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終わりゆくものを見守る日曜日

Photo by David Nitschke on Unsplash

この8月末で、数年前に通っていた「批評再生塾」という私塾のサイトが閉鎖される。先週の木曜日、初めて長時間のspace(Twitterの音声機能)でそのことについて話をしていた。講座で聴講生をしていたマリコムさんとトークをした内容は、追って文字として残しておく予定だ。

これは、話をするためのネタにしたかったのではないし、感傷に浸りたいわけではない。すぐに「なかったこと」として忘れ去られるのが嫌だからだ。

8月頭、スクールから閉鎖のお知らせが届いた。そのメールを読みながら、わたしはスタバで「沖縄 かりー ちんすこう バニラ キャラメル フラペチーノ®」をストローで吸っていた。とてもおいしくて、一口飲むごとに消えていくのは切なかった。そして、飲み進めるうちに氷で薄まるフラペチーノのように、「批評再生塾」の存在も、記憶から薄れていくのかもしれないとも思った。すぐに完売になってしまった夏の思い出。「ちんフラ」という略称に反応している阿呆な声も見かけたが、それぐらいではやし立てるなんて、嘆かわしい。しかし、それさえも簡単に、年末には忘れているだろう。

https://product.starbucks.co.jp/beverage/frappuccino/4524785513730/

なぜ忘れ去ってしまうことに抗おうとするのか。きっとそれは、昔できなかったことへの穴埋めのようなものだ。

学派や論壇の組織はいろいろに生まれては引き継がれ、新しいものが生まれていくが、それはまるでバンドの変遷を見ているようだ。それを思うと、うかうかとしていられないと思った。このままだと何も、痕跡がなくなってしまうだろう。

多くの人が「バンドの変遷」と聞いて思い浮かぶのは、いわゆるV系などのジャンル別系統図だろうか。当然だが、それは誰かが描いているものだ。そのように書き留められる術を持たない(または拒否する)バンドはどうなるだろうか? 答えは簡単だ。ただ、忘れ去られるのみ。

世の中には、かつて少なくない人々を熱狂させたが、記憶が街の中に埋もれているバンドが数多く存在する。その規模は、毎月全国のどこかで、数百人・あるいは2000人程度のライブハウスを満員にさせるような、という程度に「少なくない人々」である。そんな熱狂を生んだバンドが、公式サイトの閉鎖・ドメイン切れ、ファンサイトの管理人の逃亡・更新停止などが続くだけで、存在自体が無いことにされてしまう。WWW上にある世界が全てではないのに、いつからか、人は検索されないものの存在を信じられなくなっている。口伝だけでは、心もとない時代が到来している。

たしかに、すべて万事あるがままに、そっくり保存するなど不可能だ。事実をただ保存しても、真実は人によって変わる。過ちも善いことも、何もなかったかのように装ううちに、それが真実になるかもしれない。けれども、自分が何かを残しておけば、振り返った時に何もなくなっている状況には陥らない。かつてわたしは、くだらない私情を理由に、解散・活動休止したバンドやアーティストの存在を書き留めたライブレポートをおざなりに扱った。後からそれらの資料をどこかで探そうとしたときに、たいへん困る。本当に存在自体が消失しているも同然だ。そんなはずはないのに。

勝手にアーカイブしたいと思ったのは、そのことへの「贖罪」でもある。もちろん、スクールの卒業生・修了生の目の前には未来があり、過去に縛られる必要もない。しかしながら「無」に近い状態するのを放っておくのも、まるで同じことの繰り返しだ。たしかに歴史は繰り返す。しかし、もがいた痕跡を残しておきたい。やはり歴史が繰り返すとしたら、きっと自分は再び狼狽するだろうから。

R.I.P と書きながら前に進む

Photo by Matt Senior on Unsplash

noteはボチボチ書いていたけど、数ヶ月の間、こちらを更新していなかった。理由は、ただのサボりではない。下書きにしておいたある人への応答が書きかけで、そのまま急逝してしまったからだ。その記事は、もう届かない。

投稿画面の一覧に表示される、そのタイトルが辛くて、乗り越えるのに時間がかかってしまった。

久しぶりに、身近に訪れた死だったのと、最後に会ったのが画面越しだったことで、気持ちの整理がつかなかったのかもしれない。

20代前後は周りでどんどん誰かが亡くなっていった。だから、「30まで生きるわけがない」と信じていた。サブカル気質(というより当時は相当に重症)だったことも相まって、まさか40過ぎても惨めなまま生きているなんて、夢にも思わなかった。

