読み込み中…

国立競技場に映るは国の真影

神宮に建つ国立競技場を真上から見ることが増えた。このあいだ見た写真は、どういう加減だか光が反射していて、まるでオーバル型の鏡のようだった。

開催が迫るなかでオリンピック関連のニュースには、いくつも論点があり、すべて拾うと枚挙にいとまがない。ただ、TOKYO2020というイベントが現在を映す鏡であるという観点から見ていくと、焦点が定まってくるように思う。

いろいろあったけれど、やはり大きかったのは7月15日、オリパラの開会式・閉会式の概要が発表されたことだ。ビッグニュースではない。しかし、ちょっとしたリリースが大きなニュースになってしまった。(※パラリンピックについては、未発表の部分が多い)。

造語乱発のコンセプト

まずは、コンセプトが謎に満ちている。公式のリリースは以下です。

東京2020大会開閉会式4式典共通コンセプトならびに東京2020オリンピック開閉会式コンセプトを発表

https://olympics.com/tokyo-2020/ja/news/news-20210714-03-ja

何が何だか? という感じだが、抜き出してみると、こうなる。

【オリパラの開会式・閉会式共通コンセプト】
Moving Forward

【オリンピックの開会式コンセプト】
United by Emotion

【オリンピックの閉会式コンセプト】
Worlds we share

なかなか破壊的である。たいして英語できるわけじゃないけど、なんか変じゃないか……United by Emotion……SFの世界みたいなのを楽しめばいいかもしれないけど怖い。でもたぶんこれ「エモい」ってやつを使いたかったんだと思うから哀しい。ただの憶測ですが、企画書段階の「コンセプト」がそのまま使われているような気がする。作業チーム内でイメージを共有するために使われる、インナーコミュニケーションとしての言葉を作るというのはあるから。それにしても謎が多すぎるけれど……。

補足を入れながらざっくりまとめると、こういうことだと思う。

TOKYO2020は「進め、その先へ」(訳はイメージです)というスローガンの下繰り広げられる夏の祭典です。まずはオリンピックは「つながる心」(訳はイメージry)で始まります。オリンピック競技はここでいったん幕が降りますが、舞台は続く。「多様な世界が広がり、接続」(訳はイメry)され、その情熱はパラリンピックにつながっていく。

もとから開示されている資料によれば「起承転結」で4つの開会式・閉会式を表そうとしていたので、こんな構造だと思う。パラリンピックの開会式・閉会式のコンセプトは次回発表するらしい。(そうそう、だから第一報では、パラリンピックの開会式・閉会式のメンバーは発表されてないのだ)

このおかしさを、日刊スポーツがインタビューすると、こうなる。↓

https://www.nikkansports.com/olympic/tokyo2020/news/20210714000127五輪パラ開閉会式統括、組織委日置貴之氏が共通コンセプトに込めた思いとは

https://www.nikkansports.com/olympic/tokyo2020/news/202107140001278.html

うん……。なるほど。たしかに、日本語のひとことでは表せない概念があるのは認めよう。しかし、他の言語で言い換えできないほどの抽象的なメッセージでは伝わりづらいはずだ。 せめて、国連公用語ぐらいは用意するべき。そうだ、つまりは英語圏じゃない人のことを考えていないのが透けて見える。

「それぞれの解釈にゆだねる」という言語感覚に対する鈍感さや知性の欠如が哀しくもある。しかし、このボンヤリとした感じで留めおこうとするのは、ある意味で日本らしいと思う。世界標準を目指しているのに逆説的ではあるが。

まぁなんというか代理店営業が使いがちなノリでもあり、氏のことを悪く言いたくなるだろう。しかし日刊スポーツの記者だって、この人がどうやって見えるか計算した上で掲載をしているわけで、わかりやすい「代理店っぽさ」も加味されているのかもしれない。十分に露悪趣味的だ。


