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ゼクシィとりぼんがコラボしたヤバさを誰も知らない

集英社の雑誌『りぼん』とゼクシィが8月号でコラボした企画が話題だ。と言っても、対象になるのは『初×婚』(ういこん)という作品のみ。柱となるのは次の3企画。

①『りぼん』綴じ込み付録のオリジナルミニ「婚姻届」

②『ゼクシィ』のカバーガールと同じ格好・ポーズの主人公が『りぼん』の表紙を飾る

③『ゼクシィ』のコンテンツにヒロインと恋人候補が登場

つまり、どちらかと言えば『ゼクシィ』の読者よりも、作品のファンに向けた企画と言ってもいい。それなのに、『初×婚』の世界観が活かしきれていないのがもったいない。さまざまな観点から問題を指摘する声があるが、作品との関係性について、もっと語られるべきだと思う。

とにかく『初×婚』はスゴい

『初×婚』(ういこん)は黒崎みのりが『りぼん』で連載中の学園ラブコメ。両親を事故で亡くした主人公が夢を叶えるため全寮制の新設高校へ入学するのだが、そこは大手IT企業の社長夫妻が設立した変則的な学校。自社開発の高性能マッチングシステムに選ばれた男女のパートナーが3年間同じ部屋で寮生活を送る。最終的にナンバーワンに選ばれたカップルは卒業と同時に入籍、夫妻から社長の座を譲り受けるというシステムだ。選出するのは社員たち。学校の成績に加えて、課外活動やカップルとしての行動、SNSのは逐一点数化される。「いいね」もらうため、〈世界一の夫婦〉を目指して生徒たちは日夜奮闘する。そう、主人公は、かつて失った温かい家庭を手に入れるために全力で入学したのだ。ちなみに、部屋の中で「過度の接触」があった場合は警報が鳴るシステムで、セキュリティ的にも安心。……とどのつまり四六時中、外から監視されているのである。

ディストピアSF的な衝撃設定に驚くものの、読んでみれば上質な日常系ラブコメだ。正義感の強い純情な主人公とイジワルで賢いイケメン相方をはじめ、周囲の友人のキャラクターは90年代以降のラブコメを正しく継承しており、幅広い年代に愛される資質がある。大コマの使い方や人物の動き方のバランスがよく、最近の少女マンガを知らなくても戸惑うことなく物語に入っていける主人公が相手を「好き」と感じるまで単行本3巻を要する展開もいじらしい。スペック至上主義の中で優しさや思いやりを大切にする主人公が知らぬ間に周りを動かしていく様には心が洗われる。

何よりも、先ほど「ディストピアSF的」と書いたけれども、実は今のわたしたちの生活も、似たようなものなのかもしれない。ここまで露骨ではないにしても、マッチングアプリで出会うことも特別なことではないし、SNSの投稿だって気にしている。だから日常系

ラブコメにすら感じてしまう。要するに、このマンガは本来、このように色々なレイヤーで語れる、豊かな作品なのだ。(*1)

せつない「共犯」

そんな人気作品とのコラボ企画。肝心なのは両者に「いつもと違う読者層」を流入させることだ。

まずは、少女マンガを卒業した女性に『りぼん』の作品を知ってもらいたいという試み。結婚式情報が目当ての読者にとっては、③は読者参加型のお役立ちコンテンツであり、流入先は『初×婚』単行本。マンガの雰囲気も伝わってくる。これは成功しているだろう。

そしてもうひとつが『りぼん』からの流入。むしろ、このコラボはゼクシィ側に作品が登場することで完結する。そこで気になることが出てくる。

ちなみに、一部で盛り上がりを見せた①の「婚姻届」だが、書式や記載する内容が役所の様式ではないので使えない。妄想強めであることは、罪ではないと加えておこう。しかし、『ゼクシィ』8月号も一緒に買うとなれば話は別だ。

表紙②を見れば、主人公と同じポーズ、同じドレス姿のモデルがいる。「コスプレ」ではなくて、あくまでお洒落で自然に、生身の人として現れるのだ。その違和感は、フィクションと現実がいい具合に混ぜ合わせる。数年後への過度な期待や、反対に、自分の状況を思って心が萎えてしまったり。大人が「面白い」と思う以上に敏感な部分があるはずだ。