しかしこれでは祖母の口癖と同じになってしまう。祖母は「わたしゃもうすぐ死ぬんだから」と言いながら30年以上生きた。同じ轍を踏んでしまうので、もういくつまで生きてもいいやと思うことにした。

これから年を重ねれば、こういうこともまた増えていくだろう。胸に刻んで生きていくしかない。

そして今週末は、その人と最後にコンタクトをとったオンラインイベントの2022年版に参加する。予定を確認するたびに「あぁそういえば……」と思い出すことで向き合えたというか、自分の中で踏ん切りがついたようで、「投稿リストを更新してもいいや」という気持ちが自然と芽生えた。

なぜか胸に去来したのは川村結花の「Here there」という曲だ。「忘れないから思い出さない」という一節は、もしかしたら意地を張りながら前に進まないといけない時もある、そんなことをふまえた唄なのかもしれない。初めて聴いた20代前半には思いもよらなかったことだけど。

https://music.youtube.com/watch?v=-j5oUB9Afog

これも補完計画

エヴァの終わりを見届けたら、正気に戻れた気がしています。気のせいかもしれないけど……。というか、気のせいだと思う。

わたしの状態はさておき、通勤中に立ち寄りました。秋葉原コンコース内に出店中の「EVA STORE LIMITED」です。

映画公開にあわせて各所で出店していますが、もともとJR東日本で開催予定だったスタンプラリーの賞品がお買い上げ500円以上でもらえる(1000円以上なら全駅達成の賞品も!)という企画も実施中です。

2ヶ月以上、Twitterもロクに見ていなかった情弱ぶりで、通りかかって知ったのですが、すごいホスピタリティ。じゃなくて。

こんな大盤振る舞いを見ると、どれだけの人が訪れる予定だったのかと思うと、失ったものの大きさに目眩がする。

とはいえ、どういう形であれ、届けることができるのは、不幸中の幸いとしか言いようがない。わたしは昨年からずっと「実施するはずだったもの」に関する納品が続いたり、色々あって心が折れていました。

これもひとつの「補完計画」か……いや。そんなつまらないことはどうでもいい。いずれにしても、可能性を最後まで捨てないって大切。

お前は何を買ったのかといえば、こちら!なんの変哲もないキーチャームです。

先日、ついにPASMOを紛失したので(むしろ、今までなくさなかったのは奇跡に近かったのだ……)、このままでは鍵がヤバイなと思っていたので渡りに船。いくらなんでも、これならなくさないだろうし。昔のホテルのキーみたいなアクリル感が良い。

何より、どんなに帰りなくない日でも、家の鍵を開ける時に気分が昂揚しそう。

2021年にやること、やらないこと

おひさしぶりです。香野です。

諸事情がありまして、ここ最近、やや「ヤミ」気味に生活をしていました。

そのうちセルフネグレクトのドキュメンタリーに出られるかもな……と思ったほど。まぁ詳しくはどこかで。

ペットボトルの始末を大晦日に終えて、どうにか人として生きられるようになりました。本当によかった。

2020年を振り返ると、COVID-19のおかげで狂ってしまったこともたくさんあったけど、とにかくやれることを詰め込んだ1年でした。

「こなす」ことで手いっぱいになってしまった感じがあるので、2021年は、ひとつひとつに向き合っていきたい。

心境の変化としては「自分にとってどうでもいいこと」をハッキリとさせることができた。これが大きい。「大切なこと」は分かっていても、その逆ってなかなか難しい。どうでもいいことに悩まされる時間を極力減らしたら、もっと大切なことに充てられるので。

「え、フツーでしょ?」「頭悪いのでは?」……思われても仕方ないです。まぁ、人としてダメな部類なので。

ゆく年くる年モードで振り返ると……

2020年代が本格的に始まっている中で感じるのは、90年代カルチャーが妙な形で復権している違和感です。パッケージ化しやすいエッセンスだけ抜き出されている。その割にはゼロ年代が飛ばされて、いきなり東日本大震災以後の世界が立ち上がっている。そんなはずないのにね。

というようなことは、2021年もちゃんと書いておきたいと思います。

Photo by Moritz Knöringer on Unsplash

珍しく組織論とか考えてる

乗っているのがモロい舟でも、よく知らないが頑丈な物質で覆われているので、航行に支障はない。助けてくれた人もいるし、悪い人ばかりではないと思うと、出ていくことがなかなかできない。手塩にかけてきた愛着もある。さらに、別の船や島が見つかるかどうか不安だから。

