読み込み中…

CLAMP展が見せたもの・見えてしまったこと

暑い夏の終わりとともに、CLAMP展は幕を閉じた。(2024.7.13 – 9.23@国立新美術館 企画展示室2E)

https://www.clamp-ex.jp

よりによって展示が終わってから文章を上げるとは何事か? そう思う人もいるだろう。特に意味はなかったのだが、「CLAMP展とは何だったのか……」と振り返るなら、節目の時にアップしておこうと思ったまでだ。

国立新美術館に現れたのは、ファンサービスの手厚さ、見目麗しくてスマートな居心地の良い空間。CLAMPから見せたいものとファンの見たいものがピタリとはまっていた。

しかし、それ以上のものはなかった。

CLAMPを知らない人にも「行ってみたらいいよ!」とすすめたくなる要素が見受けられなかった。Y2Kから90年代へリバイバルの波が来ている2024年、あのCLAMPが、国立の美術館でやるからには、もっとできることはあったはずだ。

ちなみに、昨年春にところざわサクラタウンで行われた、稲葉浩志「シアン」の展示と同じような趣向が見られた。どちらが先に企画されたものかはわからないが、商業作品の展示の方法としては当たり前なのか、しかしいくら何でもパターン化され過ぎているように思う。

企画展の最後には、グッズコーナーに通される。毎日「入場までの待ち時間」と「グッズ売り切れ」の情報を流し続けていた公式運営の様子は、良くも悪くも話題になっていた。一方で、あまり話題になっていなかったようだが、図録については苦情を入れても良いのではなかろうか。美術展の図録なのに、区画ごとに収録されておらず、作品ごとに整理されて編集されている。これでは、あとから振り返ることが困難になる。(後述する年表は、図録に収録されていない)

もちろん、技術的に(さすが美術館……!)と思うところは期待を裏切らなかった。執拗なまでのメディウムへのこだわりは目を見張るものがある。原画1枚1枚の使用画材に、第三者がこれほど踏み込んだマンガの原画展も、なかなか珍しい。

「CLAMP」の頭文字をモチーフにしたメイン展示は「COLOR」「LOVE」「ADVENTURE」「MAGIC」「PHRASE」の5区画。加えて「IMAGINATION」「DREAM」で締めくくられる。

カラー原稿(レプリカと原画を期間中に入れ替え展示していた)は最初の区画「COLOR」にほぼ集中しており、画材や描き方の変遷を軸とした展示になっている。撮影禁止ゾーンだが、とにかく物量が多いのと、訪れた瞬間だけの眼福だと思うと、集中力が増す。ファンへの「つかみ」としては十分すぎる。

「LOVE」「ADVENTURE」に関しては、作中の印象的なシーンの原画がところ狭しと飾られている。特に集中連載時期の手描き原稿に見える連載中の勢い(というか過酷だったんだだろうな……と想像してしまう)ところ、(訂正される前のセリフが見たい!)と思ってしまうなど「原画展あるある」を安心して楽しめる。作品の流れをブツ切りにしてキーワードでカテゴライズさせられるとともに個々のシーンが並んでいるのを見ると、「CLAMPらしさ」を再確認させるとともに、元の作品を知らない人には「なぞかけ」のような光景が広がっている。(しかも展示の中で回収されることはない)

「MAGIC」は映像インスタレーション。最近よく見かける、平面を動かす動画の。アレです。

「PHRASE」は、来場者参加型。銀色のステッカーを1人1枚ひくと、色々な登場人物のセリフが書いてある。その銀色のステッカーは「よろしければ」壁に貼るようにと指示がある。ふと見やると、区画の壁一面には作中のセリフが埋め込められるように貼り付けられていて、それは天井につながる。ことばの渦にいるような感覚に陥る。

この企画展で最も圧巻だったのは、「IMAGINATION」エリアの年表。鎮座した現物に見下ろされている。物理で攻めてきている。

ただし、この年表の欠点は、CLAMP以外の動きが見えないこと。メディアミックスや絵柄やテーマの変更が唐突に始まったように見えてしまう。

また、事情は拝察するにしても、つい最近「東京BABYLON」のアニメ化が企画されたことは少しでも触れられてほしいところ。(見落としの可能性もありますが……)さまざまな作品で〈未完〉と記載しているのだから、歴史を語るのであれば、それぐらい潔いのが良いのではなかろうか。

そもそも、このエリアではメディアミックスの話も多く出てくるのだが、アニメーションや声の話があまり出てこない。CLAMP展に寄せた4名の対談が展示されているが、音源で聴けるような仕組みがあっても良かった。仮に、今は声出ししたくないのでも、むしろ年表のところで、ラジオ音源をチラッと聴けるとか、やり方はあったはずだ。

そんな少しばかりの疑問を抱えながら最終区画へ。描きおろしカラー原画では、阿修羅とさくらが微笑んでいる。2人とも2024年版にアップデートされているあたり、さすがとしか言いようがない。だからCLAMPはすごい、という事実は確かなのだが、CLAMP展はどうだったのかというと、やはり腕を組まざるをえない。

冒頭でも「シアン」の展示を引き合いに出したが、多くの人の心をつかんだ商業クリエイティブの取り上げ方は難しいのだろう。作家性にスポットライトを当てることはできる。それ以外のフレームを使うことができないのは、単に制度の問題なのか。インバウンド需要を見込んで国立新美術館での開催だったのか、それ以上に意図があったのかは分からない。いずれにしても、国を代表するひとつの現代アートについての機関で展示するのであれば、やはりもう少し踏み込んだこと、ファンダムではない要素をさらに詰め込む必要があったものと思う。

東京タワー

平成はXに満ちている【極私的・批評再生塾プレイバック】

【極私的・批評再生塾プレイバック】
かつてゲンロンにて開催されていたスクール「批評再生塾」第4期に在籍していた(2018~2019)筆者が、そこで発表した文章に、改題や補遺を付けて記録に残しておく試みです。スクールでは、課題に応答する批評を毎回書き上げて選出されたら発表、そして講評されるというタームを繰り返していました。もうサイトは閉鎖されてしまったけれど、自分の中ではなかったことにはできない時間です。すべて掲載するかは未定。なお、粗削りな文章であり、「4000字から8000字」が基本なので、「こうしておけばよかった」「今考えるとこういうことではないか」といった補遺(言い訳)は文章の前に記すことにします。こうしたところで、何の免罪符にもならない。ここでただ焼き直しを載せるのも、改稿するのも、違うような気がしているので、しばらくは、この形をとります。

《2024.8.17 補遺》今年の夏は、国立新美術館で「CLAMP展」が開催されている。このとき出された課題は、さやわか氏による「平成年間(1989~2020)のポップカルチャーで、この時代の、あるいは人々や社会の、あり方がもっともよく描かれている作品や事象を一つ選び、論じてください」というものだった。色々と考えた結果、わたしはCLAMPの『X』を選んだ。今でも、この選択は間違っていないと思う。ただし、講評の際に『名探偵コナンと平成』をさやわか氏が上梓することを打ち明けられ、(あぁ……やられた……)と思ったのは事実だが。

改稿するのであれば、何よりも、「X」というワードにもっと焦点を当てるべきだったので、そこは直したい。また「決断主義にすべき」と読めてしまうので、そこは言い方を変えるべき……なのだが、実際に書きながら迷っていた痕跡を消せなかった悪い例。(実際に、講評でもそのような指摘をされた)

論点を収斂させるのであれば、アーレントなど「中動態」を補助線として用いれば、整理しやすかったのかもしれない。(が、風呂敷を広げて失敗した可能性も大きい)

また、引き合いにだす資料として一見すると飛び道具のような出典を出している。近代から現代の日本を取り上げるため、幕末や第二次世界大戦の戦後に通底している点を論じたかったが、なぜこれを取り上げるのかを丁寧に拾うべきだったな…ジェンダー観についても同様…と反省点しきり。

それでは以下、本文になります。(改行など規則はWEB用です)


平成はXに満ちている(旧:東京は、世界の中心だった。)


1999年の約束の日。「それ」は来なかった。

ここに、平成年間の〈依り代〉とも言うべき、未完のマンガ作品がある。CLAMPが発表した『X(エックス)』という物語に目を向けてほしい。そこに映し出されるのは、平成という時代だ。

2018年の夏。「平成最後の夏」というワードは、久しぶりに世代を超えた符牒になった。そう、2019年4月末日を最後に「平成」という元号が新しくなる。しかし実際、元号と私たちとの距離は遠い。カレンダーや変換機能を参照せず、あの東日本大震災が「平成何年」に起きたのか、あなたはすぐに言えるだろうか?