さらに中面のコラボコンテンツ③が現実的過ぎる。結婚してから2人関係がどう変わったか?というアンケート記事で、実際のカップルの肉声は生々しい。再構成されたマンガも、載っているだけでうれしいものだ。ほんの300円で、小学生・中学生が「現実の結婚」のスペックをまざまざと見てしまうのである。さらに、ここには役所での申請が可能な「本物の婚姻届」も載っている。自分の「おままごと」に気づいた少女は、そう簡単に戻れないものだ。『りぼん』が色褪せて見えるのではないか? そんな光景がまぶたに浮かぶ。

作品と相性の良い企画に見えて、実は諸刃の剣なのだ。

該当箇所(状況をわかりやすくするための図像として掲載しました)

広告と作品の関係

この企画は、『りぼん』の読者に自らの意志で『ゼクシィ』を手に取る体験をオフィシャルに作り出した。制度としての婚姻が不可能な年代を中心に、結婚という手続きをシミュレーションさせている。

もちろん、「お仕事体験」が特別なことではない世代だ。将来を具体的にシミュレーションすることは、今の十代にとって普通のことなのかもしれない。投資の勉強など、実学的なワークショップも取り入れられいると聞く。現実を見ることが悪いわけではない。

さらに、『ゼクシィ』にしてみれば、早いうちに未来の顧客を獲得したいところだろう。ハウスメーカーや金融機関の広告と同じだ。若い頃の好感は、長く続くもの。「いつか」が現実になった時に迷わず手に取る、そこまでの心の障壁は取っておきたい。その意味では、現時点で成功しているに違いない。広告から得られる価値は高まっている。

しかし、同時に警戒も必要だ。

『ゼクシィ』が喧伝する結婚観を手放しに現実の世界で祝福することは、多様性という言葉を置いてきぼりにする行為につながる。それを目指す人がいてもいい。しかし、それをしないからと言って排除するのは作品の意図から離れてしまう。

女子の中で圧倒的に多いのは「社長夫妻」の「内助の功」的なポジションを心地よく思う女子だ。ただ、中には職業としての社長業を狙って入学した生徒もいる。彼らは成長の途中でもあり、定型キャラの斜め上を行くこともしばしば。これからどうなるかはわからない。

もちろん、この学園の仕組み上、クィアなカップルはAIが判定しないし、おそらく入学できていないはずだ。なぜなら規則で「男女のカップル」と決まっているから。そして日本では戸籍上「男女」でないと婚姻届が出せないことになっているから、結果的には試験で落とされたのだろう。

これは翻ってみれば、そもそも現実の私たちも閉じられた空間にいるのだと体感していることでもある。折しも「変な校則」が槍玉に上がる今日この頃。作品の意図に関わらず、世の中の状況によって、そのようにすら読めてくる可能性がある。単純化したコラボの図式に当てはめることで、そのような可能性を外に追いやってしまう。

「異色作」の休載中のできごと

さらに、気になることがある。

去年まで、雑誌『りぼん』では『さよならミニスカート』が連載されていた。その主人公は元アイドル。握手会で見知らぬ男から切りつけられて引退後、身分を隠して地方都市に住んでいる。学校で一人だけスラックスの制服姿で通学して陰のある中性的な人物として通している。そこで起きるクラスメイトとの摩擦や恋愛を世の中の卑劣に抗いながら「女が生きていく世界」を考えさせられる事件が続くスリリングな展開だった。だが、2018年9月号から始まった連載は、2019年6月号を最後に休載している。

開始時には「異例」ずくめの話題作として盛り立てようとしていた。(*2)『ジャンプ+』で並行掲載をすることで読者が増え、手応えは大きかったはずだ。制作側も発言の機会が多かったと記憶している(*2)

しかし、それは対話ではなく分断を可視化するに留まり、結果的に休載されたまま1年以上が経過している。もちろん、休載の理由は関係者ではないのでわからない。しかし現実として休載の事実があり、強く推し出す後継作も特に見当たらない。現時点で、特に必要ないと思われているのだろう。そのような中で用意された企画なのである。

