思う。世界標準を目指しているのに逆説的ではあるが。

まぁなんというか代理店営業が使いがちなノリでもあり、氏のことを悪く言いたくなるだろう。しかし日刊スポーツの記者だって、この人がどうやって見えるか計算した上で掲載をしているわけで、わかりやすい「代理店っぽさ」も加味されているのかもしれない。十分に露悪趣味的だ。


ジェンダーバランスについて

半ば忘れられそうになっているが、最初に指摘が相次ぎ、タイムラインを騒がしたのは、ジェンダーバランスについてである。「女性を締め出した」とか「女性がいない」といったツイートをしている著名な方もいた。

たしかに、女性比率は少ない。責任のある立場にある女性が少ないのは、本当によくないことだ。締め出されてきた歴史が表れているのはまさに、その通り。 けれども「女性がいない」と言ってしまうのは、もっとよくない。きちんと名を連ねている女性の立場はどうなるのだろう。

たしかに「ダイバーシティを標榜しておきながら何たること」と言うのは簡単だが、ない袖は振れぬ、である。この状況で、いきなり開会式・閉会式の体制図が男女比率が半々の組織になっていたら、夢のような話だが、かえっておかしい。

むしろ、こうなることは折り込み済みのはずだ。総合演出の後任を充てないということが発表されている、ということだけではない。日常的に女性がリーダーとして進めるプロジェクトが極端に少ないのだ。

人とモノ、カネを動かせる(実績のある)女性が日常的に活躍していれば、延期に伴うプランBにおいても選択肢は広がったはずだが、 日本にはそれだけの素地がない。何もオリンピックの組織が独特なのではない。今の日本の社会からすれば、無理からぬことだ。その国以上のものはできない。

そして最後に、あまり気が進まないけれども、言っておかなければならないことがある。現在の状況で「女性であること」を背負いながらTOKYO2020に反対せず、リーダーとして動ける女性がどれくらいいるだろうか?

その意味で、またしても女性が「守られ」てしまった。これは、如何ともしがたいところで、歯がゆさを感じる。古風なフェミニズム……女性は守らねばならないという、例のダンディズムに結果として「守られ」たのだ。 たしかに、ここには男性が「排除」してきた歴史が繰り返されている。それと同時に、女性だって求めなけば道は拓かれない。

そもそも、大会が掲げる「多様性・調和」は、男女の比率だけでは決まらない。それが最初の一歩だとしても、全てではない。LGBTQ+というならば、なおさらだ。しかしながら、 アファーマティブアクションが一通り済んだ国と比べられないのが哀しいところ。

結局のところ、開会式・閉会式の姿は、この国を鏡の中に映しだした影なのだ。目をそらしたいけれど、見てしまうだろう。わたしが見ないフリをしたところで、世界は今日も回っているのだから。


サブカル最強?神話

ようやく最初の話を終えることができた。次はサブカルの件である。ジェンダーの問題と同じような世界が広がっている。

リオのクロージングの時も思ったことだが、レガシーを大切にするにもほどがある。サブカルを引っ張り出してくるのは致し方ないとしても、キャラクターの登場の仕方が、21世紀に入ってからの日本て微妙な存在感だったんだな……と思いながら見ていた。首相がマリオの恰好をして登場するのにポーズを決められなかったことを含めて、いろいろズレていて、哀しい。

妄想だと一笑に付していただいても構わないが、あのときに奇妙なズレが起きたことで、人々の認知に歪みがでてしまったことも考えられる。以降、TOKYO2020で大事なことほど、なにかとズレが見られるようになってしまった。それが開催直前まで続いているのだ。

もちろん、具体的な開会式・閉会式の内容を知る由もない。しかし、演出まわりを含めて、かなりざっくりと言えばNHKのEテレ「デザインあ」周辺のチームが目立つ。ベタ過ぎず、アーティスティックでもあり、マス向けのコンテンツメイキングもできる、ちょうどいい塩梅のセレクトには見える。

ただ一方で、ボンヤリとしたコンセプトとは打って変わって、賛否はともあれ、どんなイメージで発信したいのかという意志が明確に表れている。1990年代のTOKYOカルチャーをハブにしたいのだろう。

音楽監督の田中知之氏がユースカルチャーの旗手として注目されたのは1990年代後半。1995年(阪神大震災・オウム真理教サリン事件・ウインドウズ95・コギャル)の直後である。この頃から、カウンターカルチャーとしてのサブカルは、どんどんポップに、世の中の標準になっていく。現在2021年の「推しトレンド」も一連の流れの中にある。

時は流れ、あのころの尖った若者もいい大人になった。ただし、それと同時に、人生100年時代と考えれば、50代は折り返し地点である。しかし若者から「おじさん・おばさん」にしか見えない。そのギャップは日常の至るところで見られるのだが、強みでもある。幼少の頃の写真にカラーフィルムが少ない世代は、昭和をちゃんと知っているが、今の世の中も知ろうとできる。ほかの年代よりも、幅広い年代を結び付けやすい文化資本を持っている。そんな彼らがハブになり音楽を紡ぐしたら、それはそれで意味があるのかもしれない。

しかし、そうだとしても、それはカルチャーの一端でしかない。カルチャーというものは、サブカルだけで出来上がっているのではない。ポップミュージックがさまざまなジャンルと親和性が高いとしても、個別の話だけしていたのでは全体が見えづらくなる。

ましてや、2000年代、2010年代、その20年間の積み重ねが、現在である。であるとしたら、この20年間は何だったのだろうか。延期で予算が削られた結果として、その問いに真正面から答えられるものにならないとしたら、脆弱な日本の姿がオーバーラップすると見れば良いのだろうか。

だが、しかし。考えてみれば、1995年以降、東京都知事はどちらかと言えばサブカルチャー、特に大衆メディアとの結びつきの強い政治家ばかりだった。青島幸雄、石原慎太郎、猪瀬直樹、舛添要一、小池百合子。こういう都政に慣れすぎてしまったのかもしれない。

それにしても、東京都の職員は、もはやそのほとんどが、選挙のたびに著名人が社長に来る状況で生きてきた。これは普通の自治体だろうか?

