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CLAMP展が見せたもの・見えてしまったこと

暑い夏の終わりとともに、CLAMP展は幕を閉じた。(2024.7.13 – 9.23@国立新美術館 企画展示室2E)

https://www.clamp-ex.jp

よりによって展示が終わってから文章を上げるとは何事か? そう思う人もいるだろう。特に意味はなかったのだが、「CLAMP展とは何だったのか……」と振り返るなら、節目の時にアップしておこうと思ったまでだ。

国立新美術館に現れたのは、ファンサービスの手厚さ、見目麗しくてスマートな居心地の良い空間。CLAMPから見せたいものとファンの見たいものがピタリとはまっていた。

しかし、それ以上のものはなかった。

CLAMPを知らない人にも「行ってみたらいいよ!」とすすめたくなる要素が見受けられなかった。Y2Kから90年代へリバイバルの波が来ている2024年、あのCLAMPが、国立の美術館でやるからには、もっとできることはあったはずだ。

ちなみに、昨年春にところざわサクラタウンで行われた、稲葉浩志「シアン」の展示と同じような趣向が見られた。どちらが先に企画されたものかはわからないが、商業作品の展示の方法としては当たり前なのか、しかしいくら何でもパターン化され過ぎているように思う。

企画展の最後には、グッズコーナーに通される。毎日「入場までの待ち時間」と「グッズ売り切れ」の情報を流し続けていた公式運営の様子は、良くも悪くも話題になっていた。一方で、あまり話題になっていなかったようだが、図録については苦情を入れても良いのではなかろうか。美術展の図録なのに、区画ごとに収録されておらず、作品ごとに整理されて編集されている。これでは、あとから振り返ることが困難になる。(後述する年表は、図録に収録されていない)

もちろん、技術的に(さすが美術館……!)と思うところは期待を裏切らなかった。執拗なまでのメディウムへのこだわりは目を見張るものがある。原画1枚1枚の使用画材に、第三者がこれほど踏み込んだマンガの原画展も、なかなか珍しい。

「CLAMP」の頭文字をモチーフにしたメイン展示は「COLOR」「LOVE」「ADVENTURE」「MAGIC」「PHRASE」の5区画。加えて「IMAGINATION」「DREAM」で締めくくられる。

カラー原稿(レプリカと原画を期間中に入れ替え展示していた)は最初の区画「COLOR」にほぼ集中しており、画材や描き方の変遷を軸とした展示になっている。撮影禁止ゾーンだが、とにかく物量が多いのと、訪れた瞬間だけの眼福だと思うと、集中力が増す。ファンへの「つかみ」としては十分すぎる。

「LOVE」「ADVENTURE」に関しては、作中の印象的なシーンの原画がところ狭しと飾られている。特に集中連載時期の手描き原稿に見える連載中の勢い(というか過酷だったんだだろうな……と想像してしまう)ところ、(訂正される前のセリフが見たい!)と思ってしまうなど「原画展あるある」を安心して楽しめる。作品の流れをブツ切りにしてキーワードでカテゴライズさせられるとともに個々のシーンが並んでいるのを見ると、「CLAMPらしさ」を再確認させるとともに、元の作品を知らない人には「なぞかけ」のような光景が広がっている。(しかも展示の中で回収されることはない)

「MAGIC」は映像インスタレーション。最近よく見かける、平面を動かす動画の。アレです。

「PHRASE」は、来場者参加型。銀色のステッカーを1人1枚ひくと、色々な登場人物のセリフが書いてある。その銀色のステッカーは「よろしければ」壁に貼るようにと指示がある。ふと見やると、区画の壁一面には作中のセリフが埋め込められるように貼り付けられていて、それは天井につながる。ことばの渦にいるような感覚に陥る。

この企画展で最も圧巻だったのは、「IMAGINATION」エリアの年表。鎮座した現物に見下ろされている。物理で攻めてきている。

ただし、この年表の欠点は、CLAMP以外の動きが見えないこと。メディアミックスや絵柄やテーマの変更が唐突に始まったように見えてしまう。

また、事情は拝察するにしても、つい最近「東京BABYLON」のアニメ化が企画されたことは少しでも触れられてほしいところ。(見落としの可能性もありますが……)さまざまな作品で〈未完〉と記載しているのだから、歴史を語るのであれば、それぐらい潔いのが良いのではなかろうか。

そもそも、このエリアではメディアミックスの話も多く出てくるのだが、アニメーションや声の話があまり出てこない。CLAMP展に寄せた4名の対談が展示されているが、音源で聴けるような仕組みがあっても良かった。仮に、今は声出ししたくないのでも、むしろ年表のところで、ラジオ音源をチラッと聴けるとか、やり方はあったはずだ。

そんな少しばかりの疑問を抱えながら最終区画へ。描きおろしカラー原画では、阿修羅とさくらが微笑んでいる。2人とも2024年版にアップデートされているあたり、さすがとしか言いようがない。だからCLAMPはすごい、という事実は確かなのだが、CLAMP展はどうだったのかというと、やはり腕を組まざるをえない。

冒頭でも「シアン」の展示を引き合いに出したが、多くの人の心をつかんだ商業クリエイティブの取り上げ方は難しいのだろう。作家性にスポットライトを当てることはできる。それ以外のフレームを使うことができないのは、単に制度の問題なのか。インバウンド需要を見込んで国立新美術館での開催だったのか、それ以上に意図があったのかは分からない。いずれにしても、国を代表するひとつの現代アートについての機関で展示するのであれば、やはりもう少し踏み込んだこと、ファンダムではない要素をさらに詰め込む必要があったものと思う。

東京タワー

平成はXに満ちている【極私的・批評再生塾プレイバック】

【極私的・批評再生塾プレイバック】
かつてゲンロンにて開催されていたスクール「批評再生塾」第4期に在籍していた(2018~2019)筆者が、そこで発表した文章に、改題や補遺を付けて記録に残しておく試みです。スクールでは、課題に応答する批評を毎回書き上げて選出されたら発表、そして講評されるというタームを繰り返していました。もうサイトは閉鎖されてしまったけれど、自分の中ではなかったことにはできない時間です。すべて掲載するかは未定。なお、粗削りな文章であり、「4000字から8000字」が基本なので、「こうしておけばよかった」「今考えるとこういうことではないか」といった補遺(言い訳)は文章の前に記すことにします。こうしたところで、何の免罪符にもならない。ここでただ焼き直しを載せるのも、改稿するのも、違うような気がしているので、しばらくは、この形をとります。

《2024.8.17 補遺》今年の夏は、国立新美術館で「CLAMP展」が開催されている。このとき出された課題は、さやわか氏による「平成年間(1989~2020)のポップカルチャーで、この時代の、あるいは人々や社会の、あり方がもっともよく描かれている作品や事象を一つ選び、論じてください」というものだった。色々と考えた結果、わたしはCLAMPの『X』を選んだ。今でも、この選択は間違っていないと思う。ただし、講評の際に『名探偵コナンと平成』をさやわか氏が上梓することを打ち明けられ、(あぁ……やられた……)と思ったのは事実だが。

改稿するのであれば、何よりも、「X」というワードにもっと焦点を当てるべきだったので、そこは直したい。また「決断主義にすべき」と読めてしまうので、そこは言い方を変えるべき……なのだが、実際に書きながら迷っていた痕跡を消せなかった悪い例。(実際に、講評でもそのような指摘をされた)

論点を収斂させるのであれば、アーレントなど「中動態」を補助線として用いれば、整理しやすかったのかもしれない。(が、風呂敷を広げて失敗した可能性も大きい)

また、引き合いにだす資料として一見すると飛び道具のような出典を出している。近代から現代の日本を取り上げるため、幕末や第二次世界大戦の戦後に通底している点を論じたかったが、なぜこれを取り上げるのかを丁寧に拾うべきだったな…ジェンダー観についても同様…と反省点しきり。

それでは以下、本文になります。(改行など規則はWEB用です)


平成はXに満ちている(旧:東京は、世界の中心だった。)


1999年の約束の日。「それ」は来なかった。

ここに、平成年間の〈依り代〉とも言うべき、未完のマンガ作品がある。CLAMPが発表した『X(エックス)』という物語に目を向けてほしい。そこに映し出されるのは、平成という時代だ。

2018年の夏。「平成最後の夏」というワードは、久しぶりに世代を超えた符牒になった。そう、2019年4月末日を最後に「平成」という元号が新しくなる。しかし実際、元号と私たちとの距離は遠い。カレンダーや変換機能を参照せず、あの東日本大震災が「平成何年」に起きたのか、あなたはすぐに言えるだろうか?

