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これも補完計画

エヴァの終わりを見届けたら、正気に戻れた気がしています。気のせいかもしれないけど……。というか、気のせいだと思う。

わたしの状態はさておき、通勤中に立ち寄りました。秋葉原コンコース内に出店中の「EVA STORE LIMITED」です。

映画公開にあわせて各所で出店していますが、もともとJR東日本で開催予定だったスタンプラリーの賞品がお買い上げ500円以上でもらえる(1000円以上なら全駅達成の賞品も!)という企画も実施中です。

2ヶ月以上、Twitterもロクに見ていなかった情弱ぶりで、通りかかって知ったのですが、すごいホスピタリティ。じゃなくて。

こんな大盤振る舞いを見ると、どれだけの人が訪れる予定だったのかと思うと、失ったものの大きさに目眩がする。

とはいえ、どういう形であれ、届けることができるのは、不幸中の幸いとしか言いようがない。わたしは昨年からずっと「実施するはずだったもの」に関する納品が続いたり、色々あって心が折れていました。

これもひとつの「補完計画」か……いや。そんなつまらないことはどうでもいい。いずれにしても、可能性を最後まで捨てないって大切。

お前は何を買ったのかといえば、こちら!なんの変哲もないキーチャームです。

先日、ついにPASMOを紛失したので(むしろ、今までなくさなかったのは奇跡に近かったのだ……)、このままでは鍵がヤバイなと思っていたので渡りに船。いくらなんでも、これならなくさないだろうし。昔のホテルのキーみたいなアクリル感が良い。

何より、どんなに帰りなくない日でも、家の鍵を開ける時に気分が昂揚しそう。

2021年にやること、やらないこと

おひさしぶりです。香野です。

諸事情がありまして、ここ最近、やや「ヤミ」気味に生活をしていました。

そのうちセルフネグレクトのドキュメンタリーに出られるかもな……と思ったほど。まぁ詳しくはどこかで。

ペットボトルの始末を大晦日に終えて、どうにか人として生きられるようになりました。本当によかった。

2020年を振り返ると、COVID-19のおかげで狂ってしまったこともたくさんあったけど、とにかくやれることを詰め込んだ1年でした。

「こなす」ことで手いっぱいになってしまった感じがあるので、2021年は、ひとつひとつに向き合っていきたい。

心境の変化としては「自分にとってどうでもいいこと」をハッキリとさせることができた。これが大きい。「大切なこと」は分かっていても、その逆ってなかなか難しい。どうでもいいことに悩まされる時間を極力減らしたら、もっと大切なことに充てられるので。

「え、フツーでしょ?」「頭悪いのでは?」……思われても仕方ないです。まぁ、人としてダメな部類なので。

ゆく年くる年モードで振り返ると……

2020年代が本格的に始まっている中で感じるのは、90年代カルチャーが妙な形で復権している違和感です。パッケージ化しやすいエッセンスだけ抜き出されている。その割にはゼロ年代が飛ばされて、いきなり東日本大震災以後の世界が立ち上がっている。そんなはずないのにね。

というようなことは、2021年もちゃんと書いておきたいと思います。

Photo by Moritz Knöringer on Unsplash

自分が痛くないことを知覚するのはむずかしい

先日、こんな記事を書いたけど、やっぱり人には「当事者」にならないとわからないことが多いようです。

本日2020年10月14日は、Twitterで「例の漫画」というワードがバズっています。また、フランスで開かれる予定だった「モンゴル帝国」に関する企画展を中国が検閲した件も局所的に注目されています。


例の漫画とは?

ちょっと前に流れてきたマンガだったと先ほど気づきました。流れてきた時に「あぁ、お仕事マンガだな」と思って読んだけど、その時に抱いたのは『このマンガ自体に編集者が必要だな』という、それぐらい。

それなのに。運命のいたずらで、バズと炎上の間を漂っています。

「3人でゲームつくるマンガ」という作品です。下記noteで読めます。

https://note.com/tetsunatsu1

※「例の漫画」って、巻き込みを回避したのかもしれませんが、伏せ字のようにするべき内容でもない。それ自体が不思議(結果的にはトレンドに上がるし、変な憶測を生みそうなんですよね)。


共感の罠

この作品には、人を不安にさせる要素が多い。ただ、おそろしいことに、真実も含まれているんですよ。ていうか、フィクションじゃん。

状況を知らないわけではなく、商業的なフィクションを扱う人のなかに、これに過剰とも言える反応をする人がいる。すべて目を通してはいないけれど「自分や教え子が、かつてそのような経験をしたから」という意見が少なくない。

いや……? それって……?

