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食欲でごまかす、そんな日だってある。

ここ数日、わたしはとにかく食べている。心の隙間を埋めたいのかもしれない。肉とか、辛いものとか、ラーメンとか。たまに甘いものも少々。無限に食べられそうな気がしてくる。

ところで、親に見られたくないものを見られたときに「人生終わった」と肩を落とすのは、センシティブが過ぎるのだろうか?

ある人には「大人になってまで、そんな大げさな。中二では……」と言われた。大半の人はそう思うのかもしれない。しかし、多くの人は大人になってから、そういう経験をしたことがないはず。

わたしは諸事情があって、生きるマインドがかなり異なる親と暮らしている。意見の食い違いは確かに苦痛だが、それよりも何よりも「それは見ないで…聞かないで…」というものを無邪気に扱われるのがツラい。やめてほしい。わたしには、そこに死が見えてしまうから。だから、わたしはいつでも危険の只中にいる。この緊迫感は十代の頃と変わらない。

先日、久々にそういうことがあった。本当に堪えていたのだろう。今日、会社の自販機で何にしようかと眺めながら、ぼんやりと口走っていた。

「もう、ひとりになりたい・・・」

ええっ、こんなところで、わたしは何を口走ってしまったのだ? 自分でも戸惑った。周囲を見渡して、誰もいなかったのは幸いである(ホントに事務所に人がいないタイミングで、よかった・・・)。

ちなみに、この願いを叶えたいのであれば、すべてを捨てて逃走すればいいだけなのだが、それはしない。はっきりとした理由がある。これから向こう数十年、息を殺して生活するのは嫌なのだ。ただ、それだけ。だから、わたしは紛らわすために、食べる。食べる。食べている。

イベントが終わる前に…

某スマホゲームのイベントが終わりそうなのに攻略できず焦っている。明日月曜日なのに、何してるんだろう。いちおう勤め人なのにな。

見通しが甘かったなぁと思うことは度々ある。今日はそのひとつを紹介したい。「ゲーム実況YouTuberになることについて」の悔悟である。

あらかじめお伝えしておくと、わたしはいわゆる「ゲーム」の身体性を持たないまま大人になってしまった者だ。しかし、テトリスは別。ボタン電池で動くミニゲームとiモードの公式アプリで、パズルゲームの感覚は研ぎ澄まされているのである。

以前、派遣で働いていた時、休みが増えると給料が減ってしまうので副業を試みていた。そこで「ゲーム実況流して広告収入するっていうのもあるなぁ…」とボンヤリ思い描いていた。当時はそこまでスマホゲームも黎明期。リリース日が同じパズルゲームなら、やり始めが同じなので「自分だってできるはず!」と意気込んでいたのだ。

だがしかし。ご存知の通り、現実はうまくいかなかった。

わたしはここに、完全な過ちを認めたい。ゲームをやり込んでいる人は、そんな次元にはいない。プレイ場所やタイトルが違っていても、他のゲームに応用できる能力を持っている。すでに高みにいる。ほんとになんかもう、見通しが浅はかだった。

そしてこれを書きながら、救いの報せを知った。また来週、後半戦も用意されてるらしい。よかった・・・。まだ間に合う。いっぱいガチャ回すぞ!!!(頑張りどころが違う・・・予算も超えているのに・・・)

日記とはいえ、「パズルゲームばかりして何やってんの?」「そんなのゲームじゃない」とか「本読め」とか、感想があるだろう。それは受け止める。でも日常的にこのようなゲームをしてしまう人がいるということを体感しておきたい。割と真面目に、そう思っている。

なんにせよ、大きなことを言いたいときは、その後ででもいいから第三者の意見を聞いておきたい。

9.11とグリーン・デイ

グリーン・デイが日本公演を延期との報。しばらく来ないんじゃないか・・・。

デビューから何十年たっても見せつけてくる、悪ガキ3人組のこの雰囲気。「やってられねー!」ってときにヘッドフォンでガンガンに鳴らした音。ノスタルジーでもなんでもいいから、現実を乗りきらたいときには最高の武器になる。既にそれって若者の代弁でもないのだけど、でもとにかく「この世はクソったれ」と言い続けている存在は、心強い。まごうことなき懐古主義ですが。