それでもなお、自治体の仕事が滞りなく継承されていったのだとしたら、首長は誰がやっても同じなのかもしれない。だから選挙も「誰がやっても同じだよね」という雰囲気が蔓延する。これは国政にも当てはまるのではないだろうか(それにしても、小池都知事ってびっくりするほど公約守ってないな……)。

やはり、日本そのものが投影されていると言っても過言ではないだろう。


キャンセルカルチャーは世界標準で

しかし何より、小山田圭吾(コーネリアス)という名前が出たことによる大炎上だろう。わたしは母親に、もう何十回目かの「コーネリアスはバンド名じゃなくて、屋号みたいなもの」と伝える羽目になった。結果的にリリースから4日後に本人から辞任の申し出があり、彼が担当するはずだった冒頭の4分間をほかのチームが調整するに至っている。

素朴な感想として「なんでこの仕事うけちゃったんだろう」という問いかけをしたくなる。とはいえ、すでにNHKで大丈夫になったのだからOKだ、という判断があっても不思議ではない。それは本人が考えたのみならず、周囲も同様で、世間一般でそのように解釈されていると思ったのではないだろうか。

くだんのインタビューを知らなくても、「昔は品行方正ではなかったが、Eテレをやっている」と世の中の人が思っている……と、わたしなどは純粋に思っていたのだが。そうではなかったらしい。そこまでメジャーな存在ではなかったのだ。もしかしたら、今回の騒動でキャズムを超えてしまったのかもしれない。なんて皮肉だろう。

そして個人的には、今回の件は日本におけるキャンセルカルチャーの事例になるかと思っていた。これだけ世界標準なのか? と。しかし、「それにはあたらない」と考えている人も多い。そうなのか、そうなのか? いや別にキャンセルカルチャーの枠でなくても構わないが、このやり方はエグい。賛同する人はみんながみんな、子どもの頃の非業を晒されて仕事を失っても、自分の子が危険に晒されてもいい、という覚悟でTwitterをやってるのだろうか?

たしかに、あのインタビューは酷すぎる。人をおとしいれ、苦しめる行為をわたしは憎む。しかしながら、2021年にもなって「目には目を」のハンムラビ法典のモチベーションで動くのはできるだけ避けたい。もちろん、高潔な振る舞いだけで世の中が動くのは理想だ。しかしながら……わたしの目の前で繰り広げられたものは、ただのリンチにしか見えなかった。

しかも、辞任と決まったら即座に「冒頭4分間で何をやるか」「どうせならこういう開会式にしよう」という代案が大喜利のように出てきている。既視感があるのは、あのロゴ問題と状況が似ているからだ。外から代案を考えるよりも、自分に何ができるかを考えるほうが先だと思うのだが。これでは、ただのインターネットミームだ。

いいか悪いかは別として、そのような行為が特定の媒体に出ることができる時代も、確実に存在していた。それがよかったとは言わない。けれどもみんな、ついこの間までのいろんなことを忘れてしまったのだろうか。雑誌にインタビュアーの校正が入るようになったのは、後世の習慣だった。少なくとも10年ぐらい前までには「取材記事チェックをしない雑誌」は少数派になっていた。そのことで、新聞社が責められることも増えているほどだ。

そもそも、雑誌のインタビューは取り調べ調書や契約書ではない。すべてが事実通りとは限らず、その点も加味すべきだ。巷で「武勇伝」とされるものが「右の通り事実の相違はありません。捺印」ぐらいの厳密さで正しかったためしがないだろう。しかし、すべてが「証拠」になってしまう。

若い人には誤解してほしくないのだが、校内暴力やいじめが「いいこと」とされた時代なんてなかった。

マットで圧死する人がいても、飛び降りるまで追い詰められる人がいても、ものが食べられなくなるぐらい傷つけられる人がいても、暴力はなくならない。反省文を書かされた人だって、別の場所に行ったら同じことをやられる。そんなループする日常が続いた挙句、何も持たず社会へ放り出される。しかし多くの人にとっては、傍観する風景である。学校という場所は、たぶん今と変わらない。だから、自分より弱いと認識したものを肉体的・精神的に苦しめる「ハラスメント」は社会に出ても止まらない。

加害者は忘れるが、被害者はずっと忘れない。校内暴力もハラスメントも、不貞行為さえも、同じことである。

ちなみに金のない勉強のできない不良だって、相当に無残なことをしでかす。だから一部の人はプロになってしまうので……。残酷さに貧富や偏差値の差はない。(ソース:自分)。

わたしも思えば、最初に#MeTooが出てきたときに、これで下剋上できるかもしれないと、少し興奮したことがある。悪行を積み上げた人も、あちらこちらで要職についていたり、名声のある人、つつがなく日常を送っている。そんな人の、生まれてこのかた数十年分の問題行動を暴き続けたら、次々と退場させることができるかもしれない。

そのように興奮しながらも、もう片方の頭では別のことを考えていた。恐怖政治の歴史をかじったことのある身として、どこかうすら寒く感じていたのだ。どこかで見たことのある光景だったから。もちろん、火炎放射器で一掃できたら、どれだけ気持ちが晴れるだろうか。晴れなくても、続く世代のためには必要なことかもしれない。しかし、その義憤もまた、しばしば実際に戦争が始まる理由になってきた。そうやって火で薙ぎ払った後、何が起こるのか想像したら、背筋が凍る。わたしは大学の専攻もあいまって旧共産圏の話を聞くことが多かったが、やはり「密告」がいちばん怖い。粛清に次ぐ粛清の波は「密告」からの周囲の攻撃で逃げ場がなくなる。民衆の手で行う恐怖政治は固定化しやすい。そして、やがては焦土になる。

ともあれ、このできごとが、「クールジャパン」とか「サブカルチャー立国」「オタクは現代をリードする文化」的なモードに一石を投じればいいと思う。はじめから「サブカルチャー」は元から気持ちの悪いものであり続けているのに、それを白日の下で健康的に語ろうとする日本の状況がおかしいのだ。今回のことでリスクのデカさを思い知っただろうか。

まぁとにかく、この国の魑魅魍魎が映し出されることは間違いない。

Photo by Louie Martinez on Unsplash

人生相談という「リアリティショー」について

ずっと気になっていた。きっと多くの人は「人生相談」に幻想を抱いている。

実は、誌上で行われるほとんどの人生相談は「リアリティショー」なのだ。

相談者と同様に、同じような境遇がある人・特定の状況を考えたい人・正体のわからないモヤモヤを抱えている人に向けて、考え方を提示する。相談者のリアルを外側からコンテンツとして受け取る。だからどんな媒体であっても、回答者の声は、決して相談者のため「だけ」に用意されるものではない。