極端な話、「乳袋を、萌え絵をけなすのおかしい」と言う人は、嫌な目にあったことがない「だけ」だったんじゃないのかな……ってことになる。

そういうことでは、ないですよね。


フランスの博物館の件

これについては、中国が圧力「チンギスハン」を削除せよ 仏博物館、企画展延期にという記事が詳しいです。

この記事について、Twitterでけっこう言及されてました(上記の件と同じ人ではありません。当然ながら)。隠れモンゴルクラスタなので、ちょっとでも言及されるとうれしい(そういう態度はよくないと思うけど)。そうそう産経新聞でも取り上げてました。全体的な風潮は「とにかくこんなことは許されない、歴史への冒瀆」です。そりゃ当然なんですけど、これって「とある国で従軍慰安婦についての展示をやったら、日本の官庁が検閲した」のと同じですからね。


当事者の経験を一般化するのは、かなり難しそうだということ、Twitterばかりやってたらダメだということがわかりました。それもTwitterばかりやってみないとわかりませんね。

Photo by Michael Dziedzic on Unsplash

当事者でも、専門家でもなかったとしても

ここ最近、何かを語り出すときには立場を明かしてからでないと信用されない。特に「当事者かどうか」「専門家かどうか」の2点が重要らしいのだ。

前にもどこかで(Twitterだったかも)「カミングアウトしなくてもいい世界がいい」と書いたり話したりしたが、基本的にそれは変わらない。

もちろんカミングアウトした人のことは尊重したい。でも、それが行きすぎた結果の「アウティング」につながるとは言えないだろうか?


少し前に、「普通じゃない」半生を振り返ったライターのnote記事が話題になった。

私が”普通”と違った50のこと〜貧困とは、選択肢が持てないということ〜

おそらく日本に住む全員に聞き取り調査をしたら、子細はそれぞれの事情があるとしても【選択肢が目の前にない】という点においては「うんうん、だよね!」という反応も結構あるはずだ。ただ、「noteユーザー」の中では、わりと大きな衝撃だったと思われる。少なくとも自身の周りでは「こんな人もいるのか……」といった文脈で話題になることが多かった。

もしもこの話が「聞いたところによると」「こういう人もいる」という体裁で書いたものなら、そこまで話題にならなかっただろう。ライター自身の物語だったところも大きい。

自身のことを語るには、リスクがないわけではない。「あの人って、そうだったんだ……」と思われながら今後生きていくには、かなり大きな覚悟が必要だ。本人の決断の大きさははかりしれない。だからこそ、そのように書き続ける彼女の決意や意志に対して、最大限の敬意をはらいたい。そのうえでも、疑問は残る。果たして、幸せなことだろうか?

くれぐれも誤解しないでいただきたいのだが、「書く人が幸せなのかどうか」の問題ではない。決して個人のハピネスのことではない。「みんなが書き手になれる」時代において、私小説的な振る舞いをしてしまうこと。そうして立ち現れる文章が、時空を越えて読まれ続けるのか、である。


あれは10年以上……15年ほど前だろうか。とある俳優カップルのゴシップがTVから流れてきた。結婚からしばらくして、パートナー以外とのデートが報じられたのだ。正直どうでもいいと思いながらも、流れてきた音声に鳥肌が立った。ある芸能レポーターが「でもXXさんは、複雑な家庭で育っていらっしゃるから、いろいろあっても温かい家庭を守りたいと思っていらっしゃるのではないでしょうか」という謎のコメントで話を結んだのだ。あの衝撃は忘られない。

わたしは耳を疑った。その俳優XXさんのことは好きだった。初耳だった。とはいえ、XXさんの文章では時折、どこかで感じ取れることでもあったから、そのこと自体に驚いたわけではない。むしろ今思えば、同年代で、同じ空気を共有できそうな文章も含めて気になっていたのだ。そもそも、公にされていたことだったのかもしれない。しかし、それを本人のいない場所で、公共の電波に乗せて軽々と暴露する仕事が成り立っていることに驚いた。

その発言を聞いて、わたしはむしろ「複雑な家庭で育っているほど、見切りをつけるのが早いのでは?」と思った。そしてその通りになり、やがてカップルは離婚した。

俳優XXさんの演技に、個人史的なバックボーンが関係なかったとは思わない。それが重要なファクターではあったとしても、そのことに囚われた役ばかりではなかった。それはとても幸せなことだと思う。


そして、時は流れて2020年。上記のようなことをテレビ番組が行えば、「アウティング」と言われてSNSが炎上するかもしれない。しかし伝えるメディアが変わっても、同じようなことはなくならない。その「アウティング」を責める際に、人格否定をすることがある。それだってフェアではない。しかし、そのフェアネスは認められづらい。