改元と同時期に予定されている消費税の引き上げのほうが、よほど私たちの生活に影響の大きいはずだが、それよりも歴史的瞬間に立ち会うほうが一大事。明らかに浮き足立っている。

その瞬間を迎える前に、やっておくべきこと。私たちの記憶が薄れないうちに記しておきたいことがある。当事者性を求めるのではない。今私たちは、あまりにも多くの情報を目にして、気が狂わないように忘れていく、そんな時代を生きている。だから埋もれてしまう前に、『X』という完成されない物語に仮託された「平成」を見て、次の時代に備えたい。

◇◇◇

『X』は、1989年つまり平成元年に商業誌デビューをしたCLAMPによる作品だ。1992年、月刊『ASKA』にて連載スタート。現在は連載休止中だが、TVアニメ・劇場版・ゲームなどメディアミックスが行われて一世を風靡した。あるいは、このように言えば思い出していただけるだろうか。X JAPANが劇場版に『Forever Love』を書き下ろした。その曲は、X JAPAN解散後、HIDEの告別式でも演奏された。

原作者のCLAMPとは、いがらし寒月・大川七瀬・猫井椿・もこなの女性4名による創作集団。マンガを中心に、キャラクター原案制作やアニメ脚本なども手がけている。関西での同人誌活動を経て上京。1989年、新書館の『サウス』第3号にて『聖伝-RG VEDA-』の読み切りを掲載し、商業誌デビューを飾る。デビュー以来、少女誌・少年誌・青年誌……と媒体を横断しながら活躍。魔法ファンタジーやオカルト的、スピリチュアル的な世界、並行世界、RPG的な要素を軸にした作品が多い。完成度の高い画と独自の世界観を築き上げ、出版とゲーム、音楽というメディアミックスによる商業的成功の一角を担ってきた。海外からの人気も高く、また世代を越えたファンを確実に獲得。制作の現場に身を置きながら自らのブランドを守り続ける、数少ない存在と言える。

とはいえ、彼女たちの射程圏内はニッチな市場ばかりではない。そこが強みでもある。児童向けの時間帯に全国的にTVアニメ化された『魔法騎士(マジックナイト)レイアース』『カードキャプターさくら』というタイトルは、CLAMPの名前を知らずとも耳にした人もいるだろう。


平成という時代をなぞるために、まずは時系列的なことを言及しておく。『X』は2002年の第18巻、単行本化していない2006年/2009年に発表された「18.5巻」を最後に休載中である。メディアミックスされた劇場版やTVアニメ版、ゲームのエンディングには、もちろんそれぞれの結末が存在する。しかしながら、そもそも原作とはストーリーが異なっており、やはり未完と言ったほうが正しい。また、1989年に発表した『東京BABYLON』や『CLAMP学園探偵団』などと同じ人物が登場する地続きの世界である。だから『X』が平成とともに生まれた、と言っても差し支えないはずだ。


そして、その内容は平たく言うと「典型的な世紀末思想ハルマゲドンを日本でやってみた」である。
世紀末の地球の命運を賭け[天の龍(七つの封印)]と[地の龍(七人の御使い)]が東京を舞台に互いの超常能力で戦う。この超常能力イメージには、陰陽師や真言密教、三種の神器など日本的なモチーフが多く使われており、コンピュータやゲノム的な最先端サイエンスの要素も大きな度合いを占めているのも特徴だ。


なぜ東京で戦うのかと言えば、東京が地球を守る結界の中心だからだ。国会議事堂や東京タワー、銀座の時計台、レインボーブリッジなど、東京を代表する建造物のほぼ全てが東京=世界を守る大切な結界なのだ(……もちろんフィクションである)。

それらを守るのが[天の龍]として生きる7名。いっぽうの[地の龍]7名は、そうした結界を破壊するのが使命だ。[天の龍]は自らも結界を作り、攻撃から街と人々を守る。
言い伝えによれば、[天の龍]が生き残れば人々は生き延びて現状が「維持」され、[地の龍]が結界をすべて破壊すると、「変革」が訪れるという。

主人公は、[天の龍]の中心となるべく生まれた「神威(かむい)」という名の少年。幼い頃から常に能力を鍛えながら隠れて生きてきた。彼の心の拠り所は、幼馴染みの封真(ふうま)・小鳥(ことり)の兄妹であった。潜伏先の沖縄から、久しぶりに東京へ戻り彼らと再会した喜びも束の間、運命は回りはじめる。「封真と小鳥を守りたい」と神威が強く願うと同時に、傍らにいた封真の性格が豹変。小鳥を惨殺してしまう。愛する幼馴染みが敵方[地の龍]の「神威」として覚醒して「神威」となった瞬間だった。元・封真の「神威」は、覚醒したと同時に誰よりも強い力を手に入れ、ジョーカー的存在として[天の龍]に立ちはだかる。そこから始まるのは戦いに次ぐ戦いだ。


最新巻では、[天の龍]は敗走を続け、東京はほぼ壊滅状態である。そして誰も彼もが、大切な人を守ることと、自分の願いを叶えることに小さな矛盾を秘めている。さらには、対立するはずの[天の龍][地の龍]は、その心次第で立場が簡単に入れ替われることも明らかになった。物語は明らかに終盤に差し掛かっており、あとは伏線を回収すれば問題なさそうなのだが(単行本の装画が主要人物をタロットカードの大アルカナに見立てたイメージ画になっており、残りはおそらく4巻であると推測される)、再開の見込みは立っていない。

なぜ、このストーリーは完結されていないのだろうか。体調面なら、他の作品と同様に考慮して描き上げることもできるはずだ。喜ぶファンは大勢いる。創作意欲といえば、何より作者の「完結させたい」という発言が度々話題に上がっている。

発表されている限りでは、社会情勢や世相を鑑みた結果である。時代が進むにつれて実際の事件や災害とオーバーラップすることがあり、たびたび休載。結果的に連載は長期化の憂き目に遭った。読み返してみれば、再開発で消えた建物で戦っているとか、ポケベルで呼び出している姿などで、時間の経過を見せつけられる。そして、いくらフィクションとはいえ「東京が世界の中心」という言葉に薄っぺらさを感じてしまう。描かれた当時は、フィクションとはいえ納得させる力が東京にあった。

ここで、作品と連想しがちな事件・事故を挙げておこう。思いつく限りでは、矢ガモ騒動(1993年)、阪神大震災(1994年)、オウム真理教によるサリン事件(1995年)、神戸児童連続殺傷事件(1997年)、日比谷線脱線事故(2000年)、アメリカ同時多発テロ(2001年)、イラク戦争(2003年)、イラク日本人人質事件(2004年)、秋葉原通り魔事件(2008年)といったところか。そして決定打となったのは、やはり東日本大震災(2011年)だろう。特に2000年以降は、現実がストーリーを凌駕している。作者自身が「そういう部分も含めて、いろんな意味で、最も時代に振り回された作品かなと思っています」と語るのも本音だろうとは思う。たしかに、社会情勢を反映したからこそ、作品は生まれ、だからこそ宙づりにされてしまった。

だがしかし、本質的なところは別にある。それは平成が「決められない」「変えられない」時代ゆえに、起こるのである。

この物語は、登場人物たちに「自らの本当の願い」を決断することを求める。そして、何かを変えていかなければ、物語は先に進まない。この、いろんなことが「決められない」「変えられない」状態は、平成という時代、2018年現在の日本そのものである。それらは登場人物たちの行動・思想に現れている。

◇◇◇

主人公である神威は、本当の願いを何にするか決められない。物語の進行上は、これは厄介だ。なにしろ、それがなければ、この作品で必殺技的な「結界」が作れない。結界を作れない以上、常に誰かに結界を作ってもらわないと、一般市民を巻き添えにして戦ってしまう。
自分探しというよりは、欺瞞に囲まれ、思考が先回りして本当に望むものを感じ取れない状態だ。フロイトの言葉を借りれば、意識ばかりが先行して、無意識にある欲望を抑圧している。いっぽう、宿命のライバルである封真は、すべてお見通しだ。絶対的な存在、いわば全能の状態。封真以外は、自らの欲望に突き動かされるばかりに、無意識に事態を悪化させていく。それは敵味方の区別に意味がない。

だからこそ、絶対的な正義が揺らいでいく。そもそもが[天の龍]と[地の龍]の二項対立の構造が不安定だ。人の手で地球は汚れている。そうであれば地球を再生させることも美しいと言える。しかしそれは、愛する人々の死と引き換えになる。そして、個人レベルでも齟齬が生じる。自分は好きな人を守りたいと願い、当人は生きていたくないと考えている、その正義はどちらに分があるのかわからない。
主人公である神威が、自分の真にやりたいことは果たして何であろうか、何を守りたいのか。そういった大事なことを「決められない」まま、他の人に依存して戦いに突入している。

さらに、先述したとおり、敵と味方がふとした拍子に入れ替わる。Aから見ればYは正しい。しかし、Bから見ればYが正しいとは限らない。やがては視界にすら入らなくなる。信頼できない話者ばかりが生きているとも言える。ポストトルゥースという言葉が成立する前に、すでにそんな世界が立ち現れていたのだ。
加えて私は先ほど、『X』は平成の〈依り代〉だと述べた。つまりは、この主人公の状況は、平成の根幹を成す日本という国の状況の映し鏡である。