ジェンダーバランスについて

半ば忘れられそうになっているが、最初に指摘が相次ぎ、タイムラインを騒がしたのは、ジェンダーバランスについてである。「女性を締め出した」とか「女性がいない」といったツイートをしている著名な方もいた。

たしかに、女性比率は少ない。責任のある立場にある女性が少ないのは、本当によくないことだ。締め出されてきた歴史が表れているのはまさに、その通り。 けれども「女性がいない」と言ってしまうのは、もっとよくない。きちんと名を連ねている女性の立場はどうなるのだろう。

たしかに「ダイバーシティを標榜しておきながら何たること」と言うのは簡単だが、ない袖は振れぬ、である。この状況で、いきなり開会式・閉会式の体制図が男女比率が半々の組織になっていたら、夢のような話だが、かえっておかしい。

むしろ、こうなることは折り込み済みのはずだ。総合演出の後任を充てないということが発表されている、ということだけではない。日常的に女性がリーダーとして進めるプロジェクトが極端に少ないのだ。

人とモノ、カネを動かせる(実績のある)女性が日常的に活躍していれば、延期に伴うプランBにおいても選択肢は広がったはずだが、 日本にはそれだけの素地がない。何もオリンピックの組織が独特なのではない。今の日本の社会からすれば、無理からぬことだ。その国以上のものはできない。

そして最後に、あまり気が進まないけれども、言っておかなければならないことがある。現在の状況で「女性であること」を背負いながらTOKYO2020に反対せず、リーダーとして動ける女性がどれくらいいるだろうか?

その意味で、またしても女性が「守られ」てしまった。これは、如何ともしがたいところで、歯がゆさを感じる。古風なフェミニズム……女性は守らねばならないという、例のダンディズムに結果として「守られ」たのだ。 たしかに、ここには男性が「排除」してきた歴史が繰り返されている。それと同時に、女性だって求めなけば道は拓かれない。

そもそも、大会が掲げる「多様性・調和」は、男女の比率だけでは決まらない。それが最初の一歩だとしても、全てではない。LGBTQ+というならば、なおさらだ。しかしながら、 アファーマティブアクションが一通り済んだ国と比べられないのが哀しいところ。

結局のところ、開会式・閉会式の姿は、この国を鏡の中に映しだした影なのだ。目をそらしたいけれど、見てしまうだろう。わたしが見ないフリをしたところで、世界は今日も回っているのだから。


サブカル最強?神話

ようやく最初の話を終えることができた。次はサブカルの件である。ジェンダーの問題と同じような世界が広がっている。

リオのクロージングの時も思ったことだが、レガシーを大切にするにもほどがある。サブカルを引っ張り出してくるのは致し方ないとしても、キャラクターの登場の仕方が、21世紀に入ってからの日本て微妙な存在感だったんだな……と思いながら見ていた。首相がマリオの恰好をして登場するのにポーズを決められなかったことを含めて、いろいろズレていて、哀しい。

妄想だと一笑に付していただいても構わないが、あのときに奇妙なズレが起きたことで、人々の認知に歪みがでてしまったことも考えられる。以降、TOKYO2020で大事なことほど、なにかとズレが見られるようになってしまった。それが開催直前まで続いているのだ。

もちろん、具体的な開会式・閉会式の内容を知る由もない。しかし、演出まわりを含めて、かなりざっくりと言えばNHKのEテレ「デザインあ」周辺のチームが目立つ。ベタ過ぎず、アーティスティックでもあり、マス向けのコンテンツメイキングもできる、ちょうどいい塩梅のセレクトには見える。

ただ一方で、ボンヤリとしたコンセプトとは打って変わって、賛否はともあれ、どんなイメージで発信したいのかという意志が明確に表れている。1990年代のTOKYOカルチャーをハブにしたいのだろう。

音楽監督の田中知之氏がユースカルチャーの旗手として注目されたのは1990年代後半。1995年(阪神大震災・オウム真理教サリン事件・ウインドウズ95・コギャル)の直後である。この頃から、カウンターカルチャーとしてのサブカルは、どんどんポップに、世の中の標準になっていく。現在2021年の「推しトレンド」も一連の流れの中にある。