プロレスだから楽しめばいいという問題でもなくなってしまった。飼い主とじゃれあって甘噛みしている愛玩動物が時折「シャーッ」と野生を取り戻してしまうような事件が頻発している。そこでは時々、悲劇が起きる。

誰でも発信したものが広まっていくことに可能性を感じていたゼロ年代〜2010年代を経てなお、わたしたちの社会は変わっていない。むしろ、どのような人物が書いているのか? その「顔」が見えないと信用しなくなっている。

プロレスはキャラクターが対戦するからおもしろい。本当に因縁のある相手とデスマッチをやったら、ただの犯罪である。しかし、過度に実存を開陳していけばいくほどキャラクター性は薄まっていく。

だからこそ、そうじゃないことにも目を向けたい。

年収○○万円の家で育ったとか、△△障害だとか、××マイノリティだとか、●●が専門ですとか、◉◉専門家ではありませんとか。おそらくは、カムアウトしなくてもいい、そうじゃない距離感で書いていくことも必要だ。今だけ、目の前の熱狂ではなく、後から、誰かが見つけるために。

なぜなら、人にはあらゆる面があるからだ。やがて意見は変わることもあるだろうし、現在の当事者は、必ずかつての当事者になってしまう。同時期に、複数の課題の当事者であることも可能だ。しかし人が書ける文章には数が限られている。だから、ちょっとだけ離れた距離から見つめることだって大事なのだ。


(もちろん、そうじゃないこともやりますよ。明治の文豪じゃないし、石川啄木より長生きしたいし)


そんなわけで、当事者でも専門家でもないけどコンテンツを語る同人誌を出そうと目論んでいる。最初の0号はわたしだけなので、きっと自身との関係性からは離れられないだろうけれど……。

続報はお待ちください。(更新頻度が落ちている言い訳に換えて)

Photo by Mohamed Nohassi on Unsplash

「個性」で生きやすくなるとは限らないのに

「個性は美しい」と人は言う。しかし、果たしてそうだろうか? 善きものとしての個性しか見ていない可能性に、もっと敏感になったほうがいい。

少なくとも現在の日本で、病気や障害を「個性」と捉えようと言ってしまえることの愚かさよ、と個人的には思っている。

そんな中で起きた、今回の花王ロリエのKosei-fulプロジェクトにまつわるあれこれ。広告手法や広告のありかた、生理に対する態度について、今回は取り上げない。ここで言いたいことはひとつ。

このキャンペーンに反対したいと思うなら、病気や障害を「個性」と言うべきではない。

なぜならいずれも同じ問題を抱えているから。

「生理を“個性”だととらえれば、私たちはもっと生きやすくなる」
それは、
「障害を“個性”だととらえれば、私たちはもっと生きやすくなる」
「病気を“個性”だととらえれば、私たちはもっと生きやすくなる」
と同じことなのだ。

そもそも個性……とやら。それは、そこまで美しいものだろうか? 生きやすくなるものだろうか?

この夏のはじめ、エッセイマンガ『普通の人でいいのに!』(冬野梅子/モーニング月例奨励賞2020年5月期受賞)がバズった。

この主人公への共感の声が広がっていた。サブカルチャーが好き(特にお笑い方面)で、そこで繋がった友人がいる。中庸のメンタリティ。しかし、大切にしているものを「ただの趣味」と笑われたら怒ることのできる知性も持ち合わせている。それをコケにした(ように見える)周囲に鬱憤をぶちまかそうとするのだが……わたしは、読み進めるにつれて共感というよりも、ステキな人だなと思った。社会は彼女のような「普通」の行いで回っている。この作品が賞をもらえるのもバズるのも、そうあって然るべき。とても正しい。

彼女が嘆く「普通」に憧れる人もいる。わたしはもう諦めているが、生涯手に入れることができない。かと言って、天賦の才があるわけでもなく、ただひたすらに「普通」になれないだけ。「普通」と自覚したのと同じように、苦しさの中で茫洋としている。「普通」になれなないことを絶望しながら、逸脱を求める。

しかしこの苦しさを持ってしても、かつてわたしが大事な友人を傷つけていた過去は免れない。というのも、数年越しに、ある人を傷つけるのに加担したと知ったのである。「経理っぽいね」「経理すごい!」と言ったのはお酒の勢いでもなく、接待スマイルでもなく、本気で感想を述べたのに。「この小説よかったよね!」と同じ感覚で。わたし自身はずっと、その部分ができないことで心を削られていたから、できる人に最大限の敬意をはらっていたのだが。でもそこで「ごめん!」などと言うのはまた違う。謝ればいいってものではない。