改元と同時期に予定されている消費税の引き上げのほうが、よほど私たちの生活に影響の大きいはずだが、それよりも歴史的瞬間に立ち会うほうが一大事。明らかに浮き足立っている。

その瞬間を迎える前に、やっておくべきこと。私たちの記憶が薄れないうちに記しておきたいことがある。当事者性を求めるのではない。今私たちは、あまりにも多くの情報を目にして、気が狂わないように忘れていく、そんな時代を生きている。だから埋もれてしまう前に、『X』という完成されない物語に仮託された「平成」を見て、次の時代に備えたい。

◇◇◇

『X』は、1989年つまり平成元年に商業誌デビューをしたCLAMPによる作品だ。1992年、月刊『ASKA』にて連載スタート。現在は連載休止中だが、TVアニメ・劇場版・ゲームなどメディアミックスが行われて一世を風靡した。あるいは、このように言えば思い出していただけるだろうか。X JAPANが劇場版に『Forever Love』を書き下ろした。その曲は、X JAPAN解散後、HIDEの告別式でも演奏された。

原作者のCLAMPとは、いがらし寒月・大川七瀬・猫井椿・もこなの女性4名による創作集団。マンガを中心に、キャラクター原案制作やアニメ脚本なども手がけている。関西での同人誌活動を経て上京。1989年、新書館の『サウス』第3号にて『聖伝-RG VEDA-』の読み切りを掲載し、商業誌デビューを飾る。デビュー以来、少女誌・少年誌・青年誌……と媒体を横断しながら活躍。魔法ファンタジーやオカルト的、スピリチュアル的な世界、並行世界、RPG的な要素を軸にした作品が多い。完成度の高い画と独自の世界観を築き上げ、出版とゲーム、音楽というメディアミックスによる商業的成功の一角を担ってきた。海外からの人気も高く、また世代を越えたファンを確実に獲得。制作の現場に身を置きながら自らのブランドを守り続ける、数少ない存在と言える。

とはいえ、彼女たちの射程圏内はニッチな市場ばかりではない。そこが強みでもある。児童向けの時間帯に全国的にTVアニメ化された『魔法騎士(マジックナイト)レイアース』『カードキャプターさくら』というタイトルは、CLAMPの名前を知らずとも耳にした人もいるだろう。


平成という時代をなぞるために、まずは時系列的なことを言及しておく。『X』は2002年の第18巻、単行本化していない2006年/2009年に発表された「18.5巻」を最後に休載中である。メディアミックスされた劇場版やTVアニメ版、ゲームのエンディングには、もちろんそれぞれの結末が存在する。しかしながら、そもそも原作とはストーリーが異なっており、やはり未完と言ったほうが正しい。また、1989年に発表した『東京BABYLON』や『CLAMP学園探偵団』などと同じ人物が登場する地続きの世界である。だから『X』が平成とともに生まれた、と言っても差し支えないはずだ。


そして、その内容は平たく言うと「典型的な世紀末思想ハルマゲドンを日本でやってみた」である。
世紀末の地球の命運を賭け[天の龍(七つの封印)]と[地の龍(七人の御使い)]が東京を舞台に互いの超常能力で戦う。この超常能力イメージには、陰陽師や真言密教、三種の神器など日本的なモチーフが多く使われており、コンピュータやゲノム的な最先端サイエンスの要素も大きな度合いを占めているのも特徴だ。


なぜ東京で戦うのかと言えば、東京が地球を守る結界の中心だからだ。国会議事堂や東京タワー、銀座の時計台、レインボーブリッジなど、東京を代表する建造物のほぼ全てが東京=世界を守る大切な結界なのだ(……もちろんフィクションである)。

それらを守るのが[天の龍]として生きる7名。いっぽうの[地の龍]7名は、そうした結界を破壊するのが使命だ。[天の龍]は自らも結界を作り、攻撃から街と人々を守る。
言い伝えによれば、[天の龍]が生き残れば人々は生き延びて現状が「維持」され、[地の龍]が結界をすべて破壊すると、「変革」が訪れるという。

主人公は、[天の龍]の中心となるべく生まれた「神威(かむい)」という名の少年。幼い頃から常に能力を鍛えながら隠れて生きてきた。彼の心の拠り所は、幼馴染みの封真(ふうま)・小鳥(ことり)の兄妹であった。潜伏先の沖縄から、久しぶりに東京へ戻り彼らと再会した喜びも束の間、運命は回りはじめる。「封真と小鳥を守りたい」と神威が強く願うと同時に、傍らにいた封真の性格が豹変。小鳥を惨殺してしまう。愛する幼馴染みが敵方[地の龍]の「神威」として覚醒して「神威」となった瞬間だった。元・封真の「神威」は、覚醒したと同時に誰よりも強い力を手に入れ、ジョーカー的存在として[天の龍]に立ちはだかる。そこから始まるのは戦いに次ぐ戦いだ。


最新巻では、[天の龍]は敗走を続け、東京はほぼ壊滅状態である。そして誰も彼もが、大切な人を守ることと、自分の願いを叶えることに小さな矛盾を秘めている。さらには、対立するはずの[天の龍][地の龍]は、その心次第で立場が簡単に入れ替われることも明らかになった。物語は明らかに終盤に差し掛かっており、あとは伏線を回収すれば問題なさそうなのだが(単行本の装画が主要人物をタロットカードの大アルカナに見立てたイメージ画になっており、残りはおそらく4巻であると推測される)、再開の見込みは立っていない。

なぜ、このストーリーは完結されていないのだろうか。体調面なら、他の作品と同様に考慮して描き上げることもできるはずだ。喜ぶファンは大勢いる。創作意欲といえば、何より作者の「完結させたい」という発言が度々話題に上がっている。

発表されている限りでは、社会情勢や世相を鑑みた結果である。時代が進むにつれて実際の事件や災害とオーバーラップすることがあり、たびたび休載。結果的に連載は長期化の憂き目に遭った。読み返してみれば、再開発で消えた建物で戦っているとか、ポケベルで呼び出している姿などで、時間の経過を見せつけられる。そして、いくらフィクションとはいえ「東京が世界の中心」という言葉に薄っぺらさを感じてしまう。描かれた当時は、フィクションとはいえ納得させる力が東京にあった。

ここで、作品と連想しがちな事件・事故を挙げておこう。思いつく限りでは、矢ガモ騒動(1993年)、阪神大震災(1994年)、オウム真理教によるサリン事件(1995年)、神戸児童連続殺傷事件(1997年)、日比谷線脱線事故(2000年)、アメリカ同時多発テロ(2001年)、イラク戦争(2003年)、イラク日本人人質事件(2004年)、秋葉原通り魔事件(2008年)といったところか。そして決定打となったのは、やはり東日本大震災(2011年)だろう。特に2000年以降は、現実がストーリーを凌駕している。作者自身が「そういう部分も含めて、いろんな意味で、最も時代に振り回された作品かなと思っています」と語るのも本音だろうとは思う。たしかに、社会情勢を反映したからこそ、作品は生まれ、だからこそ宙づりにされてしまった。

だがしかし、本質的なところは別にある。それは平成が「決められない」「変えられない」時代ゆえに、起こるのである。

この物語は、登場人物たちに「自らの本当の願い」を決断することを求める。そして、何かを変えていかなければ、物語は先に進まない。この、いろんなことが「決められない」「変えられない」状態は、平成という時代、2018年現在の日本そのものである。それらは登場人物たちの行動・思想に現れている。