一方、その頃『ゼクシィ』は……

そもそも『ゼクシィ』は挙式と新生活に向けて必要な情報を掲載する、結婚に特化した広告媒体だ。しかし、この企業はほんの3年前に画期的な判断をしていた。

それは2017年のキャンペーンで採用されたコピーだ。

「結婚しなくても幸せになれるこの時代に、わたしは、あなたと結婚したいのです」

このキャッチコピーは男女を問わず共感を呼び、担当コピーライターがTCC新人最優秀賞も受賞し。いわゆる「大御所」と言われるクリエイターも唸った。ダイレクトな商品訴求ではなくて、時代の空気感に迫るもの。一見逆説的にもとらえられそうだが、これこそブランド訴求に寄与すると考えた決定に拍手がおくられた。クリエイティビティ的にも、世の中の反応も実りあるものだった。もちろん、このインタビュー(*3)でも述べられているように、世の中にある空気を汲み取った結果である。企業姿勢として多様性を追求するというものではない。

だからこそ、だったのだろう。今年のコピーは「幸せが、動き出したら。ゼクシィ」というもの。「やっぱり幸せは結婚するしかない」という反動的な動きであることは明白だ。つまり、世の中の空気がそのようになっていると読んだのである。やっぱり結婚至上主義になってもらわないと、困るのだ。

「女の子の味方」の正体

『ゼクシィ』と『りぼん』の揺らぎ方は相似形をなしている。それは両者が「女の子」に同じくらいの影響を与える力を持っているからだ。この揺らぎ方は「女の子」が置かれている状況を如実に表している。

そもそも『りぼん』はこれまでにも、多様なキャラクターや物語を生み出してきた。長い歴史を見てみれば、決して『さよならミニスカート』だけが異色なのではない。

しかし、外部から語られるのは「どれも同じに見える」「少女趣味」「凡庸」という景色である。その理由は明らかだ。『りぼん』の外側にいる者が「かくあるべき少女像」を抱いているからだ。読んでもいない作品に対しても、その眼差しが反映されている。

だからこそ、その視線は乱反射を生む。発信する側(この場合『りぼん』という媒体)「かくあるべき」と見られている世間の目に応えようとするほど「かくあるべき」という作品を多く作り出すことになる。そして素直な読み手が好意的に読む。結果的にそれが雑誌としてのアイデンティティを強固にしていく。

いみじくも、作者・牧野あおいへのインタビュー(*2)に世の中が求める「王道」が載っている。聞き手が最初に漏らしているように、〈読者層を考えると本来、「キラキラしたアイドルを目指す女の子の物語」が王道かと思〉われているのが実情だろう。一般的な(男性の)反応は、稲田氏の記事(*4)が代弁しているはずだ。作者が〈女の子が困難から立ち直る」が一つのテーマですが、男女の違いに悩んでいる子に対しても味方になりたい。〉と訴えるのと裏腹に、それさえも「女の子の味方」でありうる。

「ゼクシィをいそいそと買う女の子」は、ある意味で男性が「安全に思う女の子」だ。対極にあるのは、その前に「別姓がいい」「嫁?パートナーって呼びたいな」とサラッと言われたり、「結婚はできないけど、好き」と言われたりすることだろう。

20年代、明日はどっちだ

そもそも社会というものは、自分が思うようには回っていない。現在の社会は、数十年前と比べて、当然変わっているところもある。しかし、変革を望んでいる人が思うほどには、変わっていない。

つまり「変わっているはずだ」というのは思い込みなのである。旧い論理で世界を回している人と同じくらいの強度で。つまり、どちらも幻想を抱いている。残念ながら、どちらが強いのかと言えば、正しさではない。圧倒的にうまくやっている方が強い。特に不都合がないのであればなおさら、その傾向は止まらない。

それは良くないことだ。ただ、2019年の「あいちトリエンナーレ」やハッシュタグデモの顛末、偶発的に起きたCOVID-19の大流行、都知事選、そのようなことを思い出してほしい。正義を主張するだけでは分断を生むばかり。「まったく楽しくない」で終わってしまう。だから結局多くの人が、楽な方へ、怒らないで済む方を選ぶ。