時は流れ、あのころの尖った若者もいい大人になった。ただし、それと同時に、人生100年時代と考えれば、50代は折り返し地点である。しかし若者から「おじさん・おばさん」にしか見えない。そのギャップは日常の至るところで見られるのだが、強みでもある。幼少の頃の写真にカラーフィルムが少ない世代は、昭和をちゃんと知っているが、今の世の中も知ろうとできる。ほかの年代よりも、幅広い年代を結び付けやすい文化資本を持っている。そんな彼らがハブになり音楽を紡ぐしたら、それはそれで意味があるのかもしれない。

しかし、そうだとしても、それはカルチャーの一端でしかない。カルチャーというものは、サブカルだけで出来上がっているのではない。ポップミュージックがさまざまなジャンルと親和性が高いとしても、個別の話だけしていたのでは全体が見えづらくなる。

ましてや、2000年代、2010年代、その20年間の積み重ねが、現在である。であるとしたら、この20年間は何だったのだろうか。延期で予算が削られた結果として、その問いに真正面から答えられるものにならないとしたら、脆弱な日本の姿がオーバーラップすると見れば良いのだろうか。

だが、しかし。考えてみれば、1995年以降、東京都知事はどちらかと言えばサブカルチャー、特に大衆メディアとの結びつきの強い政治家ばかりだった。青島幸雄、石原慎太郎、猪瀬直樹、舛添要一、小池百合子。こういう都政に慣れすぎてしまったのかもしれない。

それにしても、東京都の職員は、もはやそのほとんどが、選挙のたびに著名人が社長に来る状況で生きてきた。これは普通の自治体だろうか?

それでもなお、自治体の仕事が滞りなく継承されていったのだとしたら、首長は誰がやっても同じなのかもしれない。だから選挙も「誰がやっても同じだよね」という雰囲気が蔓延する。これは国政にも当てはまるのではないだろうか(それにしても、小池都知事ってびっくりするほど公約守ってないな……)。

やはり、日本そのものが投影されていると言っても過言ではないだろう。


キャンセルカルチャーは世界標準で

しかし何より、小山田圭吾(コーネリアス)という名前が出たことによる大炎上だろう。わたしは母親に、もう何十回目かの「コーネリアスはバンド名じゃなくて、屋号みたいなもの」と伝える羽目になった。結果的にリリースから4日後に本人から辞任の申し出があり、彼が担当するはずだった冒頭の4分間をほかのチームが調整するに至っている。

素朴な感想として「なんでこの仕事うけちゃったんだろう」という問いかけをしたくなる。とはいえ、すでにNHKで大丈夫になったのだからOKだ、という判断があっても不思議ではない。それは本人が考えたのみならず、周囲も同様で、世間一般でそのように解釈されていると思ったのではないだろうか。

くだんのインタビューを知らなくても、「昔は品行方正ではなかったが、Eテレをやっている」と世の中の人が思っている……と、わたしなどは純粋に思っていたのだが。そうではなかったらしい。そこまでメジャーな存在ではなかったのだ。もしかしたら、今回の騒動でキャズムを超えてしまったのかもしれない。なんて皮肉だろう。

そして個人的には、今回の件は日本におけるキャンセルカルチャーの事例になるかと思っていた。これだけ世界標準なのか? と。しかし、「それにはあたらない」と考えている人も多い。そうなのか、そうなのか? いや別にキャンセルカルチャーの枠でなくても構わないが、このやり方はエグい。賛同する人はみんながみんな、子どもの頃の非業を晒されて仕事を失っても、自分の子が危険に晒されてもいい、という覚悟でTwitterをやってるのだろうか?