◇◇◇

主人公である神威は、本当の願いを何にするか決められない。物語の進行上は、これは厄介だ。なにしろ、それがなければ、この作品で必殺技的な「結界」が作れない。結界を作れない以上、常に誰かに結界を作ってもらわないと、一般市民を巻き添えにして戦ってしまう。
自分探しというよりは、欺瞞に囲まれ、思考が先回りして本当に望むものを感じ取れない状態だ。フロイトの言葉を借りれば、意識ばかりが先行して、無意識にある欲望を抑圧している。いっぽう、宿命のライバルである封真は、すべてお見通しだ。絶対的な存在、いわば全能の状態。封真以外は、自らの欲望に突き動かされるばかりに、無意識に事態を悪化させていく。それは敵味方の区別に意味がない。

だからこそ、絶対的な正義が揺らいでいく。そもそもが[天の龍]と[地の龍]の二項対立の構造が不安定だ。人の手で地球は汚れている。そうであれば地球を再生させることも美しいと言える。しかしそれは、愛する人々の死と引き換えになる。そして、個人レベルでも齟齬が生じる。自分は好きな人を守りたいと願い、当人は生きていたくないと考えている、その正義はどちらに分があるのかわからない。
主人公である神威が、自分の真にやりたいことは果たして何であろうか、何を守りたいのか。そういった大事なことを「決められない」まま、他の人に依存して戦いに突入している。

さらに、先述したとおり、敵と味方がふとした拍子に入れ替わる。Aから見ればYは正しい。しかし、Bから見ればYが正しいとは限らない。やがては視界にすら入らなくなる。信頼できない話者ばかりが生きているとも言える。ポストトルゥースという言葉が成立する前に、すでにそんな世界が立ち現れていたのだ。
加えて私は先ほど、『X』は平成の〈依り代〉だと述べた。つまりは、この主人公の状況は、平成の根幹を成す日本という国の状況の映し鏡である。

ここで私は、加藤典洋『もうすぐやってくる尊皇攘夷思想のために』を参照したい。〈明治150年〉という2017年に、丸山眞男が晩年に行った福沢諭吉の研究を紐解きながら、1850年代と1930年代、2010年代の直結した関係性を示している。

[私たちは、幕末期(1850年代)の尊皇攘夷思想を「抑圧」するという明治期の「過ち」に目をつむり続けて来たので、80年後(1930年代)、その劣化コピー版としての皇国思想の席巻という苦い目にあったのだった。それと同じく、戦後再び戦前の皇国思想を「抑圧」するという「過ち」を繰り返したために、やはり80年後(2010年代)、また新たな尊皇攘夷思想がさらに劣化の度合いを進めたかたちでやってくるだろうことを予期しなければならないのである。]

そういえば「尊皇攘夷」という考え方で動いていた集団はいつの間にか、「尊皇開国」を幕府に迫り、明治維新が成される。その矛盾はどうなっていたのだろう。私は迂闊にも気づいていなかった。
どうやら、何よりもまず「尊皇」ありきだったというのだ。その正当性を追求すること。それは国を倒す可能性もあり、建国の可能性もある正統性(オードクシー〈O正統〉と呼ばれる)。この時には「日本が何もしていないのに攻められている。尊皇のためには、どうすればよいか」を突き詰めた結果、尊皇攘夷が始まる。

やがて、薩英は実際に外国軍と相対する。圧倒的な軍事力の差を前に、とても尊皇が守れないということがわかる。だから、目的を達成するための論理「尊皇開国」へと向かった。これが、その国が成立した後に、国の内側を満たす正統性、その根拠として持ち出させる合法性(レジティマシ―〈L正統〉と呼ばれる)。つまり政治的な正当性、関係性の中の真実である。

予め〈O正統〉がなければ〈L正統〉は生まれ得ない。「攘夷」の急先鋒が「開国」へと舵を切るには、やはり矛盾があった。しかし、その矛盾を飲み込んだ上で、明治は生まれていた。倒幕を掲げた運動はしかし、江戸城の無血開城で落ち着き、徳川家は華族として生き長らえた。志士のなかには、扶持もままならない者がいたのにもかかわらず、である。

その後果たして、明治はどうなったか。矛盾を抱えたまま出発した政府の発令とともに奥羽列藩同盟により起こったのが戊辰戦争。そして十余年後、西郷隆盛を大将に据えた西南戦争が起きる。これは、攘夷論を飲み込んだ者の想いを「なかったこと」にして、放置したツケにほかならない。政府のみならず世論も、時代遅れの不逞分子として彼らを糾弾した。そのことを、福沢諭吉は強く憂い後世に残している。

そして、丸山・加藤は、幕末の無血開城から約80年後の1945年、日本は再び同じ轍を踏んだことを指摘する。

[国体護持のため]に[時制を鑑み]て、徳川幕府が行った「琉球処分」を取り消すことで……敵方に沖縄を差し出すことで無条件降伏をした。

さて、『X』において、〈O正統〉は神威の決意だ。[愛する人たちが幸せに暮らしていける場所を守りたい]と告げる。その瞬間、封真中での「神威」が覚醒して〈L正統〉がひらかれる。それならば、やるべき手段をとるべきだ。しかし、神威は逡巡して、なかなか行動が定まらない。物語は混迷を深めていく。

◇◇◇

そして、もうひとつが「変えられない」という呪詛だ。

『X』には、物語の未来を「夢見」という未来の予言者が複数名登場する。しかし、ほとんどの者が、未来はひとつ、運命に逆らえないと言う。その多くは暗い夢だ。彼らに見えている未来はいつも正しくて、彼ら自身をも痛めつける。どうか変わってほしいと人が請い願っても、無慈悲なほどに変わらない。

ところで加藤は、正統性を決められなかった日本の態度について、2020年を見据えて、同著でこのように述べている。

[歴史の本を読むと、日本の政治的統治は何をもって正当化されうるか、ということが古代以来の日本の歴史を貫く一大問題だったことがわかる。なぜ、戦国時代を通じて、天皇は廃されなかったのか。自分で新たなルールを作り、「約束」(レジティマシ―=政治的正当性)の根源を刷新(更新)するリスクを取ることを、誰もが怖がったからだ。その結果、日本では、その政治的正当性を誰に帰すかという「約束」ごとは、七世紀に律令制の導入のときに、これを「天皇」に帰すと決めて以来、ずうっとそれを転用することで済ましてきた。その事情は、藤原の摂関政治、源頼朝にはじまる武家政権、幕末期、すべて変わらない。]

この状況は、まさに『X』の泥沼感と底が通じている。それはそのはず。なぜなら、この物語には時代が乗り移っているのだから。この辺りが、いわゆるセカイ系に多く見られる仕組みとは異なる。多くのセカイ系は、読者の内的世界とはつながるかもしれないが、現実と対になるような関係性は結べない。
たしかに、『X』で言うところの空を飛び、炎や水を自在に操ったり、式神を召喚して戦ったり、なんてことは、現実からはみだした行為だ。しかし、そこには間違いなくリアリティがある。登場人物たちは、こちら側の時代を背負っているのである。

そして私たちはいま、変化を求める声をどれだけ上げても、根本から「変わらない」「変えられない」時代に生きている。果たしてどの時点から変わりたいのか、その声を、どこに上げれば良いのか定まっていない。

そのひとつとして、ジェンダーの問題を上げてみたい。性差で役割を振り分けるという姿勢は、無意識のうちに自然な行為として受け止められている。嫌がらせをするとか、明らかな侮蔑に関しては、ここでは検討に入れない。何故ならば、それは『X』には出てこないから。私がここで問題にしたいのは、そういう類のものではない。あえていうならば好意に似た、それぞれにふさわしいとされる振る舞い、生まれついた運命のようなものだ。