ここで私は、加藤典洋『もうすぐやってくる尊皇攘夷思想のために』を参照したい。〈明治150年〉という2017年に、丸山眞男が晩年に行った福沢諭吉の研究を紐解きながら、1850年代と1930年代、2010年代の直結した関係性を示している。

[私たちは、幕末期(1850年代)の尊皇攘夷思想を「抑圧」するという明治期の「過ち」に目をつむり続けて来たので、80年後(1930年代)、その劣化コピー版としての皇国思想の席巻という苦い目にあったのだった。それと同じく、戦後再び戦前の皇国思想を「抑圧」するという「過ち」を繰り返したために、やはり80年後(2010年代)、また新たな尊皇攘夷思想がさらに劣化の度合いを進めたかたちでやってくるだろうことを予期しなければならないのである。]

そういえば「尊皇攘夷」という考え方で動いていた集団はいつの間にか、「尊皇開国」を幕府に迫り、明治維新が成される。その矛盾はどうなっていたのだろう。私は迂闊にも気づいていなかった。
どうやら、何よりもまず「尊皇」ありきだったというのだ。その正当性を追求すること。それは国を倒す可能性もあり、建国の可能性もある正統性(オードクシー〈O正統〉と呼ばれる)。この時には「日本が何もしていないのに攻められている。尊皇のためには、どうすればよいか」を突き詰めた結果、尊皇攘夷が始まる。

やがて、薩英は実際に外国軍と相対する。圧倒的な軍事力の差を前に、とても尊皇が守れないということがわかる。だから、目的を達成するための論理「尊皇開国」へと向かった。これが、その国が成立した後に、国の内側を満たす正統性、その根拠として持ち出させる合法性(レジティマシ―〈L正統〉と呼ばれる)。つまり政治的な正当性、関係性の中の真実である。

予め〈O正統〉がなければ〈L正統〉は生まれ得ない。「攘夷」の急先鋒が「開国」へと舵を切るには、やはり矛盾があった。しかし、その矛盾を飲み込んだ上で、明治は生まれていた。倒幕を掲げた運動はしかし、江戸城の無血開城で落ち着き、徳川家は華族として生き長らえた。志士のなかには、扶持もままならない者がいたのにもかかわらず、である。

その後果たして、明治はどうなったか。矛盾を抱えたまま出発した政府の発令とともに奥羽列藩同盟により起こったのが戊辰戦争。そして十余年後、西郷隆盛を大将に据えた西南戦争が起きる。これは、攘夷論を飲み込んだ者の想いを「なかったこと」にして、放置したツケにほかならない。政府のみならず世論も、時代遅れの不逞分子として彼らを糾弾した。そのことを、福沢諭吉は強く憂い後世に残している。

そして、丸山・加藤は、幕末の無血開城から約80年後の1945年、日本は再び同じ轍を踏んだことを指摘する。

[国体護持のため]に[時制を鑑み]て、徳川幕府が行った「琉球処分」を取り消すことで……敵方に沖縄を差し出すことで無条件降伏をした。

さて、『X』において、〈O正統〉は神威の決意だ。[愛する人たちが幸せに暮らしていける場所を守りたい]と告げる。その瞬間、封真中での「神威」が覚醒して〈L正統〉がひらかれる。それならば、やるべき手段をとるべきだ。しかし、神威は逡巡して、なかなか行動が定まらない。物語は混迷を深めていく。

◇◇◇

そして、もうひとつが「変えられない」という呪詛だ。

『X』には、物語の未来を「夢見」という未来の予言者が複数名登場する。しかし、ほとんどの者が、未来はひとつ、運命に逆らえないと言う。その多くは暗い夢だ。彼らに見えている未来はいつも正しくて、彼ら自身をも痛めつける。どうか変わってほしいと人が請い願っても、無慈悲なほどに変わらない。

ところで加藤は、正統性を決められなかった日本の態度について、2020年を見据えて、同著でこのように述べている。

[歴史の本を読むと、日本の政治的統治は何をもって正当化されうるか、ということが古代以来の日本の歴史を貫く一大問題だったことがわかる。なぜ、戦国時代を通じて、天皇は廃されなかったのか。自分で新たなルールを作り、「約束」(レジティマシ―=政治的正当性)の根源を刷新(更新)するリスクを取ることを、誰もが怖がったからだ。その結果、日本では、その政治的正当性を誰に帰すかという「約束」ごとは、七世紀に律令制の導入のときに、これを「天皇」に帰すと決めて以来、ずうっとそれを転用することで済ましてきた。その事情は、藤原の摂関政治、源頼朝にはじまる武家政権、幕末期、すべて変わらない。]

この状況は、まさに『X』の泥沼感と底が通じている。それはそのはず。なぜなら、この物語には時代が乗り移っているのだから。この辺りが、いわゆるセカイ系に多く見られる仕組みとは異なる。多くのセカイ系は、読者の内的世界とはつながるかもしれないが、現実と対になるような関係性は結べない。
たしかに、『X』で言うところの空を飛び、炎や水を自在に操ったり、式神を召喚して戦ったり、なんてことは、現実からはみだした行為だ。しかし、そこには間違いなくリアリティがある。登場人物たちは、こちら側の時代を背負っているのである。

そして私たちはいま、変化を求める声をどれだけ上げても、根本から「変わらない」「変えられない」時代に生きている。果たしてどの時点から変わりたいのか、その声を、どこに上げれば良いのか定まっていない。

そのひとつとして、ジェンダーの問題を上げてみたい。性差で役割を振り分けるという姿勢は、無意識のうちに自然な行為として受け止められている。嫌がらせをするとか、明らかな侮蔑に関しては、ここでは検討に入れない。何故ならば、それは『X』には出てこないから。私がここで問題にしたいのは、そういう類のものではない。あえていうならば好意に似た、それぞれにふさわしいとされる振る舞い、生まれついた運命のようなものだ。

私たちは役割をすぐに引き受けてしまうし、与えてしまう。[天の龍]と[地の龍]どちらにも女性の能力者がいる。ひとつには、彼女たちは、総じてみな聡明で美しい。そして、戦いの相手や仲間に恋心を抱く。そして一様に、恋心が能力の邪魔をする。いっぽうの男性陣は、大切なものを守りたいという想いで力を発揮するのにもかかわらず。また、生け贄的な役割を果たすのは、すべて女性である。そして何故か、彼女たちは運命をすぐに受け入れてしまう。そして男たちに後を託す。あなたなら大丈夫だからと。

実は、この振る舞いは、男の側も女の側も、押し付けあっているだけで無責任である。ここにも、日本の「変わらない」という現状が、しっかりと刻印されている。超常能力など持たない私たちも、いつの間にか性差での役割を押し付けたり、引き受けたりしているはずだ。

1985年、まだ昭和の頃、日本でも男女雇用機会均等法が施行された。1989年になって、技術・家庭科の男女共修化が勧められた。2018年現在の最新版である2017年の統計では、OECDが発表したジェンダーギャップ指数は114位。5千円札に樋口一葉が選ばれても、女性作家はいつまでも「女性作家」だ。

物語の中で、小鳥が遺したメッセージは、唯一の希望である。彼女は夢見としての才を本格的に覚醒する前に、「神威」に覚醒した実の兄に葬られた。そうして死ぬ瞬間に見た夢を、愛する2人の男に伝言する。兄・封真と、幼い頃将来を誓った神威に宛てて。

[まだ…みらいは…きまっていない]

少なくとも神威にとっては、希望だ。
私たちの日本にとっても、「まだ決まっていない」ということは希望になる。残念ながら、作中には答えが見つかっていない。そして、平成という時代の間には、まだはっきりと、これ以上のことは結実することはないだろう。

◇◇◇

1999年、約束の日。「それ」は、もう来ない。

『X』という作品が完結しないのは、ただただ時代が悪いのでもない。もちろん、作者の大風呂敷のせいではない。平成という時代が、何も決められず、変わらない時代だからこそ、物語が進むことなく終わっていくのである。

私たちは、すぐに忘れて、何でも古さのせいにしてしまう。今だって、少し古いものはすぐに「昭和っぽい」と言う。黄色い栄養ドリンクが働くオトナに向けて「24時間戦えますか?」と鼓舞したのは平成になってからなのだ。

平成最後の夏に、平成という時代を振り返って記したからには、もう忘れてはならない。この『X』という物語のことも。そして今度こそ、私たちは「決められない」「変われない」ということを止めなくてはならない。まだ、未来は決まっていない、のだから。


【参考文献】


文字数:7804

「おもてなし」を世界に掲げた東京の無意識レインボー

なんで、みんな言わないんだろう。
いや、もうしょうがないと思っているのかもしれないけど。

東京都が「感染拡大防止ステッカー」の活用を呼びかけている。東京都が設定したガイドラインに沿った対応の申請をした事業所や店舗に発行する貼り紙について。都のガイドラインでは、主に人と対面する業種ごとに対策が振り分けられていて、それを遵守した店舗・事業所にステッカーの掲示を認める制度だ。