ここ数カ月、非常時だからと、結婚願望が高まったり、ペットを飼う人が増えたりしたそうだ。その裏返しとして、#StayHomeで恐怖が増したり、中高生の妊娠が増えたり、譲渡会が開かれなかったり、という弊害もあるのだが、やはり人は暗いニュースよりも幸せな報せに興味がある。

さらに、突然槍玉に上げられた彼らはなぜか、上段から手を差し伸べる術を持っている。「疲れていませんか?」と語りかける。ここで不思議なのは、マイノリティの側から同じことを言われるても、気分を逆撫でされた経験をすぐに忘れてしまうことだ。

しかし、やはりうまくいく方が強い。これまで通りにその手を握ることは、一定の安心材料でもある。つまりこの企画は「やさしさ」でできている。ちょうど今、#MeTooやエンパワーメント、多様性といった概念でターゲットにされた人の側も疲れている。そして怒るのも正直、疲れる。

繰り返しになるが、楽な方へ人は流れるものだ。ということは、つまり……「楽なこと」と思われなければ、いくら正しくても、多くの人を動かせない。それでは世界を少しでも変わらない。怒るために怒っているのではない。笑うために、わたしたちは怒るのだ。それはできるだけ、忘れずにいたい。

今回のコラボ企画は警戒すべき点が多いのも事実だ。しかし『初×婚』という作品は、そんなことも杞憂に終わらせてくれる作品になる可能性がある。この表現が20年代を象徴する表象になるかどうか。わたしたちは今、その分水嶺に立ち会っている。


*
1
http://ribon.shueisha.co.jp/rensai/uikon/

*2
https://www.cinra.net/column/201903-sayonaraminiskirt

*3
https://www.advertimes.com/20171207/article262533/

*4
https://www.premiumcyzo.com/modules/member/2019/09/post_9511/

「わたし、小池百合子かも」と思ったら負け。

先日、『女帝 小池百合子』に関する書評をnoteに載せた。フェミニズムからの応答があまり見られないことの違和感とともに記したものだ。

https://note.com/spicyjam/n/n5cbd53514e70

しかし今日は「この本について思ったこと」を素直に書いてみる。

正直に告白すれば、わたしが「小池百合子」になっていたかもしれない……などと思ったのだ。

実のところこの本は都民のとある層に対する猛アピールになったはずだ。なぜなら、彼女が「生粋のお嬢様」ではないことが多くの人の知るところになったから。どうやら都知事は、世の中のことを知らない「お嬢様」だから冷たいのではない。戦いに身を置くことにスリルを覚えるから、あのような発言をしているらしい。

この戦う姿勢は「レディース」に似ていやしないだろうか?根性でしのぎを削り、できるだけ目立とうとする。このやり方は「ヤンキー文化」そのものだ。もちろん都知事本人は、そんなことを言われたくないだろうけれど。

あえて言えば、高貴な感じ、聖人君主的な感じがしない。だからこそ彼女に引き寄せられてしまう。好意的なシンパシーではないかもしれない。しかし、類は友を捨てがたい。

Photo by Evie S. on Unsplash

告白しよう。かくいうわたしも、かつてそのような一人だった。都知事がエジプトに留学した理由を聞いてホッとした。当人の話す「戦略的な選択」が自身の状況と似ていたからだ。

もちろん、わたしはカイロ大に留学などしていない。国立大(二期校)の外国語学部でマイナー言語専攻である。これは、家庭の事情・学力を掛け合わせて、少しの興味を足した最適解としての進学だった(大人になった今では「お前の頭はお花畑か」と言いたいが)。それが第一志望だと言い聞かせ、周りにも嘘をつき、卒業後も、家庭の事情など言いたくないから適当にごまかしていた。

しかしこれも「戦略だったんです」と言えば、なんかすごく、いい感じの社会人に見えてくるから不思議なものだ。

そして今回、読めば読むほど、困ったことに相似点が増えていった。良好とはいえない生育環境、生まれつきの身体コンプレックス。似ていないのは「特に成功していない」ということぐらいかもしれない。