私たちは役割をすぐに引き受けてしまうし、与えてしまう。[天の龍]と[地の龍]どちらにも女性の能力者がいる。ひとつには、彼女たちは、総じてみな聡明で美しい。そして、戦いの相手や仲間に恋心を抱く。そして一様に、恋心が能力の邪魔をする。いっぽうの男性陣は、大切なものを守りたいという想いで力を発揮するのにもかかわらず。また、生け贄的な役割を果たすのは、すべて女性である。そして何故か、彼女たちは運命をすぐに受け入れてしまう。そして男たちに後を託す。あなたなら大丈夫だからと。

実は、この振る舞いは、男の側も女の側も、押し付けあっているだけで無責任である。ここにも、日本の「変わらない」という現状が、しっかりと刻印されている。超常能力など持たない私たちも、いつの間にか性差での役割を押し付けたり、引き受けたりしているはずだ。

1985年、まだ昭和の頃、日本でも男女雇用機会均等法が施行された。1989年になって、技術・家庭科の男女共修化が勧められた。2018年現在の最新版である2017年の統計では、OECDが発表したジェンダーギャップ指数は114位。5千円札に樋口一葉が選ばれても、女性作家はいつまでも「女性作家」だ。

物語の中で、小鳥が遺したメッセージは、唯一の希望である。彼女は夢見としての才を本格的に覚醒する前に、「神威」に覚醒した実の兄に葬られた。そうして死ぬ瞬間に見た夢を、愛する2人の男に伝言する。兄・封真と、幼い頃将来を誓った神威に宛てて。

[まだ…みらいは…きまっていない]

少なくとも神威にとっては、希望だ。
私たちの日本にとっても、「まだ決まっていない」ということは希望になる。残念ながら、作中には答えが見つかっていない。そして、平成という時代の間には、まだはっきりと、これ以上のことは結実することはないだろう。

◇◇◇

1999年、約束の日。「それ」は、もう来ない。

『X』という作品が完結しないのは、ただただ時代が悪いのでもない。もちろん、作者の大風呂敷のせいではない。平成という時代が、何も決められず、変わらない時代だからこそ、物語が進むことなく終わっていくのである。

私たちは、すぐに忘れて、何でも古さのせいにしてしまう。今だって、少し古いものはすぐに「昭和っぽい」と言う。黄色い栄養ドリンクが働くオトナに向けて「24時間戦えますか?」と鼓舞したのは平成になってからなのだ。

平成最後の夏に、平成という時代を振り返って記したからには、もう忘れてはならない。この『X』という物語のことも。そして今度こそ、私たちは「決められない」「変われない」ということを止めなくてはならない。まだ、未来は決まっていない、のだから。


【参考文献】


文字数:7804

そして「X」へ

その日は、突然に。本当にやってきた。イーロン・マスクが買収するとかしないとか。「Twitterなくなるってよ問題」だ。最終的にTwitter社自体がなくなって、「いつか来るだろう」とは思っていたけど、もう本当に、突然の出来事だった。イーロン・マスクが「Twitterやめて、Xだから」と言った数十時間後、青い鳥のアイコンは「X」になってしまった。

UnsplashZane Leeが撮影した写真

geocitiesが消滅するとき、まるで限界集落を先取りで見ているようだった。Twitterの場合は、真の変革をするためには、衰退を見守るよりも物理的に殴るほうが確実なのだというひとつのモデルを見ている。

やはり「X」は大事。記号としての「X」は。……そんなことを書いていると誤解されるかもしれないが、わたしはイーロン・マスクの信奉者ではない。本当にぜんぜん違う。

ただ、やはり未知の変数Xは捨て置けない。「X」は少しの間隙など、ものともせずに次を作っていく。


さて、Twitterが作る「ゆるふわ」な世界は、ただの幻だったとしても。虚空に会話をすることで満たされた心の平和があったことは覚えておきたい。

何か本当に世の中(「セカイ」ではなく)を変えることができるのではないかと、ほんの少しの希望が灯っていたことは悪くなかった。Twitterが「キャズムを超えた」瞬間に、それが起きるのかと期待したけど、それはかなり間違っていた。それすら覚えておいた方がいい。「キャズムを超えた」瞬間から、変容の一途をたどっていた。そもそも、結果的に「#MeToo」が生まれたのであって、最初から「正しい情報」の場を作ろうとしていたわけではなかった。この辺りは、後の世に誤解されないか心配だ。

そして、破滅に至るも人々はどこか他人事だ。結局最後まで、大喜利的なTweetが生まれては消えていく。Facebook(というかMeta)が始めたThreadsは、たしかに初期のTwitterのようだ。が、その大喜利的な何かの気配まで進出している。人は学ばないらしい。


世代論でくくるのが大雑把すぎるのは承知の上だが、「Generation X」、そしてその子ども世代である「Generation Z」が現代の資本経済で主役になっているのをヒシヒシと感じてしまう。間にはさまれたミレニアム世代(日本ではロスジェネ世代)からすると、なんとも言えないのだが、さては隣の芝生は青いというやつに過ぎないだろうか?

ちなみにどうでも良いことだが、パンクバンド「Generation X」のビリー・アイドルがどうしているかと彼のTwitter(X)アカウントを覗いてみた。すると、67歳で元気に活動中であるとわかった。すごい。

さらに蛇足になるが、このバンド名の由来と言えば、ビリーの母親が持っていたジェーン・デヴァーソンの『Generation X』に由来するという逸話が定説となっている。世代名は、ダグラス・クープランドの『Generation X: Tales for an Accelerated Culture』で世間に膾炙したものと思うけど、なんとも言えない偶然であり必然。

↓中古しか出回っていないようですが、意外とこの辺りは電子書籍などになると売れそうな気がする。


Twitterの画面を観てみよう。今のところ、青い鳥のアイコンだけ去って行き、「X」というロゴに書き換わっているのだが、各種ボタンやリンク処理には、元のブルーがそのまま残っている。なんとも突貫工事っぽい。そういえば、少し前から「認証を受ける」「フォロー」のボタン(PCブラウザ版の右カラムボタン)は、スミ一色になっていた。そういうところはスタートアップ的な香りがする。せっかくだったらドラスティックにすべてが変わるような仕掛けにしたらリッチな感じがするのに……と思ったものの、もしかしたら課金している人にはそうなっているのかもしれないな。

そういえば、少し前にイーロン・マスクがThreadsの表示を「Twitterと酷似している」と言ったのって、実はこの「X」の画面のテストアップと似ていたのかもしれない。結果的に後発になってしまったので、とりあえずブルーを残している可能性もあるのか、ないのか。それこそ、本意はイーロン・マスクしか知りえないし、自身も分からないのかもしれない。

ここ10年以上、ビジネスで「デザイン」が大事なのだと言われ続けてきたけれど、実際にものすごく成功した(ように見える)イーロン・マスクの振る舞いを見ていると、それもまた怪しく思えてくる。
※ただこれは特殊事例に違いないのだが。

「Twitterなくなるってよ問題」は、当分の間続くだろう。いろいろな意味で、時代のはざまに生きている実感をもたらす。そして、それにしても。仮にも「Z」だったら厄介な世の中であることも、考えずにはいられない。

note更新中です!*固定post*

noteというプラットフォームを使用中です。

  • 有料マガジン「ものうる人々」:広告まわりの文章
  • 無料マガジン「ぼちぼちブックレビュー」:書評(本当に不定期過ぎる)
  • 無料マガジン「もぬけ道」:なんか抜け道はないか、探るためのエッセイ

知らない人から反応がもらいやすいので面白いです。よろしければ下記よりどうぞ!

https://note.com/spicyjam

終わりゆくものを見守る日曜日

Photo by David Nitschke on Unsplash

この8月末で、数年前に通っていた「批評再生塾」という私塾のサイトが閉鎖される。先週の木曜日、初めて長時間のspace(Twitterの音声機能)でそのことについて話をしていた。講座で聴講生をしていたマリコムさんとトークをした内容は、追って文字として残しておく予定だ。