各自治体でこのように「お墨付き」を与える制度はできているのだが、目にした中で東京都のデザインがいちばん酷い。「かわいくない」「ダサい」そういう言い方も有りうるが、嗜好の問題で片付けられそうなので、もっと強く否定したほうがいいと思う。世界を「おもてなし」しようとしていた自治体としては「失態」とも呼べるものだ。

一目瞭然、モチーフとしてレインボーが使われている。2020年の夏に、東京で。なぜ、あえてのレインボーなのか。虹色のものを身につけること、掲げることは、LGBTQを否定しない、普通のことだと表明する印でもある。虹がLGBTQのものだと言いたいわけではない。しかし、もしも予定通りにオリンピックが今頃開かれていたとしたら、どうだろうか?イベントや店舗で自治体が認証した揃いの虹色のステッカーがあれば、そういうことだと思う方が自然だったはずだ。「グローバル的」な流れではその方が多数派なのだから。

それなのに。

「感染拡大を止める」と全く別の目的の意匠でレインボーを使っている。これはおそらく、全くの盲点だったのだろう。もしも「そのような意味も込めました」と後付けしようものなら、さらにひどい話である。

たとえば、こんなことも予想される。日本語…というより漢字が読めない人がこれを見て、とある飲食店に入ったとしよう。もしかしたらその人は「あぁこのお店は安心できるのかも」と思うかもしれない。仮に当事者でなくても、変な話を聞くことがないとわかる場所は、ホッとできる。それなのに、聞こえてくるのが店主と他の客の差別主義的な会話だったら? そして……あまり考えたくはないけれど、「感染防止対策をやってるけど、それだけで、そんなつもりじゃない」と言う人だっているだろう。残念ながら。

この話、半分は実話だ。このあいだ偶然入ったお店がこのマークをしていたのだが、耳を覆いたくなる話を「店主が」していた。すぐに出たけれども。

つまり、誤解だらけで、誰にとっても迷惑なデザインだ。これで本当に世界に向けて「おもてなし」しようとしていたことを思うと、滑稽さすら感じる。

https://www.seisakukikaku.metro.tokyo.lg.jp/cross-efforts/corona/anewnormalwithcovid19.html

さらに、仕組みの設計にも問題がある(すでに言い尽くされていることだが)。

基本的には用意されたデータを各自で印刷する。印刷できない場合は郵送できるが、原理的にコピーも可能だ。むしろ推奨している。ましてや、ステッカーの掲示がないと店舗・事業所の営業できないという性質のものではなく、ただの呼びかけに過ぎない。

そんなザルのようなステッカーだが、掲示するための申請は、さまざまな情報を渡さなくてはならない。事業所名や住所、電話番号などを東京都のHPに掲載される。取材NGや連絡先のメディア非公開でやってきた事情などは考慮されない。また、東京都あるいは「その指示を受けた者」の立入検査を拒まないことをに同意する必要がある。しかも「場合によってはオープンソースとして第三者に公開されるかも」という項目には最初からチェックマークが入っている。どこかのECメルマガのようだ。

https://www.bousai.metro.tokyo.lg.jp/taisaku/torikumi/1008262/1008420/index.html

それでも多くのイベントや店舗で使われているのは、背に腹が変えられないからに決まっている。

ここ数ヶ月、クリエイティブの力の必要性が語られる場面が増えた。確かにこういう齟齬が起きないように、クリエイティブの力は活用すべきだ。ただし、それは決して未来の話ではない。現在進行形の課題として、わたしたちの日常のそばにある。少し前に一部で盛り上がったローソンのPBパッケージリニューアルより盛り上がらない。いくらインフラ的な側面もあるとはいえ、ローソンも民間企業。東京都の政策は大手企業の経営戦略よりも公共に関わる問題だ。もしかしたら政治的な配慮のなさはもっと強いインパクトを持っているかもしれない。多くの人は、距離が近すぎて見えていないのだろうか。

それにしても。こんな時に、ほんとにどうしてやってしまったのだろう。全くわからない。意見を通せる立場の人だっているはずのに。その立場にある人が口をつぐんだのか、その人の訴えが聞き入れなかったのかは知る由もない。ひとつだけ言えることがある。2020年の夏に「虹」を無意識に選んだ自治体が世界を「おもてなし」をするのは簡単なことではなかった、それだけだ。

Photo by Denise Chan on Unsplash

ゼクシィとりぼんがコラボしたヤバさを誰も知らない

集英社の雑誌『りぼん』とゼクシィが8月号でコラボした企画が話題だ。と言っても、対象になるのは『初×婚』(ういこん)という作品のみ。柱となるのは次の3企画。

①『りぼん』綴じ込み付録のオリジナルミニ「婚姻届」

②『ゼクシィ』のカバーガールと同じ格好・ポーズの主人公が『りぼん』の表紙を飾る

③『ゼクシィ』のコンテンツにヒロインと恋人候補が登場

つまり、どちらかと言えば『ゼクシィ』の読者よりも、作品のファンに向けた企画と言ってもいい。それなのに、『初×婚』の世界観が活かしきれていないのがもったいない。さまざまな観点から問題を指摘する声があるが、作品との関係性について、もっと語られるべきだと思う。

とにかく『初×婚』はスゴい

『初×婚』(ういこん)は黒崎みのりが『りぼん』で連載中の学園ラブコメ。両親を事故で亡くした主人公が夢を叶えるため全寮制の新設高校へ入学するのだが、そこは大手IT企業の社長夫妻が設立した変則的な学校。自社開発の高性能マッチングシステムに選ばれた男女のパートナーが3年間同じ部屋で寮生活を送る。最終的にナンバーワンに選ばれたカップルは卒業と同時に入籍、夫妻から社長の座を譲り受けるというシステムだ。選出するのは社員たち。学校の成績に加えて、課外活動やカップルとしての行動、SNSのは逐一点数化される。「いいね」もらうため、〈世界一の夫婦〉を目指して生徒たちは日夜奮闘する。そう、主人公は、かつて失った温かい家庭を手に入れるために全力で入学したのだ。ちなみに、部屋の中で「過度の接触」があった場合は警報が鳴るシステムで、セキュリティ的にも安心。……とどのつまり四六時中、外から監視されているのである。

ディストピアSF的な衝撃設定に驚くものの、読んでみれば上質な日常系ラブコメだ。正義感の強い純情な主人公とイジワルで賢いイケメン相方をはじめ、周囲の友人のキャラクターは90年代以降のラブコメを正しく継承しており、幅広い年代に愛される資質がある。大コマの使い方や人物の動き方のバランスがよく、最近の少女マンガを知らなくても戸惑うことなく物語に入っていける主人公が相手を「好き」と感じるまで単行本3巻を要する展開もいじらしい。スペック至上主義の中で優しさや思いやりを大切にする主人公が知らぬ間に周りを動かしていく様には心が洗われる。

何よりも、先ほど「ディストピアSF的」と書いたけれども、実は今のわたしたちの生活も、似たようなものなのかもしれない。ここまで露骨ではないにしても、マッチングアプリで出会うことも特別なことではないし、SNSの投稿だって気にしている。だから日常系

ラブコメにすら感じてしまう。要するに、このマンガは本来、このように色々なレイヤーで語れる、豊かな作品なのだ。(*1)

せつない「共犯」

そんな人気作品とのコラボ企画。肝心なのは両者に「いつもと違う読者層」を流入させることだ。

まずは、少女マンガを卒業した女性に『りぼん』の作品を知ってもらいたいという試み。結婚式情報が目当ての読者にとっては、③は読者参加型のお役立ちコンテンツであり、流入先は『初×婚』単行本。マンガの雰囲気も伝わってくる。これは成功しているだろう。

そしてもうひとつが『りぼん』からの流入。むしろ、このコラボはゼクシィ側に作品が登場することで完結する。そこで気になることが出てくる。

ちなみに、一部で盛り上がりを見せた①の「婚姻届」だが、書式や記載する内容が役所の様式ではないので使えない。妄想強めであることは、罪ではないと加えておこう。しかし、『ゼクシィ』8月号も一緒に買うとなれば話は別だ。

表紙②を見れば、主人公と同じポーズ、同じドレス姿のモデルがいる。「コスプレ」ではなくて、あくまでお洒落で自然に、生身の人として現れるのだ。その違和感は、フィクションと現実がいい具合に混ぜ合わせる。数年後への過度な期待や、反対に、自分の状況を思って心が萎えてしまったり。大人が「面白い」と思う以上に敏感な部分があるはずだ。

さらに中面のコラボコンテンツ③が現実的過ぎる。結婚してから2人関係がどう変わったか?というアンケート記事で、実際のカップルの肉声は生々しい。再構成されたマンガも、載っているだけでうれしいものだ。ほんの300円で、小学生・中学生が「現実の結婚」のスペックをまざまざと見てしまうのである。さらに、ここには役所での申請が可能な「本物の婚姻届」も載っている。自分の「おままごと」に気づいた少女は、そう簡単に戻れないものだ。『りぼん』が色褪せて見えるのではないか? そんな光景がまぶたに浮かぶ。