何はともあれ、わたしのまわりで「個性」はいまのところ、生きやすさにはつながっていない。現場からは以上です。

Photo by Jason D on Unsplash

(補足)「ヒロシマタイムライン」二重の危うさについて

昨日書いた記事だけど、やはり補足が必要だと思う。

フィクションを描くにあたり、「ひろしまタイムライン」は、「烏丸ストロークロック」から監修として柳沼昭徳、広島を拠点に活動する「舞台芸術制作室 無色透明」からサポートとして坂田光平を迎えている。ただ、彼らがどこまでかかわっているのか定かではない。この状況で言えることは少なすぎる。

柳沼氏は地域に根差した演劇プロジェクトを行なってきた。東日本大震災後の仙台で完成させた「まほろばの景」も幾度かの修正を重ねて、上演を重ねている。

とにかく、放送局がこの企画を中途半端に進めたわけではないのはわかる。しかし、だからこそ、そこで生じた齟齬を、誰かが掬い上げることができなかったのだろうか?

結果的に、これは広島在住の「日本人」のための、「日本人」に向けたコンテンツだ。その「日本人」には、外国にルーツがある者は入っていない。そしてこのコンテンツは、日記を残すことができた割と恵まれた境遇にいる人が、良識者として代弁している。

その世界を見る目は一方的である。自分たちがどのように世界から見えているのかは気に留めていない。当時の「日本」と同じような図式である。同じ瞬間、世界には、別の視点で「日本」を見ていた人も存在していたことを、2020年のわたしたちは認識しているのに。

思うに、75年前の「当事者」の声を聞きすぎたのではないか? いま暮らしている75年後の世界で、どのように受け止めるかが重要なのに。声なき声の「間」を拾うというのは、そういうことではないはずだ。

これはあくまで推測に過ぎないが、Twitterで「上演」をするような感覚があったのかもしれない。ゆるアカウントがキャラを使って繰り出すツイートは、まるでセリフである。ただ、昨日の記事でも触れたように、Twitterは舞台とは異なる、開かれた空間だ。それゆえの危うさを抱えている。

もちろん、そこまでの意図があったのかは想像に任せるしかない。しかし、表面を見るだけでも、実験的なプロジェクトであることは確かだ。過去にも、ある意味「ネタ」として歴史をなぞる試みはあった。たとえば関ヶ原の戦いの同日、「今頃小早川が…」「ここで形勢が…」というツイートが流れたのだった。しかし、これは10ヶ月もの間行われる(予定)プロジェクトだ。これまでに例のない実験には、危うさがつきものである。

つまり、二重の危うさを抱えていることがわかる。そして同時に思い出すべきは、この街に原子爆弾が投下されたことに、実験的な側面もあったことだ。「実験」という意味を与えることは免罪符にならない。少なくとも75年後の2020年において、それと引き換えに人の苦しみを肯定することは、よほどの覚悟を背負う行為なのだ。

世界一危うい「マスメディア」のTwitterに登場した、救いのないフィクションについて

ほんの数週間前に好意的に受け入れられていたTwitterアカウントの企画がヒートアップしている。いまのところあまり言われていないけど、「Twitterというメディアをわかってない」「安易にフィクションに頼ることで【虚構】の力を萎えさせた」ということがヤバいと思う。だってNHKなのに。


そもそもの問題は……

そもそもの発端はNHK広島放送局が企画した「もし75年前にSNSがあったら? 1945 ひろしまタイムライン」である。これは3月から行われている試みで、当時広島に住んでいた3名(中学1年生シュン・新聞記者の一郎・新婚主婦やすこ)の日記をもとに、3人のキャラクターが発信する体裁をとっている。日記に描かれなかった部分は、想像しながら創作しちているという。被爆75年を機に、若い世代にSNSを通じてリアルに知ってもらおうという意図だそうだ。

今回、問題が指摘されたのはシュンのツイート。いまNHKの放送であれば通常使わないであろう言葉が散見される。どうしても使うべき場合は、断りの文を入れるレベルのものだ。どういうものだったかは、いまのところ載せるつもりはない。下記にアカウントを載せておくので、気が向いたら8月20日のツイートを見てもらえれば。

シュンのアカウントです。

これに対して、NHKの回答は以下のとおり。

[当時中学1年生だった男性にとって、道中の壮絶な体験が敗戦を実感する大きな契機になったことに加えて、若い世代の方がにも当時の混乱した状況を実感を持って受け止めてもらいたいと、手記とご本人がインタビューで使用していた実際の表現にならって掲載しました。]

https://www.nhk.or.jp/hibaku-blog/timeline/434538.html

これに対して「そこじゃない」というリプ・エアリプがついている。確かにその通りだ。

春先にこれを知った時にも嫌な予感がかすめた。「原爆から75年で節目の年なのに、だんだん当時を知る人も亡くなり、建物も朽ちていく……広島市でさえ継承が難しい問題」を取り上げていた番組で、この企画を語っていた。その「若者=SNS」という無邪気さに不安がよぎった。この方々はTwitterをわかっているのだろうか?と。