ただ、やはり海には嵐も起こる。そのときに舟の中での様子が大切なのだと思う。ここで方向性に決定的な違いがあると、船員は脱出を図るだろう。

今回、新型コロナウイルスへの対応によって、イメージの命運が分かれてしまったのは、政治の問題だけではない。組織のリーダーの覚悟が透けて見えてしまった。航海を経済活動になぞらえれば、いま起きているのは嵐と同じだ。いや……むしろ、病が感染しているのは異常気象と似ている。理由はわからないが毎日台風が来てるのに「出社しろ」と言うのと変わらないのだと思う。

本邦には中小企業がたくさんある。多くの場合、そこにあるのは「さほど潤沢ではないが会社がまわせる資金」と「平凡な市民」だ。社長や管理職でさえも、少々の野心があるが基本的には平和に人生を送りたい善良な人々である。それであれば、なおさら重要なのが組織の設計や組織が体現する思想やアイデンティティだ。

しかし、それができていないところがあまりにも多すぎる。もし語弊があるのであれば、こうも言い換えることができる。好印象を残しているのは、それができているところだけ、なのだ。

会社の歴史は関係なさそうだ。長い実績があってもなかなか社としての方針を出さないところがある。バブル崩壊もITバブルもリーマンショックも、東日本大震災さえ経験したのに。むしろ「震災の時も乗り越えたから大丈夫」という意識があるようだ。しかし、そういう人に限って具体的な方策も示さず、なぜ乗り越えられたかについては精神論しか語らない。リーダー的存在の発言に、今回は本当に、心からうんざりしている。ちなみに、これはひとつの企業を責めているわけではないので、悪しからず。

この短期間でショートするかどうかとは別のところで、既存の組織が壊れて社会がますます変化する流れが作られるのではないか。むしろ、新しく書き換わっていかないと、マズい。非常に危うい。まぁずっと変な国なんだけど。

折しも(4/5深夜)、先ほど「緊急事態宣言の【準備】に入る【見通し】」という謎のニュースが流れてきた。おそらく、この発表を受けて色々と準備に入る企業もあるのだろう。ため息しか出ない。しかし同時に、仕事があるのはありがたいこと。がんばります。

それにしても、みんながこんなに管理されたいとは思わなかったな。でも考えてみれば、管理されたい人が多いから、現状の学校や社会でうまくいってる人がマジョリティなんだね。わたしはできるだけ、死ぬまで抜け道を探していきたい。組織論とか考えてみたけど、社長には向いてなさそうだ。

「テレワークはいい」だけじゃない

三連休、いかがお過ごしだったでしょうか。

わたしは自宅にいざるを得なくて、いろいろと悩まされて仕事も進まず、ほとほと嫌になりました。明日からは仕事です。こういうとき、大人になるって便利だなと思います。でもおかげで、連休中にやるべきだったことに手をつけられてないってヒドい大人です。うーん、どうしよう。

もしも小学生のときに休校があったら、本当に希望が見えなかったかもしれない。そんな風に思う。いま苦しんでいる人たちに何もできず、不甲斐ない。

そんなわけでこの記事。

新型コロナで突然の長期休校 子どもを取り巻く別のリスクが見えてきた/朝日新聞GLOBE+

学校には、様々な理由で児童相談所がかかわっている子どももいます。長期休暇によって、家の中で子どもと親だけになり、子どもが逃れられないような環境になっていないか、すごく心配です。新型コロナも命にかかわることですが、家庭の中でも命にかかわることがあることを忘れてはいけないと思います。

この手の問題は、COVID-19でロックダウン状態になる他の国でも起きているようです。まぁ、そりゃそうだよね。親子のことだけじゃない。誰かの彼女も、誰かの彼氏も。誰かの配偶者も。

テレワークは自由も生むが、いいことばかりじゃない。組織や企業の課題とは別に、個人レベルでの問題も抱えている。(感染症禍がなければ、家以外のところでも場所は探しやすいけれども)

しかしテレワーク、実際どれぐらい導入されてるのだろう?

Twitterでは、だいぶテレワーク見かけるけれど、そうでもなさそう。なぜかと言えば、時差通勤したところで、たいして変わっていない気がするから。

すべての業種・職種がテレワークできるわけじゃないし、テレワークやクラウド的なコトが万能ってわけでもないのは忘れないでおきたい。究極的には、人間はリアルにモノを食べないと死んでしまうから!