いや、しかし。本当はそうではない。そんな風に思ってしまうことがトラップなのだ。名ばかりの占い師が、何も見ていないうちから「ずっと気にかけていることがありますね。それを解く鍵をあなたは持っています」と語りかけるようなもの。それこそ、ポピュリズムの思うツボである。

まず、進路について。多かれ少なかれ、ほとんどの人にとって、進路の選択は、常に現実的な問題がつきまとう。小学校・中学校・高校と卒業式を重ねるごとに、夢を語るよりも現実が幅を利かせてくる。

わたし自身の入学当時も「どうしてもこの言語をやりたい」と思ってきた人はかなり少なかった(教官からして「本当は東大に入りたかった」と言ってる始末)。要するに、進学の動機なんていろいろあるし、そこまで、目くじらたてるほどのことではない。都知事は、まったく普通の人なのだ。

他のことも同じだ。外見にしても、出自や環境にしても、自慢できない身内にしても……多くの人にとって、ひとつやふたつ、思い当たるフシがあるだろう。それは電車の車内広告を見ればわかる。エステ、脱毛、整形、語学、婚活、これらは「コロナ禍」においても「鉄板ジャンル」として群雄割拠している。

つまりは、本人に共感性があるかどうかは、共感を得られるかどうかとは、あまり関係がない。大事なのは都民が都知事に共感するかどうかだ。都知事の振る舞いが受け入れられれば、当然のことながら支持率は変わる。マスに共感されれば、支持は固くなるのだ。

何の因果か、この間の都知事選で小池百合子の得票率が極めて高かったのは、東京都の中でも「低所得」の住民が多く住む地域だった。ここで市区町村ごとの得票率を見ることができる。

https://www.asahi.com/senkyo/tochijisen/

また、下記では平均年収を見ることができる。

https://sumaity.com/town/ranking/tokyo/income/

皆まで言わないが、そこはかとなく感じることがあるだろう。

もしからしたら、ひと頃言われた「マイルドヤンキー」的な文化とも関係があるかもしれない。でもそれは、果たして笑って済ますことができるだろうか? 社会全体がそのような仕組みをまわしているのだから。

現に都知事は、弱者への配慮がなくても、発信力があると評価されて当選した。

https://www.nhk.or.jp/senkyo/opinion-polls/02/

それは、東京のみならず日本の社会で求められていることだからだ。

この数十年あまりにわたり、この社会が築いてきた社会は、そういうものだ。

自分にとって得になることを優先して声を上げる。客観的に見れば社会的弱者だとしても、自らを弱者と思わずに、さらに弱いものを虐げる。だから弱者への共感など不要である。そして、やましいことをしても人当たりが良ければ問題ないし、それぐらいが人間味があっていい。まさしくヤンキー文化なのだ。

投票率が上がれば都知事は別の人になっただろうか?そうではない。むしろ、投票率をあげるだけこの数字は増えてくるかもしれない。

生まれが恵まれない人が全員、ミシェル・オバマの手記を読んで触発されるのではない。一度憧れても、なかなかたどり着けないものだ。そこで挫折したときに襲われるむなしさが、ポピュリズムをいっそう危うい方向に導いていく。

都知事選で言えば…「小池百合子」氏は「ウチら」になる可能性が感じられるが、有力対立候補は「ウチら」になる余地が見えなかったのではないか。ちょっとでもやましいことがある、誠実じゃない有権者に対して警戒感を抱かせる姿勢が感じ取れてしまったのは否めないと思う。

そして7/16、「GoToキャンペーン」に東京発着について除外することになった。

同日は昼過ぎに「東京の感染者数は286人」の発表をした都知事。

「排除」するのがとても好きな人だ。都知事は、一部の職種・業種を生殺し状態にしながら、排除している。このような視線を作り出しておいて、東京自らが全国から遠い目・白い目でみられているのは、ガッカリしているだろうか。

いや、おそらくこれで「都民を救った」と映るかもしれない(おそらく、東京を除外するための根回しはしているはず)。このようなことが選挙の対抗候補にできたのか?それが今、社会で生きるのに必要とされてる強さなのだ。