つまるところ「相談者が喜べば問題ない」という見解は、当たらずとも遠からずという話になる。

あらゆるコンテンツと同様に、回答者や発信した媒体には一定の責任が伴う。

回答者のパーソナリティとスタッフのディレクションを賭して世の中に出さなければ、うまくいかないコンテンツだ。前提として、相談者の話をちゃんと聞く。相談者の置かれた状況を考える。最善を尽くした答えを出す。そのうえで、コンテンツがどのように受け取られるかを考える。すべてが揃って初めて成り立つ、デリケートで複雑なコンテンツだ。

紙でも、テレビでも、Webでも、同じことなのだが、うまくいっている例としてラジオの長寿番組を紹介する。

ニッポン放送の「テレフォン人生相談」は1965年から続いているが、番組作りに、その辺りが強く表れている。

まず、司会者と専門家の回答者は別の人物だ。さらに司会者は曜日ごとに異なっている。オンエアはキー局は平日の昼間(生電話ではなく、収録)。ちなみに、放送にふさわしくないと判断された場合には専門家が紹介されると聞く。万全の態勢とはこのようなことを指すのだろう。

何度かネットニュースになることはあったと記憶している。しかし、いわゆる「炎上」には至っていないのは、何重にもバリアを張っているからに違いない。

最近、いろんなメディアの人生相談が「炎上」したケースがあるけれども、いずれもその機能がうまくいっていないケースに見える。

もちろん、必ずしも回答者が専門家である必要はないが、それと同時に、回答者の発言が絶対でもない。

だから、ディレクションが求められる。どんなセレブリティでも、ファンが多い人でも、信奉している人でも、その人に「ものを言う」ことができないのであれば、とたんに無用の長物になる。

例外的に、一人ですべてを行える天才も、たまにいる。けれども、それはひと握りの天才だ。おそらく100年に1度ぐらいに現れるレベルが必要なのだ。奇跡に近い。

誰もが自由にものを書き残せる時代だとしても、みんなが天才になれるのではない。むしろ、その自由と引き換えに失うものもある。そのひとつが、天才かそうでないかを気付く感覚ではないか。

そもそも、今までうまくいっていたものだって、今後どうなるかはわからない。ニッポン放送の「テレフォン人生相談」を再び挙げると、ラジオはすでに時間や地域を気にせず聴けるものだ。平日の昼に家にいる子どもも増えた。書き起こしや切り取りのアーカイブも増えていくだろう。

奇しくも、日本でも昨今はテレビのリアリティショーについて、そのありかたが問われている。一種の「リアリティショー」である人生相談についても、そのありかたを再考すべきだ。なぜ相談しようと思うのか。なぜ他人の相談が気になるのか。なぜ回答に怒るのか、悲しむのか、安堵するのか。同じ過ちを繰り返さないために。

Photo by Sachina Hobo on Unsplash

あなたが思うほど「発達障害」は受容されていないが、特殊でもない

4月2日は「世界自閉症デー」だった。そこから1週間(4/8まで)は「発達障害啓発週間」に充てられているのだが、多くの人にとっては他人事だろう。

時を同じくして、新入社員と思しき姿とすれ違うことも増える時期だ。

社会でどうやって生きていくのかを考える材料として、ロールモデルを探すのは一番手っ取り早い。「●●みたいになりたい」と思えるかどうかは切実な問題。もちろん、ロールモデルなんて要らない!という強い気持ちも必要だけど。

そんなところで立ちはだかるのが「発達障害」である。すでに自覚している新社会人は不安を抱えているはずだ。また、社会人に出て「もしかして自分、普通じゃない?」と気づく人もいる。

※この記事はわたし(筆者)の経験値で書いているので、医療的なことは何も言えないことを最初にお知らせしておきます。

ちなみに、「もしかしてこれは発達障害なのでは」と思って不安になるとか、落ち込むようなことがあれば(脳は問題ないのにただの怠惰と言われるのが怖い状態も含めて)、あなたがするべきは本を読み漁ることではない。とにかく病院へ行こう。話はそれからだ。セカンドオピニオンを受けてもいい。発達障害であることが重要なのではなくて、診断をつけることは大事。

なかなか病院に行くのも忙しいし、壁を感じるということも理解できる。そこまででもないかなぁ、と思いながらぼんやり気になる人もいるだろう。何はともあれ、そういう状況にいる人が「わたしも凸凹な人です」という表現に出会ったら、救いになる。最近では発達障害関連のブログや書籍が多いので、心のお守りにする人も増えているはず。

たしかに当事者以外にも興味をもたれるということは、確かに無視されるよりはマシ。でも結局のところ、「発達障害あるある」を許す雰囲気は、代償行為の結果として機能している。「XXができるから、YYが許される」だけ。つまり、XXができないなら、YYは許されない。

ここ最近(主に首都圏の状況しかわからないが)、学校を出るまでの「療育」や「合理的配慮」の観念は浸透してきている。でも、学校以外の場所では、おそらく20年ぐらいほとんど変わっていない。身も蓋もないけれど、それが実情だ。

もちろん、パラリンピックに協賛できるぐらいの大手企業で、正社員ならば、それなりの配慮もあるに違いないし、しかるべき手順をふめば「障害者採用」も受け付けているはずだ。しかし、それは、ごく一部のことでしかない。ほとんどの大人は、そういうものの外で生きる必要がある。

だから、最近増えている下記のパターンを見かけると、居心地の悪さを感じる。けっして嫌なのではない。ましてや、ひがみでもない。ただ、若ければ若いほど、過剰な期待を寄せてしまうだろうな、と思うのだ。

パターン①不思議な配偶者
「不思議ちゃんだけどかわいい(はあと)」って思ってラブラブだったが、いざ一緒に暮らすと生活力のなさが破壊的。いろいろあるけど、やっぱり仲良し♪

パターン②型破りなクリエイター
なんだかわからないけど不思議な魅力がある。事務的なことが得意な友人や秘書に囲まれて、才能だけを伸ばして生きてるカッコいい人。

当然のことだけど、誰もがぴったりのパートナーに出会えるわけじゃないし、誰もが天才的な仕事ができるわけじゃない。定型発達の人がすべて、特性を生かした仕事ができているわけじゃないのと同じことだ。

というより、むしろ、就活や新人のときに「普通のことが普通にできない」ことはたいへんなマイナスになる。研究職などはよくわからないけれど、一般企業において、秘書的な人をつけてもらえるのは役職が上の人だけだ。むしろ、それこそが「まず覚える仕事」であることが多い。そこでつまづいたら、試合終了……になりかねない。

みんな最初はできなかったけど、やってるうちにできるようになる物事が、普通にできない。それは修羅の道である。もちろん何がどこまでできるのかは人それぞれだし、全部できないわけではない。「普通にできない」という状態を言い換えれば、一般にカンタンとされる仕事を、120%超え、時には200%の出力をすればできる……ということなのだ。

わたしの個人的な経験に過ぎないし、いままでしでかしてきたいろんなことが許されるなどとは思ってないけど。

療育がノーマルになってきている学校社会から外に出るときに、期待しすぎないでほしいな、と切に思っている。(特に親御さんへ)

脅すつもりではないけれど、地に足のついたロールモデルに出会えるといいね。……と、心から願っています。もっとも、わたしも未だに模索中なのでエラいことは言えないのですが……。

Photo by Leonardo Wong on Unsplash

それ、本当にカッコいいですか?