蛇足ですが、ライブハウスがダメなら、満員の通勤電車は絶対にヤバいと思う。なぜならば個人的には「耳から音楽を聴いてライブハウスだと思えば、ギリギリ耐えられる(しかし毎日は、もうムリ)」だから。

当初、3/1の時点では(新型コロナウイルスの集団感染を防ぐために)、下記の3点が集団感染が起こりやすい共通点で避けるべき対象と言われていたのですが、今では「マスクしてしゃべらなければいい」みたいな雰囲気できてませんか。その条件は
1)換気が悪い
2)人が密に集まって過ごすような空間
3)不特定多数の人が接触するおそれが高い場所
…これって満員電車でしょ、どう見ても。

いま最新情報では(新型コロナウイルス感染症対策専門家会議「新型コロナウイルス感染症対策の状況分析・提言」2020年3月19日)、ちょっと違ってきています。
「①換気の悪い密閉空間、②人が密集している、③近距離での会話や発声が行われる、という3つの条件が同時に重なった場」は避けるのが望ましいが、行く必要がある場合は感染症対策をして行きましょう、ということになっている。
専門家会議の人に質問できるなら、なぜマイルドになったのか? ぜひ聞いてみたい。

あいつと、また会うなんて。

今朝、都合のよい夢を見ていた。懐かしい人が出てきた。笑っていた。こちらも笑った。「また会おうね」と言って別れた。すべて夢の話だ。

夢占いをする気など毛頭ないけれど、ここ2〜3年の自分の行動に似ていると思った。

「わたしのような者が読んでも書いても、世界は変わらない」と手を振って別れたはずの、人文系の本棚。書店に行くと、その前に立つ生活に戻りつつある。そして、文章を書こうとしている。「わたしのような者」とはつまり、研究者でもオタクでもない、何物にもなれない生き物のこと。

奨学金を返すためだけに就職をしたかっただけなのに、内定ゼロで卒業式とか。文章を書く仕事に就いたと思ったら、定型文が書けない愚か者とか。派遣切りに遭わないで済むと思ってたら編集長交代で逆転で派遣切りに遭うとか。体のサイズとか。まぁ何にせよ、基本的に「じゃない方」なのだ。世界の真ん中で何かを発表するのなんて向いているわけがない。

だがしかし、実際には、背を向けたからと言って特に何も生まなかったし、別に特段稼げるようになれたわけでもなかった。魂を売り渡すぐらいで富豪になれるのであれば、みんなとっくにそうしている。だったら、書き続ければよかったのかもしれない。すべてがもう、あとの祭りだけど。

収穫があるとすれば、物事を見る角度が拡がったということぐらいだ。「人には本を読む気力すらないほど疲れることがある」とか「アカデミックな人はウソをついているような感じがする」とか。そういう肌感覚が備わったことは、とてもよかった。まぁ、それぐらいである。どっちの側にも立てるということは、片方の側だけでもないということでも。だからたぶん、ベン図の重なりの中。

しかし今から思えば、そうした背中の気配を、精一杯追い払っていた。ある場所では「キャッチーすぎる」と言われ、また別の場所では「批評っぽい」と言われた。もちろん実力不足だってある。「突き抜けた遊び心」も「あられもない鋭さ」があれば、結果は違ったかもしれない。そう、中途半端なのだ。

この「どっちつかず」の優柔不断なところを変えたかった。けれども、最近思うのだ。それは要らないことだったらしい。たぶん、こういうことが「わたしにしか書けないもの」につながっている。

もちろん、夢のようには都合よくいかない。でも、もうわたしには「やれたかもしれない委員会」を開いている余裕はない。

・・・・・・と言いつつ、焦る日曜日の夜。

だがしかし、時間は等しく流れる。

わたしは会社で働いている。でも管理職ではない。部下もいない。そして「裁量労働制」の契約だ。だから、あえて言う。

けっして、死ぬまで働いてはいけない。しかしながら、それを防ぐには、労働時間だけを計測しても、あまり意味がない。苦痛な時間がただただ多過ぎる、それこそが問題なのだ。

こういうのは、本当にダメな働き方だと思う。いくらお金もらっても、我慢が可能な時間は上限が決まっている。アレルギー反応と同じようなものだ。

もちろん個人の意見です。でも、長時間仕事をすることが「=悪の権化」って単純にパターン化するのはやめた方がいい。

特に「なにかをつくる」仕事なら。時間をかければかけるほどいいとは限らないけど、天才と呼ばれる人ほど努力してるということを忘れて(見ないフリして)、自分の運のなさを嘆くのはカッコ悪い。

とはいえ、ほんとに体は大事です。わたしは風邪をひいたらすぐに休む奴です。(しかし意外と風邪をひかないのだ……)

