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「わたし、小池百合子かも」と思ったら負け。

先日、『女帝 小池百合子』に関する書評をnoteに載せた。フェミニズムからの応答があまり見られないことの違和感とともに記したものだ。

https://note.com/spicyjam/n/n5cbd53514e70

しかし今日は「この本について思ったこと」を素直に書いてみる。

正直に告白すれば、わたしが「小池百合子」になっていたかもしれない……などと思ったのだ。

実のところこの本は都民のとある層に対する猛アピールになったはずだ。なぜなら、彼女が「生粋のお嬢様」ではないことが多くの人の知るところになったから。どうやら都知事は、世の中のことを知らない「お嬢様」だから冷たいのではない。戦いに身を置くことにスリルを覚えるから、あのような発言をしているらしい。

この戦う姿勢は「レディース」に似ていやしないだろうか?根性でしのぎを削り、できるだけ目立とうとする。このやり方は「ヤンキー文化」そのものだ。もちろん都知事本人は、そんなことを言われたくないだろうけれど。

あえて言えば、高貴な感じ、聖人君主的な感じがしない。だからこそ彼女に引き寄せられてしまう。好意的なシンパシーではないかもしれない。しかし、類は友を捨てがたい。

Photo by Evie S. on Unsplash

告白しよう。かくいうわたしも、かつてそのような一人だった。都知事がエジプトに留学した理由を聞いてホッとした。当人の話す「戦略的な選択」が自身の状況と似ていたからだ。

もちろん、わたしはカイロ大に留学などしていない。国立大(二期校)の外国語学部でマイナー言語専攻である。これは、家庭の事情・学力を掛け合わせて、少しの興味を足した最適解としての進学だった(大人になった今では「お前の頭はお花畑か」と言いたいが)。それが第一志望だと言い聞かせ、周りにも嘘をつき、卒業後も、家庭の事情など言いたくないから適当にごまかしていた。

しかしこれも「戦略だったんです」と言えば、なんかすごく、いい感じの社会人に見えてくるから不思議なものだ。

そして今回、読めば読むほど、困ったことに相似点が増えていった。良好とはいえない生育環境、生まれつきの身体コンプレックス。似ていないのは「特に成功していない」ということぐらいかもしれない。

いや、しかし。本当はそうではない。そんな風に思ってしまうことがトラップなのだ。名ばかりの占い師が、何も見ていないうちから「ずっと気にかけていることがありますね。それを解く鍵をあなたは持っています」と語りかけるようなもの。それこそ、ポピュリズムの思うツボである。

まず、進路について。多かれ少なかれ、ほとんどの人にとって、進路の選択は、常に現実的な問題がつきまとう。小学校・中学校・高校と卒業式を重ねるごとに、夢を語るよりも現実が幅を利かせてくる。

わたし自身の入学当時も「どうしてもこの言語をやりたい」と思ってきた人はかなり少なかった(教官からして「本当は東大に入りたかった」と言ってる始末)。要するに、進学の動機なんていろいろあるし、そこまで、目くじらたてるほどのことではない。都知事は、まったく普通の人なのだ。

他のことも同じだ。外見にしても、出自や環境にしても、自慢できない身内にしても……多くの人にとって、ひとつやふたつ、思い当たるフシがあるだろう。それは電車の車内広告を見ればわかる。エステ、脱毛、整形、語学、婚活、これらは「コロナ禍」においても「鉄板ジャンル」として群雄割拠している。

つまりは、本人に共感性があるかどうかは、共感を得られるかどうかとは、あまり関係がない。大事なのは都民が都知事に共感するかどうかだ。都知事の振る舞いが受け入れられれば、当然のことながら支持率は変わる。マスに共感されれば、支持は固くなるのだ。

何の因果か、この間の都知事選で小池百合子の得票率が極めて高かったのは、東京都の中でも「低所得」の住民が多く住む地域だった。ここで市区町村ごとの得票率を見ることができる。

https://www.asahi.com/senkyo/tochijisen/

また、下記では平均年収を見ることができる。

https://sumaity.com/town/ranking/tokyo/income/

皆まで言わないが、そこはかとなく感じることがあるだろう。

もしからしたら、ひと頃言われた「マイルドヤンキー」的な文化とも関係があるかもしれない。でもそれは、果たして笑って済ますことができるだろうか? 社会全体がそのような仕組みをまわしているのだから。

現に都知事は、弱者への配慮がなくても、発信力があると評価されて当選した。

https://www.nhk.or.jp/senkyo/opinion-polls/02/

それは、東京のみならず日本の社会で求められていることだからだ。

この数十年あまりにわたり、この社会が築いてきた社会は、そういうものだ。

自分にとって得になることを優先して声を上げる。客観的に見れば社会的弱者だとしても、自らを弱者と思わずに、さらに弱いものを虐げる。だから弱者への共感など不要である。そして、やましいことをしても人当たりが良ければ問題ないし、それぐらいが人間味があっていい。まさしくヤンキー文化なのだ。

投票率が上がれば都知事は別の人になっただろうか?そうではない。むしろ、投票率をあげるだけこの数字は増えてくるかもしれない。

生まれが恵まれない人が全員、ミシェル・オバマの手記を読んで触発されるのではない。一度憧れても、なかなかたどり着けないものだ。そこで挫折したときに襲われるむなしさが、ポピュリズムをいっそう危うい方向に導いていく。

都知事選で言えば…「小池百合子」氏は「ウチら」になる可能性が感じられるが、有力対立候補は「ウチら」になる余地が見えなかったのではないか。ちょっとでもやましいことがある、誠実じゃない有権者に対して警戒感を抱かせる姿勢が感じ取れてしまったのは否めないと思う。

そして7/16、「GoToキャンペーン」に東京発着について除外することになった。

同日は昼過ぎに「東京の感染者数は286人」の発表をした都知事。

「排除」するのがとても好きな人だ。都知事は、一部の職種・業種を生殺し状態にしながら、排除している。このような視線を作り出しておいて、東京自らが全国から遠い目・白い目でみられているのは、ガッカリしているだろうか。

いや、おそらくこれで「都民を救った」と映るかもしれない(おそらく、東京を除外するための根回しはしているはず)。このようなことが選挙の対抗候補にできたのか?それが今、社会で生きるのに必要とされてる強さなのだ。

確かに虚無的な強さだ。しかし、そのようにしか生きるように求められているのが日本の社会。日本の「顔」とも言える東京であればなおさら、その気配は濃厚になる。

少し前まで問題になっていた荒れる成人式の根本は、若者の愚かさではない。社会の不具合だ。「今が人生の頂点、あとはドン底が待ってるから、やるなら今!」と新成人が思ってしまうのは、彼ら自身だけの問題ではないはずだ。

いわゆるリベラルな考えを持った人は、そうした考えを失ってはいけない。GoToキャンペーンが東京を除外したとしても、それは決して「ハッシュタグデモをしたから東京が除外された」わけではない。それを勘違いしたら、ずっとボタンを掛け違えたまま。何も変わらないだろう。

それと同時に「小池百合子になったかもしれない自分」を呪っていても、一歩も進めない。そんなことに思い悩んでいたら「負け」だ。そうとわかれば、もう負け続けることに付き合うヒマはない。あなただって同じはずだ。

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