これは、話をするためのネタにしたかったのではないし、感傷に浸りたいわけではない。すぐに「なかったこと」として忘れ去られるのが嫌だからだ。

8月頭、スクールから閉鎖のお知らせが届いた。そのメールを読みながら、わたしはスタバで「沖縄 かりー ちんすこう バニラ キャラメル フラペチーノ®」をストローで吸っていた。とてもおいしくて、一口飲むごとに消えていくのは切なかった。そして、飲み進めるうちに氷で薄まるフラペチーノのように、「批評再生塾」の存在も、記憶から薄れていくのかもしれないとも思った。すぐに完売になってしまった夏の思い出。「ちんフラ」という略称に反応している阿呆な声も見かけたが、それぐらいではやし立てるなんて、嘆かわしい。しかし、それさえも簡単に、年末には忘れているだろう。

https://product.starbucks.co.jp/beverage/frappuccino/4524785513730/

なぜ忘れ去ってしまうことに抗おうとするのか。きっとそれは、昔できなかったことへの穴埋めのようなものだ。

学派や論壇の組織はいろいろに生まれては引き継がれ、新しいものが生まれていくが、それはまるでバンドの変遷を見ているようだ。それを思うと、うかうかとしていられないと思った。このままだと何も、痕跡がなくなってしまうだろう。

多くの人が「バンドの変遷」と聞いて思い浮かぶのは、いわゆるV系などのジャンル別系統図だろうか。当然だが、それは誰かが描いているものだ。そのように書き留められる術を持たない(または拒否する)バンドはどうなるだろうか? 答えは簡単だ。ただ、忘れ去られるのみ。

世の中には、かつて少なくない人々を熱狂させたが、記憶が街の中に埋もれているバンドが数多く存在する。その規模は、毎月全国のどこかで、数百人・あるいは2000人程度のライブハウスを満員にさせるような、という程度に「少なくない人々」である。そんな熱狂を生んだバンドが、公式サイトの閉鎖・ドメイン切れ、ファンサイトの管理人の逃亡・更新停止などが続くだけで、存在自体が無いことにされてしまう。WWW上にある世界が全てではないのに、いつからか、人は検索されないものの存在を信じられなくなっている。口伝だけでは、心もとない時代が到来している。

たしかに、すべて万事あるがままに、そっくり保存するなど不可能だ。事実をただ保存しても、真実は人によって変わる。過ちも善いことも、何もなかったかのように装ううちに、それが真実になるかもしれない。けれども、自分が何かを残しておけば、振り返った時に何もなくなっている状況には陥らない。かつてわたしは、くだらない私情を理由に、解散・活動休止したバンドやアーティストの存在を書き留めたライブレポートをおざなりに扱った。後からそれらの資料をどこかで探そうとしたときに、たいへん困る。本当に存在自体が消失しているも同然だ。そんなはずはないのに。

勝手にアーカイブしたいと思ったのは、そのことへの「贖罪」でもある。もちろん、スクールの卒業生・修了生の目の前には未来があり、過去に縛られる必要もない。しかしながら「無」に近い状態するのを放っておくのも、まるで同じことの繰り返しだ。たしかに歴史は繰り返す。しかし、もがいた痕跡を残しておきたい。やはり歴史が繰り返すとしたら、きっと自分は再び狼狽するだろうから。

R.I.P と書きながら前に進む

Photo by Matt Senior on Unsplash

noteはボチボチ書いていたけど、数ヶ月の間、こちらを更新していなかった。理由は、ただのサボりではない。下書きにしておいたある人への応答が書きかけで、そのまま急逝してしまったからだ。その記事は、もう届かない。

投稿画面の一覧に表示される、そのタイトルが辛くて、乗り越えるのに時間がかかってしまった。

久しぶりに、身近に訪れた死だったのと、最後に会ったのが画面越しだったことで、気持ちの整理がつかなかったのかもしれない。

20代前後は周りでどんどん誰かが亡くなっていった。だから、「30まで生きるわけがない」と信じていた。サブカル気質(というより当時は相当に重症)だったことも相まって、まさか40過ぎても惨めなまま生きているなんて、夢にも思わなかった。

しかしこれでは祖母の口癖と同じになってしまう。祖母は「わたしゃもうすぐ死ぬんだから」と言いながら30年以上生きた。同じ轍を踏んでしまうので、もういくつまで生きてもいいやと思うことにした。

これから年を重ねれば、こういうこともまた増えていくだろう。胸に刻んで生きていくしかない。

そして今週末は、その人と最後にコンタクトをとったオンラインイベントの2022年版に参加する。予定を確認するたびに「あぁそういえば……」と思い出すことで向き合えたというか、自分の中で踏ん切りがついたようで、「投稿リストを更新してもいいや」という気持ちが自然と芽生えた。

なぜか胸に去来したのは川村結花の「Here there」という曲だ。「忘れないから思い出さない」という一節は、もしかしたら意地を張りながら前に進まないといけない時もある、そんなことをふまえた唄なのかもしれない。初めて聴いた20代前半には思いもよらなかったことだけど。

https://music.youtube.com/watch?v=-j5oUB9Afog

国立競技場に映るは国の真影

神宮に建つ国立競技場を真上から見ることが増えた。このあいだ見た写真は、どういう加減だか光が反射していて、まるでオーバル型の鏡のようだった。

開催が迫るなかでオリンピック関連のニュースには、いくつも論点があり、すべて拾うと枚挙にいとまがない。ただ、TOKYO2020というイベントが現在を映す鏡であるという観点から見ていくと、焦点が定まってくるように思う。

いろいろあったけれど、やはり大きかったのは7月15日、オリパラの開会式・閉会式の概要が発表されたことだ。ビッグニュースではない。しかし、ちょっとしたリリースが大きなニュースになってしまった。(※パラリンピックについては、未発表の部分が多い)。

造語乱発のコンセプト

まずは、コンセプトが謎に満ちている。公式のリリースは以下です。

東京2020大会開閉会式4式典共通コンセプトならびに東京2020オリンピック開閉会式コンセプトを発表

https://olympics.com/tokyo-2020/ja/news/news-20210714-03-ja

何が何だか? という感じだが、抜き出してみると、こうなる。

【オリパラの開会式・閉会式共通コンセプト】
Moving Forward

【オリンピックの開会式コンセプト】
United by Emotion

【オリンピックの閉会式コンセプト】
Worlds we share

なかなか破壊的である。たいして英語できるわけじゃないけど、なんか変じゃないか……United by Emotion……SFの世界みたいなのを楽しめばいいかもしれないけど怖い。でもたぶんこれ「エモい」ってやつを使いたかったんだと思うから哀しい。ただの憶測ですが、企画書段階の「コンセプト」がそのまま使われているような気がする。作業チーム内でイメージを共有するために使われる、インナーコミュニケーションとしての言葉を作るというのはあるから。それにしても謎が多すぎるけれど……。

補足を入れながらざっくりまとめると、こういうことだと思う。

TOKYO2020は「進め、その先へ」(訳はイメージです)というスローガンの下繰り広げられる夏の祭典です。まずはオリンピックは「つながる心」(訳はイメージry)で始まります。オリンピック競技はここでいったん幕が降りますが、舞台は続く。「多様な世界が広がり、接続」(訳はイメry)され、その情熱はパラリンピックにつながっていく。

もとから開示されている資料によれば「起承転結」で4つの開会式・閉会式を表そうとしていたので、こんな構造だと思う。パラリンピックの開会式・閉会式のコンセプトは次回発表するらしい。(そうそう、だから第一報では、パラリンピックの開会式・閉会式のメンバーは発表されてないのだ)

このおかしさを、日刊スポーツがインタビューすると、こうなる。↓

https://www.nikkansports.com/olympic/tokyo2020/news/20210714000127五輪パラ開閉会式統括、組織委日置貴之氏が共通コンセプトに込めた思いとは

https://www.nikkansports.com/olympic/tokyo2020/news/202107140001278.html

うん……。なるほど。たしかに、日本語のひとことでは表せない概念があるのは認めよう。しかし、他の言語で言い換えできないほどの抽象的なメッセージでは伝わりづらいはずだ。 せめて、国連公用語ぐらいは用意するべき。そうだ、つまりは英語圏じゃない人のことを考えていないのが透けて見える。

