身体を操る作法、その境界線/劇団ダンサーズ『動員挿話』
はじめに
劇団ダンサーズは、「ダンス作戦会議」のメンバーが中心となって、「ダンサーが演劇をすること」を行うプロジェクト。この旗揚げ公演は、静かながら大きな衝撃を与えるものだった。
演劇として演劇を実践する劇団ダンサーズ、旗揚げ公演は岸田國士「動員挿話」 – ステージナタリー
『動員挿話』は岸田國士の戯曲。舞台は日露戦争が始まった明治三十七年の東京。出征命令が下った将校の邸宅で起きる、静かで不穏な心理の応酬だ。あらすじとしては、将校の出征にあわせて、彼に仕える馬丁も従軍したいのに、馬丁の妻が首を縦に振らず、その顛末を描くもの。戯曲自体は青空文庫でも読める。
なぜ、『動員挿話』か
作品の中で、この馬丁の妻は狂気のカタマリとして描かれる。その彼女のひととなりを乱暴に一言で言えば「美人すぎるインテリメンヘラ」だろうか。女学校出身で浪漫派に染まったとおぼしき、個人主義の人。過去の経験から夫に対する独占欲が強すぎる面があり、正論ではっきりと物を言う人。おそらく当時は、相当な狂いっぷりだったと思われたに違いない。岸田國士は、それが美しいと思ったのかもしれないが、その判断は演出に委ねられている。その判断基準を宙吊りにしたおかげで「だから女に教育はするな」という根拠にもなりかねない。というよりも、そういう論調が多い世の中で、岸田國士は、かえって自身の立場を強固なものにしたはずだ。
そう考えると、なぜ今、岸田國士を上演するのか? という問いも立てられるかもしれない。ただ、今回の劇団ダンサーズにおける岸田國士とは、時代を代表する記号として選ばれていた。このプロジェクトは、近代演劇を年代順にやっていきたいという試みでもあるからだ。
しかし、おそらくは『動員挿話』を選んだことには意味がある。やたらと令和の改元で祝賀ムードが加熱した日本において。アメリカから大統領が国賓として来るからと言って物々しい警備が敷かれた東京において。
しかし、これをむやみに「反戦」とくくると見失ってしまう。そういうものも含めて、世間やムードに取り込まれる社会に対してのアンチテーゼなのだ。思わず、個人の身体は表現してしまう。実は、舞台で本音をもらすのは、馬丁の妻だけではない。社会の空気に対して、思わず口にしてしまう言葉、仕草、その感情表現すら、本当は身体の一部なのだから。
演劇とダンスの間で揺らぐ
この作品は、『動員挿話』をダンス作品として上演するのではない。ミュージカルでもなく、ダイアローグを交わしながら踊るというのでもない。演者は、あくまでも演技をしている。そこには、SEはあるが、音楽はない。役者として、会話を紡いでいく。
岸田國士の美しい言葉を活かす、抑揚を抑えた発話と、ダンサーの仕草が交わるところにある表現。それは今までに見たことのない芝居だった。
その様子を観ていると、芝居とダンスの生まれた瞬間を想像してしまう。日常の何気ない仕草が、芝居になり、ダンスになる。その違いは、どこにあるのだろうか? と。
ところで、ダンサーが物語を踊るのは、特に珍しいものではない。誰もが知っているクラシックバレエの演目を思い浮かべればわかりやすいはずだ(たとえば『白鳥の湖』)。その流れはコンテンポラリーダンスにあっても絶えたのではない。人によって解釈の違いはあるにせよ、感情と身体をリンクさせることは、オーソドックスな方法である。
私が観た5/25(土)には、告知としてアフタートークは無かったのだけれども、観客と演者のアフタートークがセッティングされていて、その辺りの肌触りを確かめることができた。
おそらく、ダンサーから演劇を捉えたとき、そこまで壁はないのだと思う。発話も身体表現の一部だと思えば、落差が「なさそう」に見えるから。今回の演じ手も、思っていたのとやるのは大違いだったという感想を一様に述べていた。(比べるのもおこがましいが、かくいう私も似たような経験がある…)
しかし、観客席にいた宮沢章夫さんが仰っていた言葉で、自分の当たり前は他人の非常識だというクリエイションの基本を思い出した。「ダンサーの人が集まって何かをしようしたときに、それが演劇である理由がわからない」そして「俳優が数人集まってもダンスしようとは思わないだろう」といったこと。これは、なかなか衝撃的な指摘だった。
そして、演者の側からは「生身の自分」が思っていないことを発話することとの擦り合わせの話も出た。このような、身体をどのように使うのかを突き詰めていくアプローチを聞けば、ともするとロボット演劇を思い出すかもしれない。
しかし、そういうことではないのだ。
この舞台では、発話するセリフが音楽になり、身体がリズムを刻んでいた。セリフから身体の動きが引き出される、その意味では演劇だろう。しかしリズムにあわせて身体が動いてしまうという点では、それはまた、ダンスでもあるということだ。群舞の1つの形態を見た、とも言える。この二重性、そしてその境界が曖昧であること。それが故に覚える浮遊感。静かにさざ波を立てる作品である。
このプロジェクトで心がざわめくのは、とにかく自分が「当たり前」だと思っていたことが揺らぐからだ。宮沢さんの指摘は、それを如実に表している。
だから、目が離せない
劇団ダンサーズとしての活動は、今後、時代順での上演を構想しているという。一説には、唐十郎までやるとか。それが現代にまでやってきたとき、ダンスと演劇との融合が見られるかもしれない。同時に、さらに裂け目が大きくなるのを見れるかもしれない。
その揺らぎを作り出す劇団ダンサーズがどう変わっていくのか? 今後の展開が気になるプロジェクトだ。