個人的には、リアルタイム的な出会いで言うと『American idiot』のリリース時にぶち当たっていたので、9.11と重ねて見てしまうことが多い。

というわけで9.11の話。この2月で、アメリカはアフガニスタンでの駐留を終える。どうやら正式にサインしたようだ。そこでNYタイムズの、このまとめ記事がすごく良い。(Photos From America’s Longest War)※戦争を撮ったもので、衝撃的な写真が含まれます。連日ソースが同じですみませんが・・・

ともあれ9.11について。

今にして思えば、世の中の尺度について知っていく、その始まりがこの頃だった。WTC崩落のニュースを見て喜ぶ人がいるのに「信じられない」という人がこんなに多いのか、と。こっちが信じられない気持ちだったのだ。女子学生がお酌しないと不機嫌になる教官に「時代錯誤でバカバカしい」と思っていたが、就活中にそれが未だ世の中の暗黙知だと知った。学生時代の鬱々とした気分を引きずったまま社会に出た新卒1年目には、中東に支援活動をしに行って人質にされた日本での反応があって、むしろ世の中の多くの態度に唖然とした。

だから2011年に、日本が分断されたというのも「え、もともとでしょ? 何をいまさら」などと思っていた。

9.11当時、わたしは横田基地からほど近い場所に住んでいて、毎日行き交う飛行機の音がとにかく不快だった。他人の国の話じゃない。東京都から輸送機だって飛び立っていたし、明らかに戦闘機の形をした飛行物体が訓練していた。

そこから約20年。ようやくアメリカの駐留が終わる。一連のこの長い戦争で、誰が、何を得たのだろう。ほんとうに戦争なんて誰もしたくないのに、なんでこんなことしてるんだろうって気持ちが強くなるばかりだ。橋本治の『20世紀』をざっくりと借りれば、19-20世紀の物語は終わっても、物語が生んだ苦しみと向かい合い続ける、それが20-21世紀だ、とでも言いたげである。

しかし。他の国の話をしてる場合じゃないのかもしれない。誰に問われるでもなく、「お前は何をしてきたのか」と自問すると「ただ生きてきた」としか答えようがない。この20年、生きるのに必死だった。生み出したものが何もないというのは、これまでの出来事に対して失礼だけど、ほんとに、びっくりするほど、生きてるだけだったような気がする。

ところで、パンクのイベントに行くと年上のお兄さんたちは「グリーン・デイはパンクなのか問題」で言い争ってたのだが、当時若かったわたしは「ジョー・ストラマーもビリーもどっちもカッコいいでいいじゃん」などと身も蓋もないことを言って「かわいい」などと言われたのだった。青かった。自分が30まで生きるわけないと思いながら、目の前のオジサンはとっくに40過ぎていることに気づかずに。だからやっぱり、このままではマズいのだ。

ニュースメディアという場所

いろいろ哀しくなると、かろうじて読める外国語である英語のニュースサイトに行ってみる。脳の違う部分を使えるので、冷却効果が生まれるのに違いない。びっくりするほど、気持ちのクールダウンに効果的なのだ。そう考えると、わたしは英語がネイティブ言語になる日は生涯やって来ないだろう。それはそれで、また哀しい。

ともあれ、今日はNYタイムズを読んでいた。

(日本時間2/28、22時半現在)もちろんCoronavirus関連の記事が目につく。そして中間選挙。しかし、そればかりではない。自分たちのことだけに忙しくない、こういう世界もあるのだということにホッとしながら、別の意味でピリッとしてくる。

北海道の知事が「非常事態宣言」をしたのがそのまま訳されていて、大丈夫かなぁ。いまこの瞬間にも、全世界が誤解してるはず。そもそもこの例外カード使うのって、その実、首を締めることになるのでは、とか。何よりトルコとロシアがかなりヤバそう。感染症に乗じて争いに油を注いでしまおうという考えが実行されようとしている。人間の業の深さよ。

・・・・・・こんな感じのことが、トップページのニュースをざっと読んでい流だけで、うかがい知ることができた。

ニュースサイトのトップページは新聞でいうところの「一面」だ。そこに何をどうやって載せるかはとても大切。 新聞よりも面積の多いウェブページだから、紙よりは情報量を多く入れられるのでおトクである。しかしながら、日本ではこうはいかないことが多い。少なくとも、今日はそう感じた。

日本が悪いとかじゃない。ただ、どこか一社でもいいから、BBCやNYタイムズぐらいには、世界はいまどうなっているのか俯瞰できる感じがあればいいのに。「世界は日本をどう見ているか」ではなくて。