確かに虚無的な強さだ。しかし、そのようにしか生きるように求められているのが日本の社会。日本の「顔」とも言える東京であればなおさら、その気配は濃厚になる。

少し前まで問題になっていた荒れる成人式の根本は、若者の愚かさではない。社会の不具合だ。「今が人生の頂点、あとはドン底が待ってるから、やるなら今!」と新成人が思ってしまうのは、彼ら自身だけの問題ではないはずだ。

いわゆるリベラルな考えを持った人は、そうした考えを失ってはいけない。GoToキャンペーンが東京を除外したとしても、それは決して「ハッシュタグデモをしたから東京が除外された」わけではない。それを勘違いしたら、ずっとボタンを掛け違えたまま。何も変わらないだろう。

それと同時に「小池百合子になったかもしれない自分」を呪っていても、一歩も進めない。そんなことに思い悩んでいたら「負け」だ。そうとわかれば、もう負け続けることに付き合うヒマはない。あなただって同じはずだ。

目覚める前に、休め。/『新しい目の旅立ち』

コロナ禍とか、五輪とか、いろいろなニュースに目を覆いたくなる日々が続いている。しかし同時にわたしたちは、覆ったはずの手、その隙間から見てしまう。見たくないというのは口実なのか? いや違う。見たくないという気持ちに、恐怖が勝ってしまうのだ。遅れてしまうことは、現代では社会的な死を意味している。

そんなわたしたちに必要なのが『新しい目の旅立ち』である。なぜなら、その目を休めることができるから。

この本は【タイ文学】だが、タイのことを知らなくても問題ない。むしろ、タイの本ではない。「マッサマンカレー」や「コップンカー」、「象」の世界を期待したら損である(もっとも、タイに生きる作家の書いたものだから、まったく関係ないとは言えないのだが)。タイの現代文学者が旅先のフィリピンで遭遇した出会いを内的にまとめたものだ。広い意味で言えば、随筆や旅行記ともとれるだろう。

作家プラープダー・ユンはフィリピンの「シキホール」という島を訪れる。その島はフィリピンの都市部では「黒魔術の島」と呼ばれている。ここで彼は自然と一体化することを追求するつもりだったのだ。しかし、その目論見は、思いがけぬ方向に転回していく。

哲学者や思想家の名前がたくさん出てくる。世界があるとかないとか、そんな大きいことは言っていない。同時に、ビジネスは哲学であるとか、狭いことを言っているわけでもない。もっと「人」の根本に立ち返ることができる本である。

繰り返しになるが、タイ文学がどんなものかわからなくても問題ない。「外国文学」と聞いて身構えてしまう人にこそ読んでほしい。日本語で最初から書かれているような感覚で読めるはず(おそらく翻訳にあたって気をつけたのだろう)。

特におすすめなのは「田舎暮らし、いいなぁ、憧れるなぁ」と口に漏らす人。都市で暮らす人なら、一度は口にしたことがあるだろう。この本に書いてある感覚が共有できるはず。目を休めたら、見えてくるものがある。

これは休息ということだけではない。目を逸らす、目をつむる。目は放っておくと、真正面を向いてしまうから、意識的にいろいろなところに向けてみる。過去、未来、後ろ、横、見えそうにない彼方とか。

本の性格上、章ごとにベッドで毎晩読んでみるのもよいだろう。たとえば、スマートフォンの代わりに。一気に読んでしまうことだけが、正しいのではない。

さらには、そうして見えてきた結果が、心地よいものではない可能性もある。自分の欲望とか。捨てきれない炎とか。休めることがいいこととは限らないのだ。

それでも、外からの情報を基準にすることで、どんどん自分のピントがズレてしまうことのほうが、ほんとうは怖い。情報から取り残されない代わりに、自分自身を生贄に差し出している、とも言えるのかもしれない。

ちなみに、作者自身が都会者であること、この記事を書いているわたしが東京圏以外で住んだことがない(普通免許を持っていないということで察してください)ので、このような書きかたになってしまった。田舎暮らしの人の感想も聞いてみたいと思っている。