突然なにを言い出すのかといえば。

いまやってる仕事で実感してるのです。苦手なことばかりをずっとやらざるを得ない状況。

同じだけの時間を過ごしても、「あぁ〜〜いつまでやればいんだろう〜〜〜意味ないのにこれ〜〜〜もう〜〜〜〜〜〜〜〜〜」って思いながらの仕事は、時間と関係なく、体力の奪われ具合がぜんぜん違う。

先週から、ほんの数時間なのに疲れ目に祟り目。「眼球痛い…なにこれ…変な病気かな…わたし死ぬの…?」となってしまった。(実際には眼精疲労)

「どうやって切り抜けようか」そればかりを考えているのだが、全然終わる気配がない。提出日に向けて、強行突破して早く駆け抜けるしかないようだ。続きは明日。ひゃーーーー。

ガチャ課金をやめられそうな、たったひとつの方法

某ゲームでガチャを回しすぎて、ダメだってわかってるんだけどやめられない、あぁもう、どーすんだこれ・・・・・・と思っていたところ、「秒」でやめられそうな方法に遭遇した。

その方法とは!

「開発会社の広報ブログを読む」

これに尽きる。

「え、それだけ?」って思うだろうか。いやいやどうして、みるみるうちに効果抜群のはず(2020年3月現在)。

そもそも、課金するのってキャラクターに惚れてるとか、手に入れたキャラと一緒にゲームで勝ちたいとか、そういう部分が多い。運営さんのことを思わないわけではないけど、それはまたどこかで「運営さん」という仮想体に身を委ねているのだと思う。

ただ、実際の開発現場の様子だとか会社運営の話は、そのキャラクターとは別のレイヤーにある、ものすごい現実だ。しかも代表の言ってることが「?」だったりすると、途端に萎えてくる。それが、移植されたり、キャラコンテンツを別会社から借りてるとかだったりすると、余計に疑念はふくらむ。

「ちょっと待て、わたしは、この人のビジネスプランを享受しているのだろうか…いや、ゲームは面白いからいいんだけど…いいんだけど…」

正直、ドン引く。それはまるで、大きい潮が引いていくかのような「ザザザーッ」という効果音付きで。

読みものとしては「あぁ、こうやって作られているのだな」とわかるので興味深く、貴重な機会でもある。スタートアップかくあるべし、的な。

とはいえ、こうした記事を載せることで、防止策をうってくるかもしれない。中の人が完全にキャラクター化して発言するとか。しかし、今日時点では、そこまで手が回っていない。新サービス投入、イベントのたびに繰り広げられるバグとの戦いに、そんなことまで構っていられないだろう。そうしたことは、想像に難くない。

つまり、開発会社として真摯である姿勢が、逆に課金に歯止めをかける結果になっているという事例。まぁ、ゲームのプレイ自体は、まだまだ続けますが……ほぼ無課金になることは間違いない。

怒りの正体_2020年3月4日

今日は仕事の打ち合わせで、苛立ちを隠せなかった。どんな理由であれ、あんまりいいことではないと思ったから「どうしてこんなに苛立っているのか」核心の理由を探ってみた。解決できれば苛立ちを抑えられるかもしれない、と思ったからだ。

「説明がわかりづらかったから?」「 意に沿わない仕事だった?」

たしかに、それもある。しかし、それだけじゃない。

COVID-19(新型コロナウイルス性肺炎)の与えるインパクトを抑えるために、あらゆる手立てを考え、実行していこうという案件。それに、異議はない。むしろそうしなければ。

だけど……「いまするべきなのは〈それではない〉」と強く思う仕事だ。それを強制されるのは、心が折れそうになるのだ。さらに、こちらは不快感を共有したいのではない。「別の〈これしかない〉ものを考えませんか」と言うチャンスもないまま仕事が進んでいて、萎えてしまったのだ。

同時に哀しくなるのは、気持ちに嘘をついたままでもなんでも、案件化しなければ、売上が立たない、むしろ、そこは取りこぼせない位置で仕事をしているということ。まさに、あの「置かれた場所で咲きなさい」そのもの。俗っぽい話で紹介するのも気がひけますが、シスター渡辺和子が生前記した新書のタイトルです。

あげくの果ての、レイシズム。理解不能な論をもとにオリエンされたら、そりゃあわたし、怒りますよ。

ここまで書いて、思った。やっぱり、この「怒り」は売り渡してはいけない。むしろ、怒るのは当然のことだ。置かれた場所で地に根を張るのも、水やりにも疲れたら、たんぽぽの綿毛のように飛んでいきたい。