「それぞれの解釈にゆだねる」という言語感覚に対する鈍感さや知性の欠如が哀しくもある。しかし、このボンヤリとした感じで留めおこうとするのは、ある意味で日本らしいと思う。世界標準を目指しているのに逆説的ではあるが。

まぁなんというか代理店営業が使いがちなノリでもあり、氏のことを悪く言いたくなるだろう。しかし日刊スポーツの記者だって、この人がどうやって見えるか計算した上で掲載をしているわけで、わかりやすい「代理店っぽさ」も加味されているのかもしれない。十分に露悪趣味的だ。


ジェンダーバランスについて

半ば忘れられそうになっているが、最初に指摘が相次ぎ、タイムラインを騒がしたのは、ジェンダーバランスについてである。「女性を締め出した」とか「女性がいない」といったツイートをしている著名な方もいた。

たしかに、女性比率は少ない。責任のある立場にある女性が少ないのは、本当によくないことだ。締め出されてきた歴史が表れているのはまさに、その通り。 けれども「女性がいない」と言ってしまうのは、もっとよくない。きちんと名を連ねている女性の立場はどうなるのだろう。

たしかに「ダイバーシティを標榜しておきながら何たること」と言うのは簡単だが、ない袖は振れぬ、である。この状況で、いきなり開会式・閉会式の体制図が男女比率が半々の組織になっていたら、夢のような話だが、かえっておかしい。

むしろ、こうなることは折り込み済みのはずだ。総合演出の後任を充てないということが発表されている、ということだけではない。日常的に女性がリーダーとして進めるプロジェクトが極端に少ないのだ。

人とモノ、カネを動かせる(実績のある)女性が日常的に活躍していれば、延期に伴うプランBにおいても選択肢は広がったはずだが、 日本にはそれだけの素地がない。何もオリンピックの組織が独特なのではない。今の日本の社会からすれば、無理からぬことだ。その国以上のものはできない。

そして最後に、あまり気が進まないけれども、言っておかなければならないことがある。現在の状況で「女性であること」を背負いながらTOKYO2020に反対せず、リーダーとして動ける女性がどれくらいいるだろうか?

その意味で、またしても女性が「守られ」てしまった。これは、如何ともしがたいところで、歯がゆさを感じる。古風なフェミニズム……女性は守らねばならないという、例のダンディズムに結果として「守られ」たのだ。 たしかに、ここには男性が「排除」してきた歴史が繰り返されている。それと同時に、女性だって求めなけば道は拓かれない。

そもそも、大会が掲げる「多様性・調和」は、男女の比率だけでは決まらない。それが最初の一歩だとしても、全てではない。LGBTQ+というならば、なおさらだ。しかしながら、 アファーマティブアクションが一通り済んだ国と比べられないのが哀しいところ。

結局のところ、開会式・閉会式の姿は、この国を鏡の中に映しだした影なのだ。目をそらしたいけれど、見てしまうだろう。わたしが見ないフリをしたところで、世界は今日も回っているのだから。


サブカル最強?神話

ようやく最初の話を終えることができた。次はサブカルの件である。ジェンダーの問題と同じような世界が広がっている。

リオのクロージングの時も思ったことだが、レガシーを大切にするにもほどがある。サブカルを引っ張り出してくるのは致し方ないとしても、キャラクターの登場の仕方が、21世紀に入ってからの日本て微妙な存在感だったんだな……と思いながら見ていた。首相がマリオの恰好をして登場するのにポーズを決められなかったことを含めて、いろいろズレていて、哀しい。

妄想だと一笑に付していただいても構わないが、あのときに奇妙なズレが起きたことで、人々の認知に歪みがでてしまったことも考えられる。以降、TOKYO2020で大事なことほど、なにかとズレが見られるようになってしまった。それが開催直前まで続いているのだ。

もちろん、具体的な開会式・閉会式の内容を知る由もない。しかし、演出まわりを含めて、かなりざっくりと言えばNHKのEテレ「デザインあ」周辺のチームが目立つ。ベタ過ぎず、アーティスティックでもあり、マス向けのコンテンツメイキングもできる、ちょうどいい塩梅のセレクトには見える。

ただ一方で、ボンヤリとしたコンセプトとは打って変わって、賛否はともあれ、どんなイメージで発信したいのかという意志が明確に表れている。1990年代のTOKYOカルチャーをハブにしたいのだろう。

音楽監督の田中知之氏がユースカルチャーの旗手として注目されたのは1990年代後半。1995年(阪神大震災・オウム真理教サリン事件・ウインドウズ95・コギャル)の直後である。この頃から、カウンターカルチャーとしてのサブカルは、どんどんポップに、世の中の標準になっていく。現在2021年の「推しトレンド」も一連の流れの中にある。

時は流れ、あのころの尖った若者もいい大人になった。ただし、それと同時に、人生100年時代と考えれば、50代は折り返し地点である。しかし若者から「おじさん・おばさん」にしか見えない。そのギャップは日常の至るところで見られるのだが、強みでもある。幼少の頃の写真にカラーフィルムが少ない世代は、昭和をちゃんと知っているが、今の世の中も知ろうとできる。ほかの年代よりも、幅広い年代を結び付けやすい文化資本を持っている。そんな彼らがハブになり音楽を紡ぐしたら、それはそれで意味があるのかもしれない。

しかし、そうだとしても、それはカルチャーの一端でしかない。カルチャーというものは、サブカルだけで出来上がっているのではない。ポップミュージックがさまざまなジャンルと親和性が高いとしても、個別の話だけしていたのでは全体が見えづらくなる。

ましてや、2000年代、2010年代、その20年間の積み重ねが、現在である。であるとしたら、この20年間は何だったのだろうか。延期で予算が削られた結果として、その問いに真正面から答えられるものにならないとしたら、脆弱な日本の姿がオーバーラップすると見れば良いのだろうか。

だが、しかし。考えてみれば、1995年以降、東京都知事はどちらかと言えばサブカルチャー、特に大衆メディアとの結びつきの強い政治家ばかりだった。青島幸雄、石原慎太郎、猪瀬直樹、舛添要一、小池百合子。こういう都政に慣れすぎてしまったのかもしれない。

それにしても、東京都の職員は、もはやそのほとんどが、選挙のたびに著名人が社長に来る状況で生きてきた。これは普通の自治体だろうか?

それでもなお、自治体の仕事が滞りなく継承されていったのだとしたら、首長は誰がやっても同じなのかもしれない。だから選挙も「誰がやっても同じだよね」という雰囲気が蔓延する。これは国政にも当てはまるのではないだろうか(それにしても、小池都知事ってびっくりするほど公約守ってないな……)。

やはり、日本そのものが投影されていると言っても過言ではないだろう。


キャンセルカルチャーは世界標準で

しかし何より、小山田圭吾(コーネリアス)という名前が出たことによる大炎上だろう。わたしは母親に、もう何十回目かの「コーネリアスはバンド名じゃなくて、屋号みたいなもの」と伝える羽目になった。結果的にリリースから4日後に本人から辞任の申し出があり、彼が担当するはずだった冒頭の4分間をほかのチームが調整するに至っている。

素朴な感想として「なんでこの仕事うけちゃったんだろう」という問いかけをしたくなる。とはいえ、すでにNHKで大丈夫になったのだからOKだ、という判断があっても不思議ではない。それは本人が考えたのみならず、周囲も同様で、世間一般でそのように解釈されていると思ったのではないだろうか。

くだんのインタビューを知らなくても、「昔は品行方正ではなかったが、Eテレをやっている」と世の中の人が思っている……と、わたしなどは純粋に思っていたのだが。そうではなかったらしい。そこまでメジャーな存在ではなかったのだ。もしかしたら、今回の騒動でキャズムを超えてしまったのかもしれない。なんて皮肉だろう。

そして個人的には、今回の件は日本におけるキャンセルカルチャーの事例になるかと思っていた。これだけ世界標準なのか? と。しかし、「それにはあたらない」と考えている人も多い。そうなのか、そうなのか? いや別にキャンセルカルチャーの枠でなくても構わないが、このやり方はエグい。賛同する人はみんながみんな、子どもの頃の非業を晒されて仕事を失っても、自分の子が危険に晒されてもいい、という覚悟でTwitterをやってるのだろうか?