さて、補足になるが、彼の来歴には、舌を巻くほかない。ほぼ少女マンガの「憧れの人」だ。ルッキズムはよくないと思いつつ、「ユン様」と言ってしまいたくなる。

1976年、タイの「メディア王」である父とファッション雑誌編集長の母の下に生まれ、中学を終えると渡米。アートを修めると帰国し、映画批評や短編小説を発表していく。1990年代後半に盛り上がったタイのカルチャーシーンの中心人物に。少々あざとさも感じる(しかし正真正銘の)バックボーンの彼が描く都市生活者の人間関係は、ポストモダン小説として熱狂的なファンを生む。そして2002年の短編集『可能性』は東南アジア文学賞を受賞し、世界文学のなかで【タイ現代文学】が「発見」された。

これは私見だけれども、タイの人にとってみれば、村上春樹に似た受容のされ方があるのかもしれない。

彼のほかの文章も読んでみたいと思った。

(↓amazonのページに飛びます)

最後に。いま、もしも大切な人にプレゼントするなら、この本だ。絵本以外で、そんな風に感じたのは初めてだ。大切な人にこそきちんと伝えておきたいことが、さりげなく伝えられる気がする。それは「わたしとあなたは違う、個である」ということ。本書の装丁のように、さりげなく、凛とした佇まいで、相手に伝えられたらいいなと思う。もちろん、それを「感じ取ってもらいたい」という思い込みもまた、横暴なのだけれども。

「ひらめき☆マンガ教室」提出課題へのコメント集【随時更新】

突然ですが。このポストで書いたように、「ひらめき☆マンガ教室」に通い始めました。

そこで、提出課題へのコメントをnoteで投稿しています。どうしてnoteかと言えば、検索性も高まるし、通りすがりの人も怪しまないと思うんですよね。

これらのコメントは個人的な見解だけ載せています。基本的には「最初の読者」としての感想です。わたしは講師ではなく、描き手にとって参考になるとすれば、ただただ「第3の視点」ということに尽きると思います。

他の人はどう感じたのか、ということにも興味があるので、何かあればレスポンスいただけるとうれしいです。

UPしたら下記にまとめていく予定です(マガジン機能がいまいち使いこなせていない説あり……)。よろしくどうぞ!

課題5への感想

課題4への感想

課題3ネームへの感想

課題2ネームへの感想

課題1ネームへの感想

身体を操る作法、その境界線/劇団ダンサーズ『動員挿話』

はじめに

劇団ダンサーズ『動員挿話』@SCOOL

劇団ダンサーズは、「ダンス作戦会議」のメンバーが中心となって、「ダンサーが演劇をすること」を行うプロジェクト。この旗揚げ公演は、静かながら大きな衝撃を与えるものだった。

演劇として演劇を実践する劇団ダンサーズ、旗揚げ公演は岸田國士「動員挿話」 – ステージナタリー

『動員挿話』は岸田國士の戯曲。舞台は日露戦争が始まった明治三十七年の東京。出征命令が下った将校の邸宅で起きる、静かで不穏な心理の応酬だ。あらすじとしては、将校の出征にあわせて、彼に仕える馬丁も従軍したいのに、馬丁の妻が首を縦に振らず、その顛末を描くもの。戯曲自体は青空文庫でも読める。

岸田國士 動員挿話(二幕)/青空文庫

なぜ、『動員挿話』か

作品の中で、この馬丁の妻は狂気のカタマリとして描かれる。その彼女のひととなりを乱暴に一言で言えば「美人すぎるインテリメンヘラ」だろうか。女学校出身で浪漫派に染まったとおぼしき、個人主義の人。過去の経験から夫に対する独占欲が強すぎる面があり、正論ではっきりと物を言う人。おそらく当時は、相当な狂いっぷりだったと思われたに違いない。岸田國士は、それが美しいと思ったのかもしれないが、その判断は演出に委ねられている。その判断基準を宙吊りにしたおかげで「だから女に教育はするな」という根拠にもなりかねない。というよりも、そういう論調が多い世の中で、岸田國士は、かえって自身の立場を強固なものにしたはずだ。