たしかに、あのインタビューは酷すぎる。人をおとしいれ、苦しめる行為をわたしは憎む。しかしながら、2021年にもなって「目には目を」のハンムラビ法典のモチベーションで動くのはできるだけ避けたい。もちろん、高潔な振る舞いだけで世の中が動くのは理想だ。しかしながら……わたしの目の前で繰り広げられたものは、ただのリンチにしか見えなかった。

しかも、辞任と決まったら即座に「冒頭4分間で何をやるか」「どうせならこういう開会式にしよう」という代案が大喜利のように出てきている。既視感があるのは、あのロゴ問題と状況が似ているからだ。外から代案を考えるよりも、自分に何ができるかを考えるほうが先だと思うのだが。これでは、ただのインターネットミームだ。

いいか悪いかは別として、そのような行為が特定の媒体に出ることができる時代も、確実に存在していた。それがよかったとは言わない。けれどもみんな、ついこの間までのいろんなことを忘れてしまったのだろうか。雑誌にインタビュアーの校正が入るようになったのは、後世の習慣だった。少なくとも10年ぐらい前までには「取材記事チェックをしない雑誌」は少数派になっていた。そのことで、新聞社が責められることも増えているほどだ。

そもそも、雑誌のインタビューは取り調べ調書や契約書ではない。すべてが事実通りとは限らず、その点も加味すべきだ。巷で「武勇伝」とされるものが「右の通り事実の相違はありません。捺印」ぐらいの厳密さで正しかったためしがないだろう。しかし、すべてが「証拠」になってしまう。

若い人には誤解してほしくないのだが、校内暴力やいじめが「いいこと」とされた時代なんてなかった。

マットで圧死する人がいても、飛び降りるまで追い詰められる人がいても、ものが食べられなくなるぐらい傷つけられる人がいても、暴力はなくならない。反省文を書かされた人だって、別の場所に行ったら同じことをやられる。そんなループする日常が続いた挙句、何も持たず社会へ放り出される。しかし多くの人にとっては、傍観する風景である。学校という場所は、たぶん今と変わらない。だから、自分より弱いと認識したものを肉体的・精神的に苦しめる「ハラスメント」は社会に出ても止まらない。

加害者は忘れるが、被害者はずっと忘れない。校内暴力もハラスメントも、不貞行為さえも、同じことである。

ちなみに金のない勉強のできない不良だって、相当に無残なことをしでかす。だから一部の人はプロになってしまうので……。残酷さに貧富や偏差値の差はない。(ソース:自分)。

わたしも思えば、最初に#MeTooが出てきたときに、これで下剋上できるかもしれないと、少し興奮したことがある。悪行を積み上げた人も、あちらこちらで要職についていたり、名声のある人、つつがなく日常を送っている。そんな人の、生まれてこのかた数十年分の問題行動を暴き続けたら、次々と退場させることができるかもしれない。

そのように興奮しながらも、もう片方の頭では別のことを考えていた。恐怖政治の歴史をかじったことのある身として、どこかうすら寒く感じていたのだ。どこかで見たことのある光景だったから。もちろん、火炎放射器で一掃できたら、どれだけ気持ちが晴れるだろうか。晴れなくても、続く世代のためには必要なことかもしれない。しかし、その義憤もまた、しばしば実際に戦争が始まる理由になってきた。そうやって火で薙ぎ払った後、何が起こるのか想像したら、背筋が凍る。わたしは大学の専攻もあいまって旧共産圏の話を聞くことが多かったが、やはり「密告」がいちばん怖い。粛清に次ぐ粛清の波は「密告」からの周囲の攻撃で逃げ場がなくなる。民衆の手で行う恐怖政治は固定化しやすい。そして、やがては焦土になる。

ともあれ、このできごとが、「クールジャパン」とか「サブカルチャー立国」「オタクは現代をリードする文化」的なモードに一石を投じればいいと思う。はじめから「サブカルチャー」は元から気持ちの悪いものであり続けているのに、それを白日の下で健康的に語ろうとする日本の状況がおかしいのだ。今回のことでリスクのデカさを思い知っただろうか。

まぁとにかく、この国の魑魅魍魎が映し出されることは間違いない。

Photo by Louie Martinez on Unsplash

コメントを残す