ところで、Web媒体とつながりのある新聞記者の人ほど「新聞メディアは読者に寄り添っていかなければ」「どうしてこれが新聞社で扱えないのだ」といった意見を述べている傾向がある。それが改革なのだという。しかし、それは優先されるべきことだろうか? わたしはそうは思わない。もちろん「とても歯痒いのだろうな」という察しはつく。

けれどもそれは、別のメディアがやればよいことだ。

主戦場は、そこではないのでは。

たとえば、日本に暮らす、日本語以外の母語の人にわかりやすい紙面を作るとか。もしくは海外のニュースを普通に載せるとか。その時、日本語と同じレベルの他言語化は資金的に難しいのであれば「やさしいにほんご」的なものでも構わない。

ただし、日本のメディアはどのように伝えてるのかを英語で発信することにも、真剣に取り組んだ方がいい。「非常事態宣言」はカッコ付きのものなのだから、具体的に行われることを挙げるにとどまるだろう。自衛隊が銃を持って警戒にあたるなんてことではない、とわかってもらう必要がある。そうした齟齬が笑い話にはならない時代に生きているのだから。

ひらめき☆の扉を開ける

2019年5月4日。ついにその日はやってきた。

ずっと気になっていた「ひらめき☆マンガ教室」に申し込んじゃったのである。

https://school.genron.co.jp/manga/

まさか、申し込むとは思っていなかった。

実は、その数日前。わたしは朝まで「無料生放送」を観ていて、無性に「忘れものを取りに行きたい」と思ったのだ。
このままでいいのか? 終わっていいのか? ……単純に、マンガ書いている人の話って、聞きたいよね?

夜明けとともに寝落ちしながら、心はほぼ決まっていた。

さてわたしは、聴講生として、課題を出す代わりに、勝手に予習・復習係をしようと思う。その経過は、noteにまとめる予定。

しかし、これが実現しも、それは優しさではないと思う。
「純粋にまだ見ぬ同期を応援したい」などと、殊勝な心は持ち合わせていない。わたしは、マンガをきちんと語れるようになりたくて。だから、やろうとしているのだ。

例えば、マンガにおける「エロ」の境界線。

というのも自分の中で、主に女性の扱い方について「許せるエロ」と「不快なエロ」がある。その「不快さ」は素朴に湧き上がる感情だ。対象は、いわゆる「フェミ」と呼ばれる人が「指摘」するものと、ほぼリンクしている。なぜ、こちらは許せて、そちらは嫌なんだろう? 

そう考えると、ものすごい謎だ。一朝一夕ではどうにもならない課題だけど、これを言語化することは、今後もマンガを通して何かを語るには必要なことだ。習慣づけしたい。

注)毎日エロのことを考えてはいません。

わたしにはまだ、野心がある

4月まで通っていた批評再生塾。この最終課題で完成稿が出せなかった理由はいくつかあるが、どんな理由があるにせよ、完成できなかったという歴然とした事実がある。「お疲れさまでした」と労われることもあるのだが、ちゃんと卒業できた感じがしていない。そりゃあ、そうだ。このモヤモヤを晴らしたくて改稿中だが、いつまでも終わらない。「〆切がある」というのは、なんて幸せなことだったのだろう。自分で〆切作らなきゃ、マジでだめだ。

家のことで八方ふさがりになると、家出して東京じゃない場所でひっそりと仕事をしたい衝動に駆られる。しかし、結局のところ、それはしたくない。その理由を突き詰めていくと、わたしにはまだ、少なくない野心があるようなのだ。結構笑えるけど、この野心を育てたいと思う。

特撮って男の子向けなのか。

昨日、某動画のコメントで「特撮は男の子向けでしょ」と流れてきて、夜中に「うっ」と声を発してしまった。そうか、やっぱりそうなんだよね…と。

わたし、特撮は好きです。でも、ライダーがイケメンかどうかは関係ない。というかですね、見えない力によってヒーローに選ばれた時点で、かっこいいに決まってるわけです。

タンスを開けては、今日こそ異次元空間に通じていないか確かめてみることもあるけど、気づいたら、フィクションと知ってて観てるんですよね。

なぜか毎年、半年ぐらい経った頃に、武器がパワーアップして、新発売アイテムが出てくるとか。世界の平和は1クールごとに乱されて解決するとか。「ひみつ本」をジッと見たら、宙づりされてるピアノ線が見えるとか(今はそんなことないと思うけど)。そこで、人はシニカルな態度を身につけるわけですよ。そしてその後に始まるニュースを見たら、真面目そうな大人が悪いことをしている。「あぁなんて馬鹿ばっかり」などと思う。しかし同時に、「こんなに悪いことしてる人が多いなら、このままでは世界が滅びてしまう!」と真剣に考えることもある。