ツイートは全世界でアクセス可能な断片

Twitterは全世界からアクセス可能だ。アカウントから配信するということは、全世界同時にタイムラインに流れているのである。わからない言語でも、最近はGoogle翻訳がついているので割と読めてしまう。ただ「割と」読めるだけであって、トンデモ翻訳になっている可能性がある。機械翻訳が翻訳しづらい口語は誤解を招きやすい。つまるところ、全世界に向けて発信されていること、忘れてたのだろうな。日本以外のルーツを持つ人も、日本・広島に住んでいるのだが、それについても、考えていなかったのだろうと思う。ひどい。

さらに、ツイートはただの断片に過ぎない。今回「ツイートごとに注釈を入れたら」いう意見もあったが、それだけで140文字なんてすぐに埋まってしまう。熱心なフォロワーよりも、流れてきたツイートに「オッ」と反応することに気を配らなくてはならない。ネガティブな情報の拡散力は激しいのだ。

もとより、彼ら3名のアカウントのコメントは、割と古風な表現が並んでいる。そこには古き良き面影もあるかもしれない。同時に、亡き祖母が使っていたけど右翼としか思えない言葉がサラッと書いてある。全然よくないことけれど、当時は使う人もいたのだろう。阿久悠の『瀬戸内少年野球団』を小学生の時に読んで「この子たち怖い…」と思ったことがあるのだが、それと同じだ。

しかし、今回のようにヒートアップしない限りは、特に問題にされなかった。おそらくフォロワーになれば文脈もあるので「そうか、当時はこう考えてたのね〜考えさせられるな」とも思うだろう。しかしご存知のように、爆発的に盛り上がるのは、脊髄反射的なレスポンスだ。特に今回のようなネガティブな反応が炎上しやすい(ということを「NHK特集」か何かで観たばかりなのだが……)。


妄想による妄想のためのツイートの行く末

そもそも、これらの内容は真面目であってもフェイク的と言ってもいい。「いま」という言葉を使いながら1945年のことを書いているのだから。もちろんTwitterで架空のキャラクターが扮しているアカウントは数えきれない。過去のことを延々と載せるbotもある。しかしこれは、国を代表する放送局が送り出すアカウントだ。それなのに、フェイク的なbotを流して無責任が過ぎる。ツイートする時にデフォルトで「いま何してる?」と表示されるが、本来は「防空訓練終わった」などと答えられるわけがないのだ。

そして、どこまでが日記に書いてあった出来事なのか、どこまでがキャラクター創作なのかが不明瞭なまま、タイムラインは更新されていく。キャラクターが歩きだすということは、自然とそういうことになるのだが、この題材を使う時に適切だろうか? 昨年の「全裸監督」でも示しているように(その例を持ち出すことさえも「不謹慎」と言われそうだが)、現実をベースにフィクションを立ち上げるのは、なかなかの危ない橋だ。

極め付けは「#もし75年前にSNSがあったら」というハッシュタグである。

この「if構文」の使い方がまずい。あるわけがないのだ。それは想像力の問題ではない。SNSがあったら、そもそもああいう形での戦争は起きてない。これは歴史を扱う企画として、穴のあいた餡ドーナツを作るようなものだ。ふと思うことがあってもいい。けれども、それは単なる妄想だ。この人たちが「2020年にタイムスリップしてきた」なら、まだ良かったのかもしれない。

しかし、現実にまずいレスポンスをわたしは目撃した。それは原爆投下以降のツイートに対しての反応だ。「もしも75年前にSNSがあったら、励まし合えるからこんなに孤独じゃなったのに、やりきれない」といったもの。書いている人が真剣なほどツラくなる。禅問答のようなif構文ハッシュタグがツイートされるとき、「お題の答え」は「あったら良かったのに」を誘導する役割を担っている。それはミスリーディングだ。


無意識的なメディア選定の狂い

底本にしたのが日記というのだが、そもそも、日記とツイートは、だいぶ違う。ツイートは瞬間的にワッと言ってみるものだ。しかし、日記はそうではない。もう日記を書いている人も少ないとは思うのでブログでもいいが…いや、ブログとやはり違う。日記は「今この瞬間に見てもらう」のではない。10年後の自分や、後の世に誰かが見るかもしれないと思えども、すぐに誰かの反応を聞きたいことは書かない。その日の出来事を反芻して、書き留めることと、胸の中にしまっておくことを取捨選択して、記録する。ペンや紙が限られていた当時であれば、なおさらだろう。