作品と相性の良い企画に見えて、実は諸刃の剣なのだ。

該当箇所(状況をわかりやすくするための図像として掲載しました)

広告と作品の関係

この企画は、『りぼん』の読者に自らの意志で『ゼクシィ』を手に取る体験をオフィシャルに作り出した。制度としての婚姻が不可能な年代を中心に、結婚という手続きをシミュレーションさせている。

もちろん、「お仕事体験」が特別なことではない世代だ。将来を具体的にシミュレーションすることは、今の十代にとって普通のことなのかもしれない。投資の勉強など、実学的なワークショップも取り入れられいると聞く。現実を見ることが悪いわけではない。

さらに、『ゼクシィ』にしてみれば、早いうちに未来の顧客を獲得したいところだろう。ハウスメーカーや金融機関の広告と同じだ。若い頃の好感は、長く続くもの。「いつか」が現実になった時に迷わず手に取る、そこまでの心の障壁は取っておきたい。その意味では、現時点で成功しているに違いない。広告から得られる価値は高まっている。

しかし、同時に警戒も必要だ。

『ゼクシィ』が喧伝する結婚観を手放しに現実の世界で祝福することは、多様性という言葉を置いてきぼりにする行為につながる。それを目指す人がいてもいい。しかし、それをしないからと言って排除するのは作品の意図から離れてしまう。

女子の中で圧倒的に多いのは「社長夫妻」の「内助の功」的なポジションを心地よく思う女子だ。ただ、中には職業としての社長業を狙って入学した生徒もいる。彼らは成長の途中でもあり、定型キャラの斜め上を行くこともしばしば。これからどうなるかはわからない。

もちろん、この学園の仕組み上、クィアなカップルはAIが判定しないし、おそらく入学できていないはずだ。なぜなら規則で「男女のカップル」と決まっているから。そして日本では戸籍上「男女」でないと婚姻届が出せないことになっているから、結果的には試験で落とされたのだろう。

これは翻ってみれば、そもそも現実の私たちも閉じられた空間にいるのだと体感していることでもある。折しも「変な校則」が槍玉に上がる今日この頃。作品の意図に関わらず、世の中の状況によって、そのようにすら読めてくる可能性がある。単純化したコラボの図式に当てはめることで、そのような可能性を外に追いやってしまう。

「異色作」の休載中のできごと

さらに、気になることがある。

去年まで、雑誌『りぼん』では『さよならミニスカート』が連載されていた。その主人公は元アイドル。握手会で見知らぬ男から切りつけられて引退後、身分を隠して地方都市に住んでいる。学校で一人だけスラックスの制服姿で通学して陰のある中性的な人物として通している。そこで起きるクラスメイトとの摩擦や恋愛を世の中の卑劣に抗いながら「女が生きていく世界」を考えさせられる事件が続くスリリングな展開だった。だが、2018年9月号から始まった連載は、2019年6月号を最後に休載している。

開始時には「異例」ずくめの話題作として盛り立てようとしていた。(*2)『ジャンプ+』で並行掲載をすることで読者が増え、手応えは大きかったはずだ。制作側も発言の機会が多かったと記憶している(*2)

しかし、それは対話ではなく分断を可視化するに留まり、結果的に休載されたまま1年以上が経過している。もちろん、休載の理由は関係者ではないのでわからない。しかし現実として休載の事実があり、強く推し出す後継作も特に見当たらない。現時点で、特に必要ないと思われているのだろう。そのような中で用意された企画なのである。

一方、その頃『ゼクシィ』は……

そもそも『ゼクシィ』は挙式と新生活に向けて必要な情報を掲載する、結婚に特化した広告媒体だ。しかし、この企業はほんの3年前に画期的な判断をしていた。

それは2017年のキャンペーンで採用されたコピーだ。

「結婚しなくても幸せになれるこの時代に、わたしは、あなたと結婚したいのです」

このキャッチコピーは男女を問わず共感を呼び、担当コピーライターがTCC新人最優秀賞も受賞し。いわゆる「大御所」と言われるクリエイターも唸った。ダイレクトな商品訴求ではなくて、時代の空気感に迫るもの。一見逆説的にもとらえられそうだが、これこそブランド訴求に寄与すると考えた決定に拍手がおくられた。クリエイティビティ的にも、世の中の反応も実りあるものだった。もちろん、このインタビュー(*3)でも述べられているように、世の中にある空気を汲み取った結果である。企業姿勢として多様性を追求するというものではない。

だからこそ、だったのだろう。今年のコピーは「幸せが、動き出したら。ゼクシィ」というもの。「やっぱり幸せは結婚するしかない」という反動的な動きであることは明白だ。つまり、世の中の空気がそのようになっていると読んだのである。やっぱり結婚至上主義になってもらわないと、困るのだ。

「女の子の味方」の正体

『ゼクシィ』と『りぼん』の揺らぎ方は相似形をなしている。それは両者が「女の子」に同じくらいの影響を与える力を持っているからだ。この揺らぎ方は「女の子」が置かれている状況を如実に表している。

そもそも『りぼん』はこれまでにも、多様なキャラクターや物語を生み出してきた。長い歴史を見てみれば、決して『さよならミニスカート』だけが異色なのではない。

しかし、外部から語られるのは「どれも同じに見える」「少女趣味」「凡庸」という景色である。その理由は明らかだ。『りぼん』の外側にいる者が「かくあるべき少女像」を抱いているからだ。読んでもいない作品に対しても、その眼差しが反映されている。

だからこそ、その視線は乱反射を生む。発信する側(この場合『りぼん』という媒体)「かくあるべき」と見られている世間の目に応えようとするほど「かくあるべき」という作品を多く作り出すことになる。そして素直な読み手が好意的に読む。結果的にそれが雑誌としてのアイデンティティを強固にしていく。

いみじくも、作者・牧野あおいへのインタビュー(*2)に世の中が求める「王道」が載っている。聞き手が最初に漏らしているように、〈読者層を考えると本来、「キラキラしたアイドルを目指す女の子の物語」が王道かと思〉われているのが実情だろう。一般的な(男性の)反応は、稲田氏の記事(*4)が代弁しているはずだ。作者が〈女の子が困難から立ち直る」が一つのテーマですが、男女の違いに悩んでいる子に対しても味方になりたい。〉と訴えるのと裏腹に、それさえも「女の子の味方」でありうる。

「ゼクシィをいそいそと買う女の子」は、ある意味で男性が「安全に思う女の子」だ。対極にあるのは、その前に「別姓がいい」「嫁?パートナーって呼びたいな」とサラッと言われたり、「結婚はできないけど、好き」と言われたりすることだろう。

20年代、明日はどっちだ

そもそも社会というものは、自分が思うようには回っていない。現在の社会は、数十年前と比べて、当然変わっているところもある。しかし、変革を望んでいる人が思うほどには、変わっていない。

つまり「変わっているはずだ」というのは思い込みなのである。旧い論理で世界を回している人と同じくらいの強度で。つまり、どちらも幻想を抱いている。残念ながら、どちらが強いのかと言えば、正しさではない。圧倒的にうまくやっている方が強い。特に不都合がないのであればなおさら、その傾向は止まらない。

それは良くないことだ。ただ、2019年の「あいちトリエンナーレ」やハッシュタグデモの顛末、偶発的に起きたCOVID-19の大流行、都知事選、そのようなことを思い出してほしい。正義を主張するだけでは分断を生むばかり。「まったく楽しくない」で終わってしまう。だから結局多くの人が、楽な方へ、怒らないで済む方を選ぶ。

ここ数カ月、非常時だからと、結婚願望が高まったり、ペットを飼う人が増えたりしたそうだ。その裏返しとして、#StayHomeで恐怖が増したり、中高生の妊娠が増えたり、譲渡会が開かれなかったり、という弊害もあるのだが、やはり人は暗いニュースよりも幸せな報せに興味がある。

さらに、突然槍玉に上げられた彼らはなぜか、上段から手を差し伸べる術を持っている。「疲れていませんか?」と語りかける。ここで不思議なのは、マイノリティの側から同じことを言われるても、気分を逆撫でされた経験をすぐに忘れてしまうことだ。

しかし、やはりうまくいく方が強い。これまで通りにその手を握ることは、一定の安心材料でもある。つまりこの企画は「やさしさ」でできている。ちょうど今、#MeTooやエンパワーメント、多様性といった概念でターゲットにされた人の側も疲れている。そして怒るのも正直、疲れる。

繰り返しになるが、楽な方へ人は流れるものだ。ということは、つまり……「楽なこと」と思われなければ、いくら正しくても、多くの人を動かせない。それでは世界を少しでも変わらない。怒るために怒っているのではない。笑うために、わたしたちは怒るのだ。それはできるだけ、忘れずにいたい。

今回のコラボ企画は警戒すべき点が多いのも事実だ。しかし『初×婚』という作品は、そんなことも杞憂に終わらせてくれる作品になる可能性がある。この表現が20年代を象徴する表象になるかどうか。わたしたちは今、その分水嶺に立ち会っている。