たしかに、あのインタビューは酷すぎる。人をおとしいれ、苦しめる行為をわたしは憎む。しかしながら、2021年にもなって「目には目を」のハンムラビ法典のモチベーションで動くのはできるだけ避けたい。もちろん、高潔な振る舞いだけで世の中が動くのは理想だ。しかしながら……わたしの目の前で繰り広げられたものは、ただのリンチにしか見えなかった。

しかも、辞任と決まったら即座に「冒頭4分間で何をやるか」「どうせならこういう開会式にしよう」という代案が大喜利のように出てきている。既視感があるのは、あのロゴ問題と状況が似ているからだ。外から代案を考えるよりも、自分に何ができるかを考えるほうが先だと思うのだが。これでは、ただのインターネットミームだ。

いいか悪いかは別として、そのような行為が特定の媒体に出ることができる時代も、確実に存在していた。それがよかったとは言わない。けれどもみんな、ついこの間までのいろんなことを忘れてしまったのだろうか。雑誌にインタビュアーの校正が入るようになったのは、後世の習慣だった。少なくとも10年ぐらい前までには「取材記事チェックをしない雑誌」は少数派になっていた。そのことで、新聞社が責められることも増えているほどだ。

そもそも、雑誌のインタビューは取り調べ調書や契約書ではない。すべてが事実通りとは限らず、その点も加味すべきだ。巷で「武勇伝」とされるものが「右の通り事実の相違はありません。捺印」ぐらいの厳密さで正しかったためしがないだろう。しかし、すべてが「証拠」になってしまう。

若い人には誤解してほしくないのだが、校内暴力やいじめが「いいこと」とされた時代なんてなかった。

マットで圧死する人がいても、飛び降りるまで追い詰められる人がいても、ものが食べられなくなるぐらい傷つけられる人がいても、暴力はなくならない。反省文を書かされた人だって、別の場所に行ったら同じことをやられる。そんなループする日常が続いた挙句、何も持たず社会へ放り出される。しかし多くの人にとっては、傍観する風景である。学校という場所は、たぶん今と変わらない。だから、自分より弱いと認識したものを肉体的・精神的に苦しめる「ハラスメント」は社会に出ても止まらない。

加害者は忘れるが、被害者はずっと忘れない。校内暴力もハラスメントも、不貞行為さえも、同じことである。

ちなみに金のない勉強のできない不良だって、相当に無残なことをしでかす。だから一部の人はプロになってしまうので……。残酷さに貧富や偏差値の差はない。(ソース:自分)。

わたしも思えば、最初に#MeTooが出てきたときに、これで下剋上できるかもしれないと、少し興奮したことがある。悪行を積み上げた人も、あちらこちらで要職についていたり、名声のある人、つつがなく日常を送っている。そんな人の、生まれてこのかた数十年分の問題行動を暴き続けたら、次々と退場させることができるかもしれない。

そのように興奮しながらも、もう片方の頭では別のことを考えていた。恐怖政治の歴史をかじったことのある身として、どこかうすら寒く感じていたのだ。どこかで見たことのある光景だったから。もちろん、火炎放射器で一掃できたら、どれだけ気持ちが晴れるだろうか。晴れなくても、続く世代のためには必要なことかもしれない。しかし、その義憤もまた、しばしば実際に戦争が始まる理由になってきた。そうやって火で薙ぎ払った後、何が起こるのか想像したら、背筋が凍る。わたしは大学の専攻もあいまって旧共産圏の話を聞くことが多かったが、やはり「密告」がいちばん怖い。粛清に次ぐ粛清の波は「密告」からの周囲の攻撃で逃げ場がなくなる。民衆の手で行う恐怖政治は固定化しやすい。そして、やがては焦土になる。

ともあれ、このできごとが、「クールジャパン」とか「サブカルチャー立国」「オタクは現代をリードする文化」的なモードに一石を投じればいいと思う。はじめから「サブカルチャー」は元から気持ちの悪いものであり続けているのに、それを白日の下で健康的に語ろうとする日本の状況がおかしいのだ。今回のことでリスクのデカさを思い知っただろうか。

まぁとにかく、この国の魑魅魍魎が映し出されることは間違いない。

Photo by Louie Martinez on Unsplash

人生相談という「リアリティショー」について

ずっと気になっていた。きっと多くの人は「人生相談」に幻想を抱いている。

実は、誌上で行われるほとんどの人生相談は「リアリティショー」なのだ。

相談者と同様に、同じような境遇がある人・特定の状況を考えたい人・正体のわからないモヤモヤを抱えている人に向けて、考え方を提示する。相談者のリアルを外側からコンテンツとして受け取る。だからどんな媒体であっても、回答者の声は、決して相談者のため「だけ」に用意されるものではない。

つまるところ「相談者が喜べば問題ない」という見解は、当たらずとも遠からずという話になる。

あらゆるコンテンツと同様に、回答者や発信した媒体には一定の責任が伴う。

回答者のパーソナリティとスタッフのディレクションを賭して世の中に出さなければ、うまくいかないコンテンツだ。前提として、相談者の話をちゃんと聞く。相談者の置かれた状況を考える。最善を尽くした答えを出す。そのうえで、コンテンツがどのように受け取られるかを考える。すべてが揃って初めて成り立つ、デリケートで複雑なコンテンツだ。

紙でも、テレビでも、Webでも、同じことなのだが、うまくいっている例としてラジオの長寿番組を紹介する。

ニッポン放送の「テレフォン人生相談」は1965年から続いているが、番組作りに、その辺りが強く表れている。

まず、司会者と専門家の回答者は別の人物だ。さらに司会者は曜日ごとに異なっている。オンエアはキー局は平日の昼間(生電話ではなく、収録)。ちなみに、放送にふさわしくないと判断された場合には専門家が紹介されると聞く。万全の態勢とはこのようなことを指すのだろう。

何度かネットニュースになることはあったと記憶している。しかし、いわゆる「炎上」には至っていないのは、何重にもバリアを張っているからに違いない。

最近、いろんなメディアの人生相談が「炎上」したケースがあるけれども、いずれもその機能がうまくいっていないケースに見える。

もちろん、必ずしも回答者が専門家である必要はないが、それと同時に、回答者の発言が絶対でもない。

だから、ディレクションが求められる。どんなセレブリティでも、ファンが多い人でも、信奉している人でも、その人に「ものを言う」ことができないのであれば、とたんに無用の長物になる。

例外的に、一人ですべてを行える天才も、たまにいる。けれども、それはひと握りの天才だ。おそらく100年に1度ぐらいに現れるレベルが必要なのだ。奇跡に近い。

誰もが自由にものを書き残せる時代だとしても、みんなが天才になれるのではない。むしろ、その自由と引き換えに失うものもある。そのひとつが、天才かそうでないかを気付く感覚ではないか。

そもそも、今までうまくいっていたものだって、今後どうなるかはわからない。ニッポン放送の「テレフォン人生相談」を再び挙げると、ラジオはすでに時間や地域を気にせず聴けるものだ。平日の昼に家にいる子どもも増えた。書き起こしや切り取りのアーカイブも増えていくだろう。

奇しくも、日本でも昨今はテレビのリアリティショーについて、そのありかたが問われている。一種の「リアリティショー」である人生相談についても、そのありかたを再考すべきだ。なぜ相談しようと思うのか。なぜ他人の相談が気になるのか。なぜ回答に怒るのか、悲しむのか、安堵するのか。同じ過ちを繰り返さないために。