つまるところ、この企画はハナから媒体を間違えている。「1945ひろしまタイムライン」という別のWebサイトを作り、そこで似たような仕組みを稼働させることだって可能なはず。

日記を口語体に直して毎日UPするのではダメだったのか?前にも書いたが、実際のSNSに流さず、「1945ひろしまタイムライン」という架空の次元をwebサイトに立ち上げるのではダメだったのか? 広島の日本人だけではなく、いろいろな当時の日記を時系列で見せていくという手段もあったはずだ。

最終的に、NHK_PRさんなどで「更新」をお伝えすれば、もっと広く知ってもらえたのではないか。


もはやTwitterは「マスメディア」

ここのところ、Twitterがキャズムを超える以上に広がりきった結果「マスメディア」化している。他のマスメディアと異なるのは、情報を発信する側も受信する側も「危うさ」を抱えている点だ。因果律が通用しないところで、突然炎上したり注目されたりする。

タイムライン機能は人の目が追える限界に挑戦しているので、自分のタイムラインに複数上がっていたら「すごい話題」だと錯覚してしまう。ひとつひとつはそうでもないけど「それぞれ」が「みんなが話題にしてる」と錯覚した時に「Twitterで話題」になる。しかし、ほとんどのバズの数字は、従来のマスメディアからするとたいしたことのない範囲だ。テレビの視聴率1%は、誤差はあれど100万人程度に換算されるといわれている。平均視聴率が1%台の番組は、景気が悪そうに感じるだろう。しかし、一度に100万ビューというのはとてつもない数字に思える。それがマスメディアに登場するだけで、マスコンテンツになる。

多くの人が気付いている通り、最近テレビのニュースや情報番組で「Twitterで話題」「ネットで注目」というコンテンツが増え過ぎている。「こんな過激な意見がある」「こんな動画がある」という事実を従来のマスメディアが流す時、それは突如マスコンテンツとして再生成される。

「Twitterで話題」というコンテンツは、ほとんどの場合は「あぁ知ってる」という情報だろう。どこでも観られない、かわいい特ダネを見つけることをしない。いっそのこと、番組スタッフのニャン子姿をインスタにもTwitterにも上げず、その番組だけ流したほうが、よほど観る価値があるだろう。

もちろん、ツイート内容に関する規制はない。たとえば民放連に代表されるような業界団体もない。けれども実質的なコンテンツの拡がりからすると、もはやマスメディア並に影響力を持っている。それでいて、最終的にはあくまで個人の意見であると収斂されていく。


Twitterアカウントのキャラ変

企業やサービスの広報として「中の人」やキャラクターが扮する、ゆるアカウント(軟式アカウント)は人気がある。特に広報アカでは異動による「中の人が交代します」卒業ツイートへのレスがつくほど。他社のアカウントの発信にかぶせて、自社の商品をアピールしたり、コラボが決まったり……人間味のあるやりとりがTwitterの良さのひとつと思われてきた。けれども、だんだんとそうではなくなっている。

Twitterの日本進出が整った2009年頃から、このようなアカウント開設が相次いでいた。いち早く自国の新サービスとして活用していたアメリカ市場でも同様だ。というより、たぶん真似をしたのだと思う。しかし10年以上が経過した2019年に入ってから、先行するアメリカでは、そのようなアカウントへ一般の人が冷めた視線が目立つようになってきたという。「中の人」がミームを生み出す内輪ウケに食傷したようだ。

ウケ狙いのゆるいSNSが「オワコン」な理由/東洋経済ONLINE

コミュニケーションの軌道修正をしているアカウントは増えているようだ。しかし日本では……ゆるアカウントがここまで増殖してしまっては、もう手遅れかもしれない。現実にもゆるキャラがたくさんいるのだから。

今回作られた3つのアカウントも、その延長に過ぎなかったのだろう。


フィクションの暴力性に対する脇の甘さ

そもそも、この取り組みは正解なのだろうか? ある惨禍を当事者以外がフィクションにすることについて、国内でもいろんな見解が交わされてきた。記憶に新しいのは東日本大震災のことだ。当事者以外が描く「震災後文学」については語るのが難しくなっている。原発についても、津波についても。

そもそも「戦争を知らない」世代が経験していない戦争を語ることについては始めから批判されているし、その世代が中心となった学生運動ですら、その後の世代の切り口は変容を指摘される。いずれにせよ、この国で当事者以外がフィクションとして記すときの解は、まだ得られていない。