*
1
http://ribon.shueisha.co.jp/rensai/uikon/

*2
https://www.cinra.net/column/201903-sayonaraminiskirt

*3
https://www.advertimes.com/20171207/article262533/

*4
https://www.premiumcyzo.com/modules/member/2019/09/post_9511/

そして、鬼は滅びたのか?~『鬼滅の刃』最終話について

Photo by Ming Lv on Unsplash

先週の月曜日、何があったか覚えているでしょうか? もはやいろんなことがあって忘れてしまいそうですね。「社会現象」を巻き起こしたマンガ、あの『鬼滅の刃』がついに完結を迎えたのでした。

このマンガは、大正時代が舞台になっているだけではなく、世の中からみた歴史が映し出されているとわたしは考えています。というわけで、その報を聞いて、まず思ったのは「あぁ、やっぱり大正時代だから短いのか……」と。

結末の在り方については、賛否両論さまざまな意見が飛び交っています。作品のクオリティに言及したもの、作者への感謝、他の作品と比較したメタ的内容まで多様なものです。そうしたことは、ここでは扱いません。たしかに、ファンの目線でマンガを読む行為は尊い。けれども、ここではあえて、別の可能性を探りたい。

※ちなみに※この記事には作品の考察をするための「ネタバレ」が含まれています。もしもあなたがネタバレ厳禁と思っているなら、作品を味わってからこの続きを読んでください。もちろん、気にしないなら、このまま読んでいただけるとうれしいのですが。


仮説[鬼滅の刃=近代の鏡物]

何を今さら言っているのかと、訝しがる人もいるかもしれません。『鬼滅の刃』の舞台が大正時代であるのは周知の事実。しかし、これはただの設定ではありません。『鬼滅の刃』という作品は、いまの世の中にある歴史観が映し出しているのです。

平安時代後半から室町時代にかけて、「日本」の文学史では「鏡物」と呼ばれるジャンルが多く見られました。これらはひとつ前の時代を描いた歴史物です。受験生の皆さんにはお馴染みの、ダイコンミズマシの四鏡〜『大鏡』『今鏡』『水鏡』『増鏡』が有名ですね。

主人公を中心に歴史を語らせるという手法は、現代では映像作品との親和性が高くなっています。つまり、大河ドラマや朝の連続テレビ小説です。すでに色んな場所で[『鬼滅の刃』=朝ドラ]説は、ずいぶん取り上げられています。

もちろん朝ドラでも構わないのですが、その際は「朝ドラの視聴者層とファン層が重なる」という部分が強調される傾向になります。ものの見方を映し出しているという意味であれば、むしろ「鏡物」から連なる作品と考えたほうが自然だと思います。

作品全体は言うに及ばず、そのことが最終話にクッキリと表れています。大正時代の奥多摩からはじまり、現代の東京で帰結することになりましたが、最終話は、ただの後日談ではありません。全編にわたり、鬼との闘いを通じて「現代と歴史」を浮き彫りにして来た作品だからこそ、現代を最終話にする必要が合ったのです。


「血縁」の結実

まずは軽く物語のおさらいを。

第一話において、時代は「大正」とだけ明言されています。作中での会話をもとにすれば、おそらくは大正前半の出来事。家族を鬼に殺され、妹の禰豆子を鬼にされた炭治郎は、家族の敵を討ち、妹を人間に戻すために鬼と対決するべく旅に出ます。最初の旅立ちから4年程度。その戦いで繰り広げられるドラマが描かれている作品です。

炭治郎が知らないところで、鬼と人の因縁の戦いは、平安時代の中頃(A.D.900年前後)から続いていました。ただ、善と悪の凌ぎ合いというよりも、むしろ根源的には「血縁」をめぐる争いです。

そして最終話=205話の舞台は「現代・東京」です。ここで描かれるのは、前話まで活躍していた人物たちの子孫や転生者が平和に暮らす情景。つまり、彼らは「血縁」的な結びつきを持って現代の東京で暮らしています。

この「血縁」に注目してみます。

鬼殺隊を束ねる「産屋敷家」は、彼らの血縁は鬼を出してしまった咎で「呪い」にかかっています。その呪いとは、産まれた子がすぐに命を落としてしまうこと。神職の娘を娶り、鬼を滅ぼすことに「心血を注ぐ」ことで家を絶やさないことが可能になりました。それでも早逝が運命づけられており、序盤に現れる若い当主は97代目です。(明治より前の基準であれば、元服してから数年は生きられる計算ですが……まぁそういう問題ではないですね)

つまり、物語の中での「鬼」は、もともと人だったものが鬼になるという存在です。だから鬼はもともと、人との「血縁」があったのです。

そもそも、血を絶やせばいいという発想はなかったのか? という疑問もありますが、中世的な世界観では家の断絶は忌避するのが不文律です。それと同時に、彼らが鬼のいない平和な世を望んでいたからでしょう。

しかも、隊士たちはそれぞれに内なる「血縁」と対峙しています。先祖との縁で力を得る者もいれば、親戚縁者と袂をわかつことで強さを得る者もいる。さらに鬼だって同様です。血縁だからこその愛憎を「鬼」になることによって満たそうというケースが見受けられます。

主人公の兄妹のみならず、家族の中でのポジションが個人のアイデンティティとしてかなり重要な部分を占めています。家族としての自分と個人が分かちがたく、絡めとられるシーンが多いのは、指摘するまでもありません。家族ごっこをする鬼も登場しますし、炭治郎の「長男だから」と言い聞かせる場面、鬼化して子を手にかけた憤怒の念など、すべて挙げては段落が埋まりそうです。

さらに、「血の継承」は概念だけの問題ではありません。鬼にしても、鬼狩りをする人にしても、その身体に流れる「血」が個人の能力に直結しています。物語の中では、実際問題としても「血縁」は生と死に関わること。自分に流れる血の力が、その運命を変えていく。逃れられない宿命としての「血」が描かれているのです。


生活単位の更新

ただし、ここで忘れてはならないことがあります。鬼殺隊は単なる血族ではありません。むしろ、擬似家族です。産屋敷家の当主は代々、「お館様」と呼ばれて隊士を率いています。御家人制度や、棚親・棚子のようなものですね。特に、輝哉は隊士たちを子のように扱っており、同時に親のように慕われています。隊士の力は親子代々伝わるものもありますが、それとは関係なく顕れることも。それらは異能・異形の姿で存在しています。

つまり、この組織は「鬼を滅する」という目的のためだけに集めた能力者集団。その目的を果たした後で最終的にどうしたのか? そこがラストを見る上では重要になります。

竈門炭治郎・禰豆子の兄妹は、ただ生まれ故郷に帰って元の生活を始めたのではありません。苦難をともにした仲間との新たな結びつきを得ました。新たな生活単位としての「家族」を作り、雲取山に帰還します。どれだけ異能の持ち主とはいえ、市井の人として日々を続けていくのです。

それが仮に、メタマンガである『銀魂』における「最終回発情期<ファイナルファンタジー>」だとしても。これはかなり重要なことです。

しかしながら、最終回が意味するところは、再び「血縁」です。時は移り変わり、「現代の東京」で、彼らの子孫や転生者の近くで平和な暮らしをしています。この状況は、いまの世の中とたいへん似ています。いくら社会制度やテクノロジーが進んでも、「血縁」が重視されています。さんざんもてはやされたシェアリングエコノミーですが、2020年は世界中で「StayHome」が呼びかけられ、本邦では「世帯主」に給付金の案内が来るご時世。

ここで時代を述べるならば、「血縁」というワードを持ち出して皇室について触れないわけにはいきません。大正時代は、皇室で事実上の一夫一妻制度が始まった時代でもあります。厳密に女官制度が廃止されたのは昭和になってからですが「側室」という制度は使われていません。近代化を目指す「日本」にとって、そのような概念は過去に置いてきたかったのでしょう。「血縁」を絶やさぬようにする前時代的な仕組みは瓦解しました。しかし、その新たな制度は、結果として後世に生きる人を「血縁」によって縛ることにもつながっています。


どこに「鬼」はいる?

前述した通り、この作品の中で「鬼」は元々は「人であった」ものとされています。しかしながら、この前提条件には疑問符をつけたくなります。

なぜ「鬼」が生まれたのでしょうか。作中ではラスボスの鬼舞辻無惨が【一番はじめに鬼になった】と呼ばれています。1000年ほど前、薬師(医者)に施してもらった薬が元で鬼になったわけですが、そもそもなぜ「鬼」だとわかったのでしょう。そして何より、この薬師(医者)がその薬を持ちえた理由は……?