Photo by Sachina Hobo on Unsplash

あなたが思うほど「発達障害」は受容されていないが、特殊でもない

4月2日は「世界自閉症デー」だった。そこから1週間(4/8まで)は「発達障害啓発週間」に充てられているのだが、多くの人にとっては他人事だろう。

時を同じくして、新入社員と思しき姿とすれ違うことも増える時期だ。

社会でどうやって生きていくのかを考える材料として、ロールモデルを探すのは一番手っ取り早い。「●●みたいになりたい」と思えるかどうかは切実な問題。もちろん、ロールモデルなんて要らない!という強い気持ちも必要だけど。

そんなところで立ちはだかるのが「発達障害」である。すでに自覚している新社会人は不安を抱えているはずだ。また、社会人に出て「もしかして自分、普通じゃない?」と気づく人もいる。

※この記事はわたし(筆者)の経験値で書いているので、医療的なことは何も言えないことを最初にお知らせしておきます。

ちなみに、「もしかしてこれは発達障害なのでは」と思って不安になるとか、落ち込むようなことがあれば(脳は問題ないのにただの怠惰と言われるのが怖い状態も含めて)、あなたがするべきは本を読み漁ることではない。とにかく病院へ行こう。話はそれからだ。セカンドオピニオンを受けてもいい。発達障害であることが重要なのではなくて、診断をつけることは大事。

なかなか病院に行くのも忙しいし、壁を感じるということも理解できる。そこまででもないかなぁ、と思いながらぼんやり気になる人もいるだろう。何はともあれ、そういう状況にいる人が「わたしも凸凹な人です」という表現に出会ったら、救いになる。最近では発達障害関連のブログや書籍が多いので、心のお守りにする人も増えているはず。

たしかに当事者以外にも興味をもたれるということは、確かに無視されるよりはマシ。でも結局のところ、「発達障害あるある」を許す雰囲気は、代償行為の結果として機能している。「XXができるから、YYが許される」だけ。つまり、XXができないなら、YYは許されない。

ここ最近(主に首都圏の状況しかわからないが)、学校を出るまでの「療育」や「合理的配慮」の観念は浸透してきている。でも、学校以外の場所では、おそらく20年ぐらいほとんど変わっていない。身も蓋もないけれど、それが実情だ。

もちろん、パラリンピックに協賛できるぐらいの大手企業で、正社員ならば、それなりの配慮もあるに違いないし、しかるべき手順をふめば「障害者採用」も受け付けているはずだ。しかし、それは、ごく一部のことでしかない。ほとんどの大人は、そういうものの外で生きる必要がある。

だから、最近増えている下記のパターンを見かけると、居心地の悪さを感じる。けっして嫌なのではない。ましてや、ひがみでもない。ただ、若ければ若いほど、過剰な期待を寄せてしまうだろうな、と思うのだ。

パターン①不思議な配偶者
「不思議ちゃんだけどかわいい(はあと)」って思ってラブラブだったが、いざ一緒に暮らすと生活力のなさが破壊的。いろいろあるけど、やっぱり仲良し♪

パターン②型破りなクリエイター
なんだかわからないけど不思議な魅力がある。事務的なことが得意な友人や秘書に囲まれて、才能だけを伸ばして生きてるカッコいい人。

当然のことだけど、誰もがぴったりのパートナーに出会えるわけじゃないし、誰もが天才的な仕事ができるわけじゃない。定型発達の人がすべて、特性を生かした仕事ができているわけじゃないのと同じことだ。

というより、むしろ、就活や新人のときに「普通のことが普通にできない」ことはたいへんなマイナスになる。研究職などはよくわからないけれど、一般企業において、秘書的な人をつけてもらえるのは役職が上の人だけだ。むしろ、それこそが「まず覚える仕事」であることが多い。そこでつまづいたら、試合終了……になりかねない。

みんな最初はできなかったけど、やってるうちにできるようになる物事が、普通にできない。それは修羅の道である。もちろん何がどこまでできるのかは人それぞれだし、全部できないわけではない。「普通にできない」という状態を言い換えれば、一般にカンタンとされる仕事を、120%超え、時には200%の出力をすればできる……ということなのだ。

わたしの個人的な経験に過ぎないし、いままでしでかしてきたいろんなことが許されるなどとは思ってないけど。

療育がノーマルになってきている学校社会から外に出るときに、期待しすぎないでほしいな、と切に思っている。(特に親御さんへ)

脅すつもりではないけれど、地に足のついたロールモデルに出会えるといいね。……と、心から願っています。もっとも、わたしも未だに模索中なのでエラいことは言えないのですが……。

Photo by Leonardo Wong on Unsplash

それ、本当にカッコいいですか?

今わたしには、とても不思議なことがある。

どうしたら、オリンピックの開会式で『AKIRA』をモチーフにした演出を「カッコいい」と言えるのだろうか。

あの文春砲とほぼ時を同じくして流れてきたのは、バレンティノのニュースだ。もしも、あのビジュアルを––帯(のように見える反物)を絨毯のように敷いたことが文化盗用・冒涜だというのなら、この演出も同じ類のものだ。それと同じくらい、ひどい扱い方をしている。

いろんな人に好評を博したというその演出だが、抜き出したコンテだけでは、そんなに良いものかどうか判断がつかない。強烈な違和感があるのは確かだ。あの赤いバイクが乗り入れた瞬間を想像するだけで、文脈的にイベントが成功しそうにない印象を与える。

そもそもの前提として、「使わないでくれ」と思う人だっていることは想像に難くないのはもちろんだが、ファン心理とは少し別のレイヤーで奇妙な企画である。

『AKIRA』で金田がバイクを走らせるのは、ネーション的な構造、権威なものから逃れるためだ。個人の自由のために走る。ネーション的な平和の祭典にやってくるのは不穏極まりない。もしくは作品世界の改変。そもそも作中で登場するオリンピックスタジアムは……たいへんなことになってしまうわけで。

もちろん「オリンピックなど破壊してしまえ」という思想であれば理解できる。ただ、成功させようとする人のプレゼンとは思えない。4年前、リオの閉会式を低予算で成功させたチームの一員に、まさか破壊的な衝動があったとは考えにくい。そうなると、いったい全体どういうことなのか、首を傾げてしまう。

歴史に「if…」はないのだが。もしも、今回出回った演出案がそのまま発表されたとしたら、それはそれで「うわぁ……」という声があがっていただろう。

もちろん、どちらにしてもクライアントが決めることだ。

リオの閉会式から続いている一連の流れを思えば、このタイミングで外野が騒いで何がしたいのか、ちょっとよく分からない。多くの人は、騒動が起きるまで関係者のことをほとんど知らなかったはずだ。

きっと多くの人が、興味本位でしかないのだろう。

(下記は、参考までに)

https://www.fashionsnap.com/article/tokyo2020-presentation/

ちなみに、このあいだの大阪万博のロゴ公募で落選作を発表してたものが一部では話題になったのをご存知だろうか。マーブルは「あわい」という言葉を連想させる。谷崎潤一郎的な「上方」の雰囲気を感じた。でも、「今発信したい大阪」は違っていた、ということなんだろうな。選ぶ、選ばれないとは、それだけのことだ。

いまや、多くの人が文春砲を待ちわびている。

日本には、公安なんて要らないのかもしれないな。

「自分が知ってるあれって、いくらぐらいで買ってくれるんだろう? 社会の役に立てるならいい」などと考えるかもしれませんが、 悪手だと思う。どうせ、みんなすぐに忘れてしまうから。

それにしても、『Number』は逃げるのがうまい。4月1日号が「20年目の原巨人」とは。ベテランの逃げの姿勢を感じてしまう。ジャイアンツが好きな人は気にしなさそうだけど。いま全霊をかけてやるべきは「オリンピック」ではないか。

『Number』といえば、表紙は当然大坂なおみ選手だろうと思ったら「将棋はスポーツ」と題した変化球の特集が出たことがある。そんなの偶然だろうけど、巧者だ。避けるのがうまい。

センセーショナルなことばかりではなくて、やるからには徹底的にやってほしいな。難しいだろうけど。

https://number.bunshun.jp/