ところで「戦う美少女」よりも、一緒に戦ってる方が気分がいい。何かというと、ライブマンの前半の感じが好き。これは決して、ブラックバイソンとグリーンサイが嫌なのではなく。いまにして思えば「ジェンダーバランス」を子どもながらに感じ取っていたのかもしれません。ロボットも女子型だったしね。

ジェンダーバランスということに引きつければ、わたしは、もうずいぶん長いこと、特撮について誰かと語りあっていません。というのは、しょうもない理由。話が合いそうな知識水準にいる人はほとんど男性なのですが、しかも彼らが複数いる前では「すみませんね〜」と下手に出ないと話せない感じがイヤだから。そう、なぜかいつも「すみません」から入らなくてはならない。

、わたしは、もうずいぶん長いこと、特撮について誰かと語りあっていません。というのは、しょうもない理由。話が合いそうな知識水準にいる人はほとんど男性なのですが、しかも彼らが複数いる前では「すみませんね〜」と下手に出ないと話せない感じがイヤだから。そう、なぜかいつも「すみません」から入らなくてはならない。

少女マンガや宝塚については「僕が偏愛しているのは……」と、高尚な感じで語られるのに。ファンダムに基づくものであっても、理論や事象と結びつけても有り難がる傾向は、確実にあるなぁと思う。その逆って、なかなかないですよね。

そうは言っても「美少女」には戦っていてほしい。東映不思議シリーズは「美少女シリーズ」になってからの方が好きです。これはやっぱり、男女雇用機会均等法を反映しているとか、幽玄道士ブームに乗っかるとか、セーラームーンへの布石だとか、色々とあるんですが。とにかく言えるのは、石ノ森章太郎はすごいってことだと思う。

やるべきこと

流行りの「オンラインサロン」。食わず嫌いは良くないと思って、入会しようと思ったのだが、財布を忘れて決済できなかった。「あぁ……」と思う一方で、そもそも、そんなことをやっている場合ではないのだと思いなおした。神様ありがとう。

令和が来る前にやるべきことがあるのだが、あと1週間なのでは。うん、ヤバい。

ディレクターの仕事も、原稿を書くのも。家のゴタゴタも。やりぬくって決めたのだから、毎日やります。

ある可能性は閉じ、別の可能性が開かれた。

『るろうに剣心』の斎藤一なら、こう言うに決まっている。「敵前逃亡は士道不覚悟!」と。

ここ3週間のことを振り返りたい。身の回りでいろんなことが起きた。

まず、母が壊れた。もうずっと慢性的な精神状態なので、いまさらではあるのだが……。

ここ1年、特に批評再生塾の課題もあって(仕事もしてたけど)、
ロクに相手をしてなかったのがいけなかった。3月に入ったら、もう露骨だった。最終課題に向けて、頭のモード切り替えが凄かった。昼間の制作会社のこと考えているか、論考か、つまりどっちも広告のことを別ベクトルで考えていた。

しかし、あの寸前までは楽しかったなぁ。きっとあの多幸感がいけなかった。「何か」を呼んでしまった。

そして、これがいちばんヤバいことなのだが――批評再生塾の最終課題を提出できなかった。敵前逃亡と呼ばれても仕方がない。けっこう恥ずかしい。

泣いた。仕事で味わう悔しさとも違う、深い悲しみだ。それは、失恋に似ている。もう取り返せないのだから。

環境を整えるのも実力のうちだと思っている。だから悪いのは私だ。

それでもやっぱり、思う。「どうしていつもこうなる?」と。こういうことは少なくとも20年以上、私の身に起きている。無限ループから抜け出せない感じがして、背筋が凍った。それは終わりの始まりだろうか、とか。

しかし、某同人誌の論考を書いていてよかった。
ひどい状況で申し訳なさすぎるのですが、メンバーに助けられた。

泣いた。

泥酔して人に迷惑かけたときに、感じるあの温もり。そんな人の温かさだ。子どもにはわからない、あれだ。

ループから抜け出せる気がする。