ましてや、実在の人物をトレースしたキャラクターを「操作」するには、たいへん高度な技術が必要なのだ。「虚構の物語」を描く作家として緻密な仕事が求められる。

まずは文語調で書かれたものを、今っぽい喋り方でリライトする難しさ。橋本治の「桃尻娘」や大和和紀の「あさきゆめみし」の完成度に近づくには、どれほどの文学性が必要だろうか。企画において、日記に書かれていない日の出来事は、他資料を参考する、想像してみる等でツイートを続けているという。どうしてここまで現在に寄せてくるのか。今っぽい喋り方をすることで、日記の中のそれぞれの振る舞いの違和感が生じてくる。それはもう、キャラクターがちゃんと動いていない状態だ。

実際には、作家を入れるなどはしていないようで、この辺りに覚悟の足りなさを感じる。虚構を立ち上げる時に、通常のTwitterアカウント運営のノウハウは通用しない。全く別の技術が必要なのだから。


本当に求められる虚構の力

過去の惨事を固有名で向き合う時に、虚構の持つ力は絶大だ。もちろん、ある種の暴力が発生する。しかし、事実と対峙するには必要なことだと思われる。HBO制作のドラマ「チェルノブイリ」の受容について、昨年盛り上がったことを忘れてはいけない。

【 #ゲンロン友の声 】私たちは今できるかぎりの虚構に触れるべきなのだと思います。/genron note

ドラマ『チェルノブイリ』、事実がまっすぐ伝えられない状況は、まさに今の日本の姿だ/速水健朗:Newsweek Japan

SNSの台頭によって、わたしたちはもうずっと「事実は小説より奇なり」という言葉に支配されていないだろうか? しかしそもそもは、バイロンの作品の中で生まれた言葉である。密着ドキュメンタリーには作れない虚構の力はまちがいなく、あの戦争にだって適用されるものだ。

そしてこの企画、下記のイタリア制作の番組に着想を得たのではないかと推測している。何かしら、少なくはない影響を与えているはずだ。先日、NHKで放映もされた。

『#アンネ・フランク 時を越えるストーリー』

しかしこちらは立て付けが圧倒的に違う。こちらはSNS世代の若者が、アンネ・フランクの足跡を巡り歩き、本人の視点で「アンネの日記」を読み解くドキュメンタリーだ。日記をリライトするだけではなく、実際に歩き、その場所に触れて、自分の考えを組み立てていく。この映像を通して私たちは、その様子を追体験することができる。その時、視聴者も自分なりの答えも出せるかもしれない。

いずれにせよ、そのような力強い虚構の力を使うには、Twitterのゆるアカウント運用では荷が重かったはずだ。安易にフィクションを作り出したのは、ただの無意識だったのかもしれない。しかしその無意識的な行為が、メディア自らが媒体を取り違えていることを白日に晒した。ましてや、今回のことを単純化した「フィクションは紛い物」のような論調が出てくるかもしれない。そもそも停滞している事実から虚構を立ち上げる機会が、ますます限られてくる。ここに「現在の日本らしさ」が凝縮しているのだが、これで終わっていいはずがない。元にした日記は現実に存在しているのだ。願うのは、無闇な中止でも単なる続行でもない。伝えようとしていたことを現代の文脈で捉え直すコンテンツにつなげる方向に話が進めば、ひとつ変われるはずだ。そうでなければ、誰も救われない。

敗戦75年目の「ゆきどけ荘」

7月下旬に、こんなサイトが公開されていたのをご存知だろうか。就職氷河期世代への支援ポータルサイト「ゆきどけ荘」という政府広報Webサイトだ。「ゆきどけ荘」に集まる住人は就職氷河期に遭遇して今でも困難を抱えており、大家さんが彼らの悩みに答えていくというストーリーが展開されている。これを公開するという行為はディスコミュニケーションの極みであり、8月15日にしげしげと見ると「さすがは日本」としか言いようがない(もちろん皮肉)。

知名度はいまひとつだと思う。SNSプロモーションを主にしているからか、おそらく見る人が限られている。Twitterでザッと検索すると「ターゲット」の否定的なコメントと「ターゲット」より下の年代の嘲笑コメントが目立つ。「ターゲット」と同年代でも「普通に新卒で正社員になって今も働いている人」には無関係なので見向きもしない。何より「当事者より上の世代」は目にする機会も少ないようだ。彼らの声は、おそらく交わることがない。

時期的にもCOVID-19関連ほどのインパクトもないからだろう。内閣官房が旗を振っているのに、特に誰も気にしていない。正義の盾に使うのは勘弁してほしいので、攻撃対象に挙がらなくてよかったけど、就職氷河期のことなんて、無かったことにされているという表れだ。

もちろん誰かの制作物である前に、「OKを出した=これじゃないとOKを出さなかった」のはクライアントである。政府・内閣官房、関係各所との紆余曲折あったことはふまえても、天を仰ぎたくなるキャンペーンだ。予算が足りなかったんだと思うけど……。マズい点を5つ挙げてみる。