今わたしには、とても不思議なことがある。

どうしたら、オリンピックの開会式で『AKIRA』をモチーフにした演出を「カッコいい」と言えるのだろうか。

あの文春砲とほぼ時を同じくして流れてきたのは、バレンティノのニュースだ。もしも、あのビジュアルを––帯(のように見える反物)を絨毯のように敷いたことが文化盗用・冒涜だというのなら、この演出も同じ類のものだ。それと同じくらい、ひどい扱い方をしている。

いろんな人に好評を博したというその演出だが、抜き出したコンテだけでは、そんなに良いものかどうか判断がつかない。強烈な違和感があるのは確かだ。あの赤いバイクが乗り入れた瞬間を想像するだけで、文脈的にイベントが成功しそうにない印象を与える。

そもそもの前提として、「使わないでくれ」と思う人だっていることは想像に難くないのはもちろんだが、ファン心理とは少し別のレイヤーで奇妙な企画である。

『AKIRA』で金田がバイクを走らせるのは、ネーション的な構造、権威なものから逃れるためだ。個人の自由のために走る。ネーション的な平和の祭典にやってくるのは不穏極まりない。もしくは作品世界の改変。そもそも作中で登場するオリンピックスタジアムは……たいへんなことになってしまうわけで。

もちろん「オリンピックなど破壊してしまえ」という思想であれば理解できる。ただ、成功させようとする人のプレゼンとは思えない。4年前、リオの閉会式を低予算で成功させたチームの一員に、まさか破壊的な衝動があったとは考えにくい。そうなると、いったい全体どういうことなのか、首を傾げてしまう。

歴史に「if…」はないのだが。もしも、今回出回った演出案がそのまま発表されたとしたら、それはそれで「うわぁ……」という声があがっていただろう。

もちろん、どちらにしてもクライアントが決めることだ。

リオの閉会式から続いている一連の流れを思えば、このタイミングで外野が騒いで何がしたいのか、ちょっとよく分からない。多くの人は、騒動が起きるまで関係者のことをほとんど知らなかったはずだ。

きっと多くの人が、興味本位でしかないのだろう。

(下記は、参考までに)

https://www.fashionsnap.com/article/tokyo2020-presentation/

ちなみに、このあいだの大阪万博のロゴ公募で落選作を発表してたものが一部では話題になったのをご存知だろうか。マーブルは「あわい」という言葉を連想させる。谷崎潤一郎的な「上方」の雰囲気を感じた。でも、「今発信したい大阪」は違っていた、ということなんだろうな。選ぶ、選ばれないとは、それだけのことだ。

いまや、多くの人が文春砲を待ちわびている。

日本には、公安なんて要らないのかもしれないな。

「自分が知ってるあれって、いくらぐらいで買ってくれるんだろう? 社会の役に立てるならいい」などと考えるかもしれませんが、 悪手だと思う。どうせ、みんなすぐに忘れてしまうから。

それにしても、『Number』は逃げるのがうまい。4月1日号が「20年目の原巨人」とは。ベテランの逃げの姿勢を感じてしまう。ジャイアンツが好きな人は気にしなさそうだけど。いま全霊をかけてやるべきは「オリンピック」ではないか。

『Number』といえば、表紙は当然大坂なおみ選手だろうと思ったら「将棋はスポーツ」と題した変化球の特集が出たことがある。そんなの偶然だろうけど、巧者だ。避けるのがうまい。

センセーショナルなことばかりではなくて、やるからには徹底的にやってほしいな。難しいだろうけど。

https://number.bunshun.jp/

自分が痛くないことを知覚するのはむずかしい

先日、こんな記事を書いたけど、やっぱり人には「当事者」にならないとわからないことが多いようです。

本日2020年10月14日は、Twitterで「例の漫画」というワードがバズっています。また、フランスで開かれる予定だった「モンゴル帝国」に関する企画展を中国が検閲した件も局所的に注目されています。


例の漫画とは?

ちょっと前に流れてきたマンガだったと先ほど気づきました。流れてきた時に「あぁ、お仕事マンガだな」と思って読んだけど、その時に抱いたのは『このマンガ自体に編集者が必要だな』という、それぐらい。

それなのに。運命のいたずらで、バズと炎上の間を漂っています。

「3人でゲームつくるマンガ」という作品です。下記noteで読めます。

https://note.com/tetsunatsu1

※「例の漫画」って、巻き込みを回避したのかもしれませんが、伏せ字のようにするべき内容でもない。それ自体が不思議(結果的にはトレンドに上がるし、変な憶測を生みそうなんですよね)。


共感の罠

この作品には、人を不安にさせる要素が多い。ただ、おそろしいことに、真実も含まれているんですよ。ていうか、フィクションじゃん。

状況を知らないわけではなく、商業的なフィクションを扱う人のなかに、これに過剰とも言える反応をする人がいる。すべて目を通してはいないけれど「自分や教え子が、かつてそのような経験をしたから」という意見が少なくない。

いや……? それって……?