そう考えると、なぜ今、岸田國士を上演するのか? という問いも立てられるかもしれない。ただ、今回の劇団ダンサーズにおける岸田國士とは、時代を代表する記号として選ばれていた。このプロジェクトは、近代演劇を年代順にやっていきたいという試みでもあるからだ。

しかし、おそらくは『動員挿話』を選んだことには意味がある。やたらと令和の改元で祝賀ムードが加熱した日本において。アメリカから大統領が国賓として来るからと言って物々しい警備が敷かれた東京において。

しかし、これをむやみに「反戦」とくくると見失ってしまう。そういうものも含めて、世間やムードに取り込まれる社会に対してのアンチテーゼなのだ。思わず、個人の身体は表現してしまう。実は、舞台で本音をもらすのは、馬丁の妻だけではない。社会の空気に対して、思わず口にしてしまう言葉、仕草、その感情表現すら、本当は身体の一部なのだから。

演劇とダンスの間で揺らぐ

この作品は、『動員挿話』をダンス作品として上演するのではない。ミュージカルでもなく、ダイアローグを交わしながら踊るというのでもない。演者は、あくまでも演技をしている。そこには、SEはあるが、音楽はない。役者として、会話を紡いでいく。

岸田國士の美しい言葉を活かす、抑揚を抑えた発話と、ダンサーの仕草が交わるところにある表現。それは今までに見たことのない芝居だった。

その様子を観ていると、芝居とダンスの生まれた瞬間を想像してしまう。日常の何気ない仕草が、芝居になり、ダンスになる。その違いは、どこにあるのだろうか? と。

ところで、ダンサーが物語を踊るのは、特に珍しいものではない。誰もが知っているクラシックバレエの演目を思い浮かべればわかりやすいはずだ(たとえば『白鳥の湖』)。その流れはコンテンポラリーダンスにあっても絶えたのではない。人によって解釈の違いはあるにせよ、感情と身体をリンクさせることは、オーソドックスな方法である。

私が観た5/25(土)には、告知としてアフタートークは無かったのだけれども、観客と演者のアフタートークがセッティングされていて、その辺りの肌触りを確かめることができた。

おそらく、ダンサーから演劇を捉えたとき、そこまで壁はないのだと思う。発話も身体表現の一部だと思えば、落差が「なさそう」に見えるから。今回の演じ手も、思っていたのとやるのは大違いだったという感想を一様に述べていた。(比べるのもおこがましいが、かくいう私も似たような経験がある…)

しかし、観客席にいた宮沢章夫さんが仰っていた言葉で、自分の当たり前は他人の非常識だというクリエイションの基本を思い出した。「ダンサーの人が集まって何かをしようしたときに、それが演劇である理由がわからない」そして「俳優が数人集まってもダンスしようとは思わないだろう」といったこと。これは、なかなか衝撃的な指摘だった。

そして、演者の側からは「生身の自分」が思っていないことを発話することとの擦り合わせの話も出た。このような、身体をどのように使うのかを突き詰めていくアプローチを聞けば、ともするとロボット演劇を思い出すかもしれない。

しかし、そういうことではないのだ。

この舞台では、発話するセリフが音楽になり、身体がリズムを刻んでいた。セリフから身体の動きが引き出される、その意味では演劇だろう。しかしリズムにあわせて身体が動いてしまうという点では、それはまた、ダンスでもあるということだ。群舞の1つの形態を見た、とも言える。この二重性、そしてその境界が曖昧であること。それが故に覚える浮遊感。静かにさざ波を立てる作品である。

このプロジェクトで心がざわめくのは、とにかく自分が「当たり前」だと思っていたことが揺らぐからだ。宮沢さんの指摘は、それを如実に表している。

だから、目が離せない

劇団ダンサーズとしての活動は、今後、時代順での上演を構想しているという。一説には、唐十郎までやるとか。それが現代にまでやってきたとき、ダンスと演劇との融合が見られるかもしれない。同時に、さらに裂け目が大きくなるのを見れるかもしれない。

その揺らぎを作り出す劇団ダンサーズがどう変わっていくのか? 今後の展開が気になるプロジェクトだ。