(このあたりは、憶測としていろいろな可能性が考えられるのですが)いずれにせよ、鬼は彼だけではなかった、もしくは彼の前にも「鬼」がいたと考える方が自然です。

そして、産屋敷家は「呪い」にかかっています。そもそもそんなものは誰がかけたのでしょう。家族のひとりが「鬼」になるからと言って、産まれてくる子どもの寿命を縮めるなど、連帯責任をとる必要があるものでしょうか?神が祟るというのは、穏やかではありません。しかしながら、登場人物も読み手も、その事実を自然と受け入れています。新興宗教の教祖になっていた「鬼」もいましたが、カウンターになる宗教については、特に描かれていません。それにもかかわらず「神様だから仕方ないね」と受け入れている節があります。「神」の意に反するものが「鬼」ということなのかもしれません。

炭治郎に伝わっていたのは「ヒノカミ」に捧げるための「神楽」であり、日輪のピアス。「鬼」は日の光で焼け死ぬ性質があり、鬼殺隊が使用するのは日輪刀。そうです、神様は日の光=お天道様そのものでもあると推測されます。そう考えると「天照大神」、さらには前述した皇室の存在も自ずと導き出されます。

これらの存在は、特にサジェスチョンされることはありません。海外の読み手は「おぉ、Japnaeseアミニズム」と思いながら読むかもしれません。しかし、登場人物のみならず「日本」の読者も、そこに特段の「イズム」は感じていません。空気のように当たり前にあることとして受け入れているわけです。

このように、「鬼」を語っている時、「神」は語られず物語は進みます。けれども、それ故に、さらに大きな存在であることが暗示されているのです。

誤解を招くかもしれないので強く言っておきますが、この作品は「何か」を礼賛しているマンガではありません。そういうことではなく、神仏習合という形で「日本」の各地に根付いていた信仰の在りようをさまざまなモチーフを使って描いています(無垢さ・素朴さ故の暴力性も作者は描いています)。


現代に横たわる「鬼」

この最終話において、「鬼」を滅するための道具や、その人たちの写真などの遺物が飾られるのはマンションのリビング。かつて「ケガレ」と日常を分けていた存在が、居住空間にあるのは不思議です。しかしながら、都市生活というものは、こんな感じです。かつては禁忌とされていた習慣の多くが迷信と思われ、破られながら日常が営まれています。

しかしながら。「鬼」は本当にいなくなったのでしょうか?

鬼殺隊が動いている裏で、さらに彼らが解散した後も、人はいくらでも「鬼」になったし、人のことを「鬼」と呼んでいたはずです。もちろん、この時代設定はフィクションですが、戦争や震災がまったく起きなかったパラレルワールドだとは思えません。そうであれば、「現代・東京」にする必要はないからです。

最終話では、かつてそこに戦いがあったなど、何事もなかったかのような幸せな空気に包まれています。「好き/嫌い」ではありません。実際のところ、そういう世界が描かれているのです。

これは、まさに本邦の状況と言い換えてもいいと思います。「この事態を教訓に」思っていたことですら、わたしたちはすぐに忘れてしまいます。2020年の今、COVID-19という新型コロナウイルスによっていろいろと起きている出来事は、2011年の震災でも、十分にわかっていたはずのことなのに。

しかし同時に、こんなことも言えます。いみじくも人の心から生まれた「鬼」を昇華させる姿を読みながら、読み手は鬼の側にも心を惹かれてきました。炭治郎も鬼化する直前まで追い詰められました。それはつまるところ、読み手が「鬼」の存在をいつも感じているからなのです。「鬼」はわたしたちの隣人であり、自分もいつか、そうなるかもしれない。むしろ心の中に潜んでいる存在だということに気づかされる。

本当は、設定の年代を考えれば、現実の時間軸とリンクさせる、あるいは匂わせる展開だってあり得たと思います(原案となった読み切りには、外国の話も出ているので…)。けれども、そんな話にはなっていません。それはそうです。世の中の読み手は、それほど望んでいないから。だからここに、ある歴史観が映し出されているのです。

呼ばず語りの国で —–COVID-19-あるいは—–

起きぬけにスマホをチェックするとコロナ。ブラウザを立ち上げてもコロナ。テレビをつけてもコロナ。人と話してもコロナ。ほんの数ヶ月前に「コロナ」と言えばビールだったのに(暖房器具の人も、太陽を思い出す人もいるかもしれないが)、とにかく世の中は変わってしまった。言うまでもない。新型コロナウイルスの話題で、みんなが大変だ。

Photo by Claire Mueller on Unsplash

COVID-19 vs. XXXXX

日本ではいつのまにか、そのウイルスを「新型コロナウイルス」と呼ぶようになった。本当の名前は「COVID-19」なのだが。まるで、WHOが決めた正式名「COVID-19」など存在しなかったように、自然とそう呼ばれている。

もちろん他の国でも「新型コロナウイルス」という言葉が使われている。ただ固有名詞としては「COVID-19」が優勢。見出しやタグで使われるのは「COVID-19」あるいはそれに準じる表記。かたや日本では「新型コロナウイルス」が名前のような振る舞いだ。

試しにやってみた。Googleでの検索結果で「COVID-19」を日本語で検索しても厚生労働省の日本語ページは上位にヒットしづらい(2000/5/13時点)。WHOの特設サイトのほかは、民間有志のものだ。あの山中伸弥教授の個人サイトが2番目に出てきたこともあった。「新型コロナウイルス」だと圧倒的に厚生労働省のいろいろなページをおすすめされるのに、不思議な感じはある。

(もちろん、検索結果は一過性のものなので、参考程度に)

実際に、あなたも「コロナ」「新型コロナ」に比べて「COVID-19」と言うことは珍しいだろう。日本語で「コヴィッドナインティーン」とか「コビッド十九」とか呼ぶのは長い。視覚情報として「COVID-19」と付けておくこともできたはずだが、言文一致だろうか? とにかく定着しなかった。それ自体は、単にそうなってしまっただけだ。しかし、名前のつけかたひとつで、社会の状況がよくわかる、ということは言える。

日本では正式な名前は捨てられた。しかも、代わりに使われたのは、日本ならではの何かではない。「新しいタイプのウイルスの一種」という普通名詞的な呼び名である。このことは、ささいなことではあるが、実は重要なことでもある。

固有名詞の書き換え

この誤差は、少なくとも2月の初旬には生じていた。実は仕事でこのウイルスに関する広報資料を扱うことがあったのだが、海外のリリースを翻訳するにあたり「COVID-19」としていた箇所を「新型コロナウイルス」に書き換えることに。個人的に違和感をおぼえたので記憶に残っている。やりとりはおよそこんな感じだ。

「呼び方定着してないので、WHOにあわせたら良いのでは。文字数も少ないので」と質問した。(ウイルスそのものの話ではなくて感染症のことを言ってるのこともあった)
返事は即答。「いや、わかりやすく新型コロナウイルスで」と。こちらの違和感は拭えず、コロナウイルスも専門用語だからわかりづらい、それ自体はいっぱいあるので、不正確だと問いかけた。すると修正指示がくだる。
【一括変換の後、お手数ですがレイアウトのスペース調整してください】
おおぅ。
こちらは修正がめんどくさいと思ったわけではないのに……さぞかし、めんどくさい奴だと思われたらしい。

和製英語はこのように生まれるのだ。
もちろん、悪いことばかりではない。

ただ、意味合いは変化する。やはり「名付け」という行為は、記号論というジャンルでいろんな人が指摘している通り「意味づけ」である。特別な名前、何者にも替えがたいもの。それは人との関連性を生む。名前があることで、他と区別する。そして自分との間に、特有の関係を作りあげる。まるで関係のない世界の一部が、にわかに眼前に現れるのである。人は名づけを増やすことで世界を拡げていける生き物だ。

書き換えがもたらす変化

それなのに。「新型コロナウイルス」と目にするたびに、聞くたびに、日本語での認識は「新しいタイプのコロナウイルスの一種」である。
《どうやら新型のウイルスらしい……インフルエンザみたいな……新型インフル?……まぁとにかく新しい……致死率もそれなりの……》こんな調子で「なんだかとにかくやばいらしい」ということが滲み出ているわけだ。

これを「わかりやすい」と思う人が多い。だからこそ、現在の状況がある。「とにかくやばい新しい奴」と思うことで安心させようとする。いわば、球技で自陣にボールが飛び込むの時に発する「来るよ!来るよ!」という掛け声のようなものだ。なんだかよくわからないものに対峙してる自分に、ちょっとだけ酔ってないだろうか。いや、それはさすがに悪意があるだろう。平たく言えば、連帯意識を高めることができるのだ。

いっぽうで、「COVID-19」と名付けると、向き合わずにはいられなくなる。価値判断は含まれず、ただ名づけられたという事実がある。だからこそ、自分にとって他の「よくわかんないけどくしゃみが出る」ではない意識ができる。それはたとえば、客観的に捉えようと心がけること。俯瞰的に考えてみること。自分は何を大切にしていて、何ができるか、何をしてはいけないか、自分を主体に考えることがしやすい。

いや、そうは言っても。もちろん、英文字だけではわかりづらい。頭文字をとって呼ぶ習わしは、なかなか身につかない。難読語のようなものだ。そんな時に比較してみたいのは中国語。こんな表記を見つけたので紹介したい。それは「新冠肺炎」である。言うまでもなく、北海道の地名とは関係ない。コロナは王冠状の突起があることだ。それを表している。つまり「新型コロナウイルスによる肺炎(症状)」を四文字で表していて、賢い。しかも「COVID-19」と同じ「8バイト」だから驚きだ。

誰が悪いとかではない。どの国と比べるわけでもない。事実として、日本での「名付け」が2020年5月現在の社会状況を表しているのだ。漠然と不安を語り、不安が語られる。

顔も同じく…

そして残念ながら、名前だけではない。いや、むしろ「名は体をあらわす」のだから同じことなのだろうが、ビジュアルも相似している。現物を見るのが手っ取り早いだろう。

この画像に見覚えがあるだろう。日本でも、流行の初期にはTVでもよく流れていた。CDCによる着色された画像である。

Photo by CDC on Unsplash

しかし、日本で最近多く見かけるのは、これではないはずだ。おそらくは……これだろう。

国立感染症研究所から提供

このボンヤリとした画像は、日本の国立感染症研究所が分離に成功したウイルスの写真。映ったまま、着色を施していない真の姿ではある。ただし、ここから何を読み取れるだろう? 門外漢から見て「なるほど」と思えるだろうか?