極端な話、「乳袋を、萌え絵をけなすのおかしい」と言う人は、嫌な目にあったことがない「だけ」だったんじゃないのかな……ってことになる。

そういうことでは、ないですよね。


フランスの博物館の件

これについては、中国が圧力「チンギスハン」を削除せよ 仏博物館、企画展延期にという記事が詳しいです。

この記事について、Twitterでけっこう言及されてました(上記の件と同じ人ではありません。当然ながら)。隠れモンゴルクラスタなので、ちょっとでも言及されるとうれしい(そういう態度はよくないと思うけど)。そうそう産経新聞でも取り上げてました。全体的な風潮は「とにかくこんなことは許されない、歴史への冒瀆」です。そりゃ当然なんですけど、これって「とある国で従軍慰安婦についての展示をやったら、日本の官庁が検閲した」のと同じですからね。


当事者の経験を一般化するのは、かなり難しそうだということ、Twitterばかりやってたらダメだということがわかりました。それもTwitterばかりやってみないとわかりませんね。

Photo by Michael Dziedzic on Unsplash

当事者でも、専門家でもなかったとしても

ここ最近、何かを語り出すときには立場を明かしてからでないと信用されない。特に「当事者かどうか」「専門家かどうか」の2点が重要らしいのだ。

前にもどこかで(Twitterだったかも)「カミングアウトしなくてもいい世界がいい」と書いたり話したりしたが、基本的にそれは変わらない。

もちろんカミングアウトした人のことは尊重したい。でも、それが行きすぎた結果の「アウティング」につながるとは言えないだろうか?


少し前に、「普通じゃない」半生を振り返ったライターのnote記事が話題になった。

私が”普通”と違った50のこと〜貧困とは、選択肢が持てないということ〜

おそらく日本に住む全員に聞き取り調査をしたら、子細はそれぞれの事情があるとしても【選択肢が目の前にない】という点においては「うんうん、だよね!」という反応も結構あるはずだ。ただ、「noteユーザー」の中では、わりと大きな衝撃だったと思われる。少なくとも自身の周りでは「こんな人もいるのか……」といった文脈で話題になることが多かった。

もしもこの話が「聞いたところによると」「こういう人もいる」という体裁で書いたものなら、そこまで話題にならなかっただろう。ライター自身の物語だったところも大きい。

自身のことを語るには、リスクがないわけではない。「あの人って、そうだったんだ……」と思われながら今後生きていくには、かなり大きな覚悟が必要だ。本人の決断の大きさははかりしれない。だからこそ、そのように書き続ける彼女の決意や意志に対して、最大限の敬意をはらいたい。そのうえでも、疑問は残る。果たして、幸せなことだろうか?

くれぐれも誤解しないでいただきたいのだが、「書く人が幸せなのかどうか」の問題ではない。決して個人のハピネスのことではない。「みんなが書き手になれる」時代において、私小説的な振る舞いをしてしまうこと。そうして立ち現れる文章が、時空を越えて読まれ続けるのか、である。


あれは10年以上……15年ほど前だろうか。とある俳優カップルのゴシップがTVから流れてきた。結婚からしばらくして、パートナー以外とのデートが報じられたのだ。正直どうでもいいと思いながらも、流れてきた音声に鳥肌が立った。ある芸能レポーターが「でもXXさんは、複雑な家庭で育っていらっしゃるから、いろいろあっても温かい家庭を守りたいと思っていらっしゃるのではないでしょうか」という謎のコメントで話を結んだのだ。あの衝撃は忘られない。

わたしは耳を疑った。その俳優XXさんのことは好きだった。初耳だった。とはいえ、XXさんの文章では時折、どこかで感じ取れることでもあったから、そのこと自体に驚いたわけではない。むしろ今思えば、同年代で、同じ空気を共有できそうな文章も含めて気になっていたのだ。そもそも、公にされていたことだったのかもしれない。しかし、それを本人のいない場所で、公共の電波に乗せて軽々と暴露する仕事が成り立っていることに驚いた。

その発言を聞いて、わたしはむしろ「複雑な家庭で育っているほど、見切りをつけるのが早いのでは?」と思った。そしてその通りになり、やがてカップルは離婚した。

俳優XXさんの演技に、個人史的なバックボーンが関係なかったとは思わない。それが重要なファクターではあったとしても、そのことに囚われた役ばかりではなかった。それはとても幸せなことだと思う。


そして、時は流れて2020年。上記のようなことをテレビ番組が行えば、「アウティング」と言われてSNSが炎上するかもしれない。しかし伝えるメディアが変わっても、同じようなことはなくならない。その「アウティング」を責める際に、人格否定をすることがある。それだってフェアではない。しかし、そのフェアネスは認められづらい。

プロレスだから楽しめばいいという問題でもなくなってしまった。飼い主とじゃれあって甘噛みしている愛玩動物が時折「シャーッ」と野生を取り戻してしまうような事件が頻発している。そこでは時々、悲劇が起きる。

誰でも発信したものが広まっていくことに可能性を感じていたゼロ年代〜2010年代を経てなお、わたしたちの社会は変わっていない。むしろ、どのような人物が書いているのか? その「顔」が見えないと信用しなくなっている。

プロレスはキャラクターが対戦するからおもしろい。本当に因縁のある相手とデスマッチをやったら、ただの犯罪である。しかし、過度に実存を開陳していけばいくほどキャラクター性は薄まっていく。

だからこそ、そうじゃないことにも目を向けたい。

年収○○万円の家で育ったとか、△△障害だとか、××マイノリティだとか、●●が専門ですとか、◉◉専門家ではありませんとか。おそらくは、カムアウトしなくてもいい、そうじゃない距離感で書いていくことも必要だ。今だけ、目の前の熱狂ではなく、後から、誰かが見つけるために。

なぜなら、人にはあらゆる面があるからだ。やがて意見は変わることもあるだろうし、現在の当事者は、必ずかつての当事者になってしまう。同時期に、複数の課題の当事者であることも可能だ。しかし人が書ける文章には数が限られている。だから、ちょっとだけ離れた距離から見つめることだって大事なのだ。


(もちろん、そうじゃないこともやりますよ。明治の文豪じゃないし、石川啄木より長生きしたいし)


そんなわけで、当事者でも専門家でもないけどコンテンツを語る同人誌を出そうと目論んでいる。最初の0号はわたしだけなので、きっと自身との関係性からは離れられないだろうけれど……。

続報はお待ちください。(更新頻度が落ちている言い訳に換えて)

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「個性」で生きやすくなるとは限らないのに

「個性は美しい」と人は言う。しかし、果たしてそうだろうか? 善きものとしての個性しか見ていない可能性に、もっと敏感になったほうがいい。

少なくとも現在の日本で、病気や障害を「個性」と捉えようと言ってしまえることの愚かさよ、と個人的には思っている。

そんな中で起きた、今回の花王ロリエのKosei-fulプロジェクトにまつわるあれこれ。広告手法や広告のありかた、生理に対する態度について、今回は取り上げない。ここで言いたいことはひとつ。

このキャンペーンに反対したいと思うなら、病気や障害を「個性」と言うべきではない。

なぜならいずれも同じ問題を抱えているから。

「生理を“個性”だととらえれば、私たちはもっと生きやすくなる」
それは、
「障害を“個性”だととらえれば、私たちはもっと生きやすくなる」
「病気を“個性”だととらえれば、私たちはもっと生きやすくなる」
と同じことなのだ。

そもそも個性……とやら。それは、そこまで美しいものだろうか? 生きやすくなるものだろうか?

この夏のはじめ、エッセイマンガ『普通の人でいいのに!』(冬野梅子/モーニング月例奨励賞2020年5月期受賞)がバズった。

この主人公への共感の声が広がっていた。サブカルチャーが好き(特にお笑い方面)で、そこで繋がった友人がいる。中庸のメンタリティ。しかし、大切にしているものを「ただの趣味」と笑われたら怒ることのできる知性も持ち合わせている。それをコケにした(ように見える)周囲に鬱憤をぶちまかそうとするのだが……わたしは、読み進めるにつれて共感というよりも、ステキな人だなと思った。社会は彼女のような「普通」の行いで回っている。この作品が賞をもらえるのもバズるのも、そうあって然るべき。とても正しい。

彼女が嘆く「普通」に憧れる人もいる。わたしはもう諦めているが、生涯手に入れることができない。かと言って、天賦の才があるわけでもなく、ただひたすらに「普通」になれないだけ。「普通」と自覚したのと同じように、苦しさの中で茫洋としている。「普通」になれなないことを絶望しながら、逸脱を求める。

しかしこの苦しさを持ってしても、かつてわたしが大事な友人を傷つけていた過去は免れない。というのも、数年越しに、ある人を傷つけるのに加担したと知ったのである。「経理っぽいね」「経理すごい!」と言ったのはお酒の勢いでもなく、接待スマイルでもなく、本気で感想を述べたのに。「この小説よかったよね!」と同じ感覚で。わたし自身はずっと、その部分ができないことで心を削られていたから、できる人に最大限の敬意をはらっていたのだが。でもそこで「ごめん!」などと言うのはまた違う。謝ればいいってものではない。

何はともあれ、わたしのまわりで「個性」はいまのところ、生きやすさにはつながっていない。現場からは以上です。

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(補足)「ヒロシマタイムライン」二重の危うさについて

昨日書いた記事だけど、やはり補足が必要だと思う。

フィクションを描くにあたり、「ひろしまタイムライン」は、「烏丸ストロークロック」から監修として柳沼昭徳、広島を拠点に活動する「舞台芸術制作室 無色透明」からサポートとして坂田光平を迎えている。ただ、彼らがどこまでかかわっているのか定かではない。この状況で言えることは少なすぎる。

柳沼氏は地域に根差した演劇プロジェクトを行なってきた。東日本大震災後の仙台で完成させた「まほろばの景」も幾度かの修正を重ねて、上演を重ねている。

とにかく、放送局がこの企画を中途半端に進めたわけではないのはわかる。しかし、だからこそ、そこで生じた齟齬を、誰かが掬い上げることができなかったのだろうか?

結果的に、これは広島在住の「日本人」のための、「日本人」に向けたコンテンツだ。その「日本人」には、外国にルーツがある者は入っていない。そしてこのコンテンツは、日記を残すことができた割と恵まれた境遇にいる人が、良識者として代弁している。

その世界を見る目は一方的である。自分たちがどのように世界から見えているのかは気に留めていない。当時の「日本」と同じような図式である。同じ瞬間、世界には、別の視点で「日本」を見ていた人も存在していたことを、2020年のわたしたちは認識しているのに。

思うに、75年前の「当事者」の声を聞きすぎたのではないか? いま暮らしている75年後の世界で、どのように受け止めるかが重要なのに。声なき声の「間」を拾うというのは、そういうことではないはずだ。

これはあくまで推測に過ぎないが、Twitterで「上演」をするような感覚があったのかもしれない。ゆるアカウントがキャラを使って繰り出すツイートは、まるでセリフである。ただ、昨日の記事でも触れたように、Twitterは舞台とは異なる、開かれた空間だ。それゆえの危うさを抱えている。

もちろん、そこまでの意図があったのかは想像に任せるしかない。しかし、表面を見るだけでも、実験的なプロジェクトであることは確かだ。過去にも、ある意味「ネタ」として歴史をなぞる試みはあった。たとえば関ヶ原の戦いの同日、「今頃小早川が…」「ここで形勢が…」というツイートが流れたのだった。しかし、これは10ヶ月もの間行われる(予定)プロジェクトだ。これまでに例のない実験には、危うさがつきものである。

つまり、二重の危うさを抱えていることがわかる。そして同時に思い出すべきは、この街に原子爆弾が投下されたことに、実験的な側面もあったことだ。「実験」という意味を与えることは免罪符にならない。少なくとも75年後の2020年において、それと引き換えに人の苦しみを肯定することは、よほどの覚悟を背負う行為なのだ。

世界一危うい「マスメディア」のTwitterに登場した、救いのないフィクションについて

ほんの数週間前に好意的に受け入れられていたTwitterアカウントの企画がヒートアップしている。いまのところあまり言われていないけど、「Twitterというメディアをわかってない」「安易にフィクションに頼ることで【虚構】の力を萎えさせた」ということがヤバいと思う。だってNHKなのに。


そもそもの問題は……

そもそもの発端はNHK広島放送局が企画した「もし75年前にSNSがあったら? 1945 ひろしまタイムライン」である。これは3月から行われている試みで、当時広島に住んでいた3名(中学1年生シュン・新聞記者の一郎・新婚主婦やすこ)の日記をもとに、3人のキャラクターが発信する体裁をとっている。日記に描かれなかった部分は、想像しながら創作しちているという。被爆75年を機に、若い世代にSNSを通じてリアルに知ってもらおうという意図だそうだ。

今回、問題が指摘されたのはシュンのツイート。いまNHKの放送であれば通常使わないであろう言葉が散見される。どうしても使うべき場合は、断りの文を入れるレベルのものだ。どういうものだったかは、いまのところ載せるつもりはない。下記にアカウントを載せておくので、気が向いたら8月20日のツイートを見てもらえれば。