CDCの画像は、いろいろと盛っている。これが逆に怖いという面もあるが、同時に、発信しようという意図がある。受け取った側も、向き合わざるを得ない。

対して、グレーの電子顕微鏡写真。確かに、細かいところまで見えるのはスゴい。しかし、一体それで、何を伝えたいのだろう? よくわからない。特に何も意志はないのかもしれない。それであれば、わかりやすい加工を施しても良いはずだ。解像度のはっきりとした画像に囲まれている現在、このような画像は、漠然とした不安を感じさせてしまうものだ。

名前と同様、いやもしかするとそれ以上に、あからさまに日本での状況を表しているのである。

さて、最大の難問が見えてきた。
別の新型コロナウイルスが出てきたときに、この日本では、そのウイルスをなんて呼べばいいのだろう? 今はボンヤリと考え続けるしかない。新型コロナウイルスが、これからも発見されるのは当然だから。

「自粛要請」だだ漏れの三月

テレビ、新聞、ネット、ラジオの多くが、情報を伝えるのではなくて「自粛すればなにかが成功するムードを醸成するPR」をしている。そしてそれは、少なくとも3/22現在は成功しているようだ。

「こんなときだからみんなで我慢しよう」というメッセージ性のあるコンテンツと、観光地や花見でほのぼのしつつ、県から自粛要請があった格闘技イベントが敢行したことに眉をひそめること。さらには、大相撲は無事に千秋楽を迎え(いやこれはよかったのですが)、関東地方に限れば天気もおだやかで、ソメイヨシノの開花もだいぶ早まり、めでたい感じがする。結果的に「なんだかよくわからないけど、みんなで乗り切れば大丈夫じゃない?」的な楽観的な志向をつくり出している。

メディアから投げかけられてる言葉は、まるで「以上、3/22の空気感を醸成しました」なのだがーーあれ、そういうことだっけ? たぶん違う。暮らしていて、情報が伝わってこないことが危うい。

こういうことを言うと、すぐに広告代理店の陰謀論と結びつけられやすいが、実は広告の制作が「できる」人と組んでいないからこそ、こういうことになるのだろう(念のため言っておくと、関わっていればいいわけではない)。なぜなら、情報を伝えるのが広告の第一義のはずだから。

そもそも「自粛」というのは、頼まれてするものではない。するもしないも、自分が決めること。お願いするなら「中止・延期のどちらかを要請する」と言えばいい。それなのに、宙ぶらりんな言葉を投げかけられるから、わからなくなる。不毛な議論が生まれてしまう。

要請の担保ができるかどうか、現時点で言えることがないのであれば、何を優先にしたいのか説明する。シンプルにそれだけのはずだ。台風や地震で「逃げてください」とか「命を守る行動を」と言うのと同じ。

「言葉尻ばかりに目を向けるな」とか「揚げ足取り」とか言う人もいるかもしれない。けれども、実は広報の目線では重要な点のはず。「どんな理由で、何をしてほしいのか」説明がないのに「お願い」をされてもやるかどうかは運次第になってしまう。

そもそも人は、自主的な判断をするとき、現在あるだけの情報を目の前にして、いろいろな考えを探るものだ。現在、 オフィシャルな情報源として認められているのは、厚生労働省や自治体のサイトだが、そこには「知りたい」と思っている情報は載っていない(ように見える)。

つまりは、こういうことだ。
【厚生労働省】
新型コロナウイルス感染症対策専門家会議の見解等(新型コロナウイルス感染症)
(新型コロナウイルス感染症対策専門家会議「新型コロナウイルス感染症対策の状況分析・提言」(2020年3月19日)PDF

【東京都】
新型コロナウイルス対策サイト

どうだろう。もちろん、情報を出していないわけではない。しかし、とにかくわかりづらい。

たとえば……
1)大規模なイベントとは何人以上なのか?
2)「感染状況が拡大傾向にある地域」や「感染状況が収束に向かい始めている地域並びに一定程度に収まってきている地域」とはどこを指すのか?
3)「症状が軽い陽性者等」が「高齢者や基礎疾患がある人と同居していて家族内感染のおそれが高い場合は、接触の機会を減らすための方策を検討」と言っても、自分が症状が軽い陽性者等に該当するかどのように知ればいいのか?
4)渡航歴もなく医療従事者ではない人の感染数が増えてきてるのでは?
ーー等々、わからないことだらけである。伝わってないのは、伝えていないのと同じだ。

その一方で、明確に読みとれる箇所もある。国に対して求めたことは、これから進められていくのだろう。周知広報の充実が求められているのだ。これから充実するに違いない。

(3)「3つの条件が同時に重なった場」を避ける取組の必要性に関する周知啓発の徹底

まん延の防止に当たっては、国民の行動変容を一層徹底していく必要があります。このため、専門家会議としては、国に対しては、3つの条件が同時に重なった場を避けることの必要性についての周知広報の充実を求めます。

https://www.mhlw.go.jp/content/10900000/000610566.pdf

それにしても、ここまで「自粛を要請され続ける」のって、なんだか「自己批判しろ」と請わているみたいで可笑しくなってくる。政治の季節に必ず反動をしてきた日本社会。このシラケが怖い。

あいちトリエンナーレ再訪(0)

9月に引き続き、会期終了前にあいちトリエンナーレに行ってきます。

再訪後に記事も書くけど、その前の状況を書いてみたい。

9月来訪時には豊田エリアを回ったが、今回は時間的に無理だろう。これが悔やまれる。全体的にキュレーションの輪郭がしっかりとしていた。さらにあいちトリエンナーレの軸となっていたのは、ホー・ツェーニンの「旅館アポリア」だと思う。なので、そういう意味でも豊田会場おすすめ。駅前のミネマツヤのタイごはん美味しかった。

https://ja-jp.facebook.com/AjianWuTaiMinematsuWu/

今日のところはまず、9月の印象を記しておく。人はすぐに、大事なことを忘れてしまうから。

たしかに大きな分断があった。それを超えていく可能性も見えた。意外かもしれないが、底知れぬ静けさを感じた。

名古屋駅に着いて、まず思ったこと。

「あれ?名古屋が通常営業している」

太閤口前のOOHビジョンはちょうど流れていたけど、それぐらい。本当に街中でやっているのか不安になるぐらいだった。

こんな話を聞いた。わたしの親戚が名古屋に住んでいる。初回のトリエンナーレは「街全体が芸術祭」という雰囲気だったそうだ。「なんか凄そうだけど、現代美術ってよくわからないからなぁ」と首をひねる上司を連れ出すことも気軽にできたそうだ。

しかし「前回から」状況が変わっていたという。興味のない人が「なんか凄いのが近所でやってるらしい」と気づくこともなかったと。

暮らしている人の実感として、こういうことがあるのは確かだ。予算額とか、広報の使い方とか、検証してみたら良いのではと思った。誰もしないなら、やってみたいけど、どなたか数字の得意な人と組んでみたい。

果たして今日の名古屋は、どうだろうか?

それでは、行ってきます。

「ひらめき☆マンガ教室」提出課題へのコメント集【随時更新】

突然ですが。このポストで書いたように、「ひらめき☆マンガ教室」に通い始めました。

そこで、提出課題へのコメントをnoteで投稿しています。どうしてnoteかと言えば、検索性も高まるし、通りすがりの人も怪しまないと思うんですよね。

これらのコメントは個人的な見解だけ載せています。基本的には「最初の読者」としての感想です。わたしは講師ではなく、描き手にとって参考になるとすれば、ただただ「第3の視点」ということに尽きると思います。

他の人はどう感じたのか、ということにも興味があるので、何かあればレスポンスいただけるとうれしいです。

UPしたら下記にまとめていく予定です(マガジン機能がいまいち使いこなせていない説あり……)。よろしくどうぞ!

課題5への感想

課題4への感想

課題3ネームへの感想

課題2ネームへの感想

課題1ネームへの感想