シュンのアカウントです。

これに対して、NHKの回答は以下のとおり。

[当時中学1年生だった男性にとって、道中の壮絶な体験が敗戦を実感する大きな契機になったことに加えて、若い世代の方がにも当時の混乱した状況を実感を持って受け止めてもらいたいと、手記とご本人がインタビューで使用していた実際の表現にならって掲載しました。]

https://www.nhk.or.jp/hibaku-blog/timeline/434538.html

これに対して「そこじゃない」というリプ・エアリプがついている。確かにその通りだ。

春先にこれを知った時にも嫌な予感がかすめた。「原爆から75年で節目の年なのに、だんだん当時を知る人も亡くなり、建物も朽ちていく……広島市でさえ継承が難しい問題」を取り上げていた番組で、この企画を語っていた。その「若者=SNS」という無邪気さに不安がよぎった。この方々はTwitterをわかっているのだろうか?と。


ツイートは全世界でアクセス可能な断片

Twitterは全世界からアクセス可能だ。アカウントから配信するということは、全世界同時にタイムラインに流れているのである。わからない言語でも、最近はGoogle翻訳がついているので割と読めてしまう。ただ「割と」読めるだけであって、トンデモ翻訳になっている可能性がある。機械翻訳が翻訳しづらい口語は誤解を招きやすい。つまるところ、全世界に向けて発信されていること、忘れてたのだろうな。日本以外のルーツを持つ人も、日本・広島に住んでいるのだが、それについても、考えていなかったのだろうと思う。ひどい。

さらに、ツイートはただの断片に過ぎない。今回「ツイートごとに注釈を入れたら」いう意見もあったが、それだけで140文字なんてすぐに埋まってしまう。熱心なフォロワーよりも、流れてきたツイートに「オッ」と反応することに気を配らなくてはならない。ネガティブな情報の拡散力は激しいのだ。

もとより、彼ら3名のアカウントのコメントは、割と古風な表現が並んでいる。そこには古き良き面影もあるかもしれない。同時に、亡き祖母が使っていたけど右翼としか思えない言葉がサラッと書いてある。全然よくないことけれど、当時は使う人もいたのだろう。阿久悠の『瀬戸内少年野球団』を小学生の時に読んで「この子たち怖い…」と思ったことがあるのだが、それと同じだ。

しかし、今回のようにヒートアップしない限りは、特に問題にされなかった。おそらくフォロワーになれば文脈もあるので「そうか、当時はこう考えてたのね〜考えさせられるな」とも思うだろう。しかしご存知のように、爆発的に盛り上がるのは、脊髄反射的なレスポンスだ。特に今回のようなネガティブな反応が炎上しやすい(ということを「NHK特集」か何かで観たばかりなのだが……)。


妄想による妄想のためのツイートの行く末

そもそも、これらの内容は真面目であってもフェイク的と言ってもいい。「いま」という言葉を使いながら1945年のことを書いているのだから。もちろんTwitterで架空のキャラクターが扮しているアカウントは数えきれない。過去のことを延々と載せるbotもある。しかしこれは、国を代表する放送局が送り出すアカウントだ。それなのに、フェイク的なbotを流して無責任が過ぎる。ツイートする時にデフォルトで「いま何してる?」と表示されるが、本来は「防空訓練終わった」などと答えられるわけがないのだ。

そして、どこまでが日記に書いてあった出来事なのか、どこまでがキャラクター創作なのかが不明瞭なまま、タイムラインは更新されていく。キャラクターが歩きだすということは、自然とそういうことになるのだが、この題材を使う時に適切だろうか? 昨年の「全裸監督」でも示しているように(その例を持ち出すことさえも「不謹慎」と言われそうだが)、現実をベースにフィクションを立ち上げるのは、なかなかの危ない橋だ。

極め付けは「#もし75年前にSNSがあったら」というハッシュタグである。

この「if構文」の使い方がまずい。あるわけがないのだ。それは想像力の問題ではない。SNSがあったら、そもそもああいう形での戦争は起きてない。これは歴史を扱う企画として、穴のあいた餡ドーナツを作るようなものだ。ふと思うことがあってもいい。けれども、それは単なる妄想だ。この人たちが「2020年にタイムスリップしてきた」なら、まだ良かったのかもしれない。

しかし、現実にまずいレスポンスをわたしは目撃した。それは原爆投下以降のツイートに対しての反応だ。「もしも75年前にSNSがあったら、励まし合えるからこんなに孤独じゃなったのに、やりきれない」といったもの。書いている人が真剣なほどツラくなる。禅問答のようなif構文ハッシュタグがツイートされるとき、「お題の答え」は「あったら良かったのに」を誘導する役割を担っている。それはミスリーディングだ。


無意識的なメディア選定の狂い

底本にしたのが日記というのだが、そもそも、日記とツイートは、だいぶ違う。ツイートは瞬間的にワッと言ってみるものだ。しかし、日記はそうではない。もう日記を書いている人も少ないとは思うのでブログでもいいが…いや、ブログとやはり違う。日記は「今この瞬間に見てもらう」のではない。10年後の自分や、後の世に誰かが見るかもしれないと思えども、すぐに誰かの反応を聞きたいことは書かない。その日の出来事を反芻して、書き留めることと、胸の中にしまっておくことを取捨選択して、記録する。ペンや紙が限られていた当時であれば、なおさらだろう。

つまるところ、この企画はハナから媒体を間違えている。「1945ひろしまタイムライン」という別のWebサイトを作り、そこで似たような仕組みを稼働させることだって可能なはず。

日記を口語体に直して毎日UPするのではダメだったのか?前にも書いたが、実際のSNSに流さず、「1945ひろしまタイムライン」という架空の次元をwebサイトに立ち上げるのではダメだったのか? 広島の日本人だけではなく、いろいろな当時の日記を時系列で見せていくという手段もあったはずだ。

最終的に、NHK_PRさんなどで「更新」をお伝えすれば、もっと広く知ってもらえたのではないか。


もはやTwitterは「マスメディア」

ここのところ、Twitterがキャズムを超える以上に広がりきった結果「マスメディア」化している。他のマスメディアと異なるのは、情報を発信する側も受信する側も「危うさ」を抱えている点だ。因果律が通用しないところで、突然炎上したり注目されたりする。

タイムライン機能は人の目が追える限界に挑戦しているので、自分のタイムラインに複数上がっていたら「すごい話題」だと錯覚してしまう。ひとつひとつはそうでもないけど「それぞれ」が「みんなが話題にしてる」と錯覚した時に「Twitterで話題」になる。しかし、ほとんどのバズの数字は、従来のマスメディアからするとたいしたことのない範囲だ。テレビの視聴率1%は、誤差はあれど100万人程度に換算されるといわれている。平均視聴率が1%台の番組は、景気が悪そうに感じるだろう。しかし、一度に100万ビューというのはとてつもない数字に思える。それがマスメディアに登場するだけで、マスコンテンツになる。

多くの人が気付いている通り、最近テレビのニュースや情報番組で「Twitterで話題」「ネットで注目」というコンテンツが増え過ぎている。「こんな過激な意見がある」「こんな動画がある」という事実を従来のマスメディアが流す時、それは突如マスコンテンツとして再生成される。

「Twitterで話題」というコンテンツは、ほとんどの場合は「あぁ知ってる」という情報だろう。どこでも観られない、かわいい特ダネを見つけることをしない。いっそのこと、番組スタッフのニャン子姿をインスタにもTwitterにも上げず、その番組だけ流したほうが、よほど観る価値があるだろう。

もちろん、ツイート内容に関する規制はない。たとえば民放連に代表されるような業界団体もない。けれども実質的なコンテンツの拡がりからすると、もはやマスメディア並に影響力を持っている。それでいて、最終的にはあくまで個人の意見であると収斂されていく。


Twitterアカウントのキャラ変

企業やサービスの広報として「中の人」やキャラクターが扮する、ゆるアカウント(軟式アカウント)は人気がある。特に広報アカでは異動による「中の人が交代します」卒業ツイートへのレスがつくほど。他社のアカウントの発信にかぶせて、自社の商品をアピールしたり、コラボが決まったり……人間味のあるやりとりがTwitterの良さのひとつと思われてきた。けれども、だんだんとそうではなくなっている。

Twitterの日本進出が整った2009年頃から、このようなアカウント開設が相次いでいた。いち早く自国の新サービスとして活用していたアメリカ市場でも同様だ。というより、たぶん真似をしたのだと思う。しかし10年以上が経過した2019年に入ってから、先行するアメリカでは、そのようなアカウントへ一般の人が冷めた視線が目立つようになってきたという。「中の人」がミームを生み出す内輪ウケに食傷したようだ。

ウケ狙いのゆるいSNSが「オワコン」な理由/東洋経済ONLINE

コミュニケーションの軌道修正をしているアカウントは増えているようだ。しかし日本では……ゆるアカウントがここまで増殖してしまっては、もう手遅れかもしれない。現実にもゆるキャラがたくさんいるのだから。

今回作られた3つのアカウントも、その延長に過ぎなかったのだろう。


フィクションの暴力性に対する脇の甘さ

そもそも、この取り組みは正解なのだろうか? ある惨禍を当事者以外がフィクションにすることについて、国内でもいろんな見解が交わされてきた。記憶に新しいのは東日本大震災のことだ。当事者以外が描く「震災後文学」については語るのが難しくなっている。原発についても、津波についても。

そもそも「戦争を知らない」世代が経験していない戦争を語ることについては始めから批判されているし、その世代が中心となった学生運動ですら、その後の世代の切り口は変容を指摘される。いずれにせよ、この国で当事者以外がフィクションとして記すときの解は、まだ得られていない。

ましてや、実在の人物をトレースしたキャラクターを「操作」するには、たいへん高度な技術が必要なのだ。「虚構の物語」を描く作家として緻密な仕事が求められる。

まずは文語調で書かれたものを、今っぽい喋り方でリライトする難しさ。橋本治の「桃尻娘」や大和和紀の「あさきゆめみし」の完成度に近づくには、どれほどの文学性が必要だろうか。企画において、日記に書かれていない日の出来事は、他資料を参考する、想像してみる等でツイートを続けているという。どうしてここまで現在に寄せてくるのか。今っぽい喋り方をすることで、日記の中のそれぞれの振る舞いの違和感が生じてくる。それはもう、キャラクターがちゃんと動いていない状態だ。

実際には、作家を入れるなどはしていないようで、この辺りに覚悟の足りなさを感じる。虚構を立ち上げる時に、通常のTwitterアカウント運営のノウハウは通用しない。全く別の技術が必要なのだから。


本当に求められる虚構の力

過去の惨事を固有名で向き合う時に、虚構の持つ力は絶大だ。もちろん、ある種の暴力が発生する。しかし、事実と対峙するには必要なことだと思われる。HBO制作のドラマ「チェルノブイリ」の受容について、昨年盛り上がったことを忘れてはいけない。

【 #ゲンロン友の声 】私たちは今できるかぎりの虚構に触れるべきなのだと思います。/genron note

ドラマ『チェルノブイリ』、事実がまっすぐ伝えられない状況は、まさに今の日本の姿だ/速水健朗:Newsweek Japan

SNSの台頭によって、わたしたちはもうずっと「事実は小説より奇なり」という言葉に支配されていないだろうか? しかしそもそもは、バイロンの作品の中で生まれた言葉である。密着ドキュメンタリーには作れない虚構の力はまちがいなく、あの戦争にだって適用されるものだ。

そしてこの企画、下記のイタリア制作の番組に着想を得たのではないかと推測している。何かしら、少なくはない影響を与えているはずだ。先日、NHKで放映もされた。

『#アンネ・フランク 時を越えるストーリー』

しかしこちらは立て付けが圧倒的に違う。こちらはSNS世代の若者が、アンネ・フランクの足跡を巡り歩き、本人の視点で「アンネの日記」を読み解くドキュメンタリーだ。日記をリライトするだけではなく、実際に歩き、その場所に触れて、自分の考えを組み立てていく。この映像を通して私たちは、その様子を追体験することができる。その時、視聴者も自分なりの答えも出せるかもしれない。

いずれにせよ、そのような力強い虚構の力を使うには、Twitterのゆるアカウント運用では荷が重かったはずだ。安易にフィクションを作り出したのは、ただの無意識だったのかもしれない。しかしその無意識的な行為が、メディア自らが媒体を取り違えていることを白日に晒した。ましてや、今回のことを単純化した「フィクションは紛い物」のような論調が出てくるかもしれない。そもそも停滞している事実から虚構を立ち上げる機会が、ますます限られてくる。ここに「現在の日本らしさ」が凝縮しているのだが、これで終わっていいはずがない。元にした日記は現実に存在しているのだ。願うのは、無闇な中止でも単なる続行でもない。伝えようとしていたことを現代の文脈で捉え直すコンテンツにつなげる方向に話が進めば、ひとつ変われるはずだ。そうでなければ、誰も救われない。