1)これがポータルサイトなのか
まず、ポータルサイトと名乗りながら、その役目を果たしていない。情報の更新が遅く、目的の情報にたどり着くまでの導線が長くなるように設計されている。制作者も本当は「ポータルサイト」とは思ってないだろう。本来の提案では「ポータルサイト」部分があったけど、そこまでしか予算がなかった可能性もある。

せめて総務省のこのページの更新をお知らせするだけでも違うはずだ。
「地方公共団体における就職氷河期世代支援を目的とした職員採用試験の実施状況」
このお盆時期に「就職氷河期枠」の公務員試験のエントリーが結構多い様子だ。ということを記事を書くために調べてる途中で知ったのだが、ポータルサイトとはそういう役割を持つべきもの。いっそのことファーストビューで検索窓でも設けておけばよかった。

注ぐべきところに予算を使わない、ディスコミ傾向の広報……発注元が同じだと、どの案件も似たようになるということだろう。

2)才能のムダづかい
そして、今日マチ子さんをムダづかいしている。「税金が〜〜」などという問題ではない。そんなことは正直どうでもいい。ただもったいない。本来ならこの題材と相性がいいはずなのに。次からの項目とも関連する話だが、理由のひとつは単純な類型化をしすぎたのだろう。「支援施策一覧」を見ればわかるように、掲げている施策は20個もあるのに、ケース紹介が3組に集約されている(しかも、すべて網羅されていない)。キャラクターが自由に動いていないところが歯痒いところだ。

3)正社員じゃないとフリーター
「鈴木スミレさんのストーリー」のサブタイトルは「わけあってフリーター」である。その紹介文にのけぞったのはわたしだけだろうか? 内閣官房の認識では、非正規雇用というだけでフリーター。まるまる引用しておく。

[仕事熱心な鈴木さん。しかし、学生時代の就職活動では希望の仕事につけず、⾮正規雇用を転々としている。今の会社は5社目。真面目な勤務態度が会社にも評価されているが、正社員になれる目途はない。正社員として働くことを望んでいるものの、正社員の経験はなく、自信をなくしている。]

とのことだ。
このストーリーでは、大家さんに公務員をすすめられてヤル気を出して終わる。非常勤で公務員してる人はどう思うんだろうか?(※ここですすめられてるのは、特別枠の公務員のことですが)ちなみに彼女は34歳設定。

4)寄り添いなどしない
「田山テルさんのストーリー」はどんなストーリーなのかがよくわからない。紹介文がすべてである。また引用してみる。


[勤勉で⼏帳⾯な田山さん。就職したい気持ちはあるが、6年前に勤めていた会社で派遣切りにあったトラウマから、就職活動をしていない。とくにやりたいことや、これといったスキルもなく、何から⼿をつけていいのかわからない。
働きたい気持ちはあるものの、40歳になり、もう自分には無理なのでは、とあきらめつつある。]

とのこと。それって6年後の鈴木スミレさんと入れ替わってないかな、などと考えてしまう。(そんなわけないけど)
「あなたにもいいところがあるじゃない」とフワッと褒めつつ、結局のところ「とにかく働け」しか言わない。「とにかく何も考えなくていいから投票しよう」という呼びかけと同じ構造だ。

5)ひきこもる人の話は聞かない
ここまでくると大喜利状態ですが、「佐藤ご夫妻のストーリー」がすごい。ひきこもり状態の44歳・息子と同居中の70代夫婦の悩み相談。また引用する。


[不登校からそのままひきこもりになってしまった、息子の佐藤ヒトシさん(44歳)。外に出るのは、たまにコンビニに行く時ぐらい。同居しているご両親のシゲオさんとヨシエさんは、誰に相談することもできず、時間だけが過ぎてしまった。自分たちも70代になり、これからのことを考えて不安をつのらせている。]

ということだが、一番不安なのはヒトシでは?
しかし大家さんは夫妻をねぎらうばかり。内閣官房としては、ヒトシの話は聴くに値しないようだ。

このような点で、いまの「日本」の一端が垣間見れるわけです。「さすが政府広報」と言いたくなる(再・皮肉ですからね)。

とはいえ、笑ってる場合でもない。今日は2020年8月15日、敗戦から75年目だ。実はこの日にも通じている。加藤典洋さんの『敗戦後論』を援用すれば、ずっと負け続けているのに負けていないフリをしているのかもしれない。

こじつけでもなんでもない。戦後の営みの積み重ねが、就職氷河期という状態を作ったのだ。しかし、正規ルートから外れた人に「負け」を押し付けるだけで流されてきた組織は結局のところ自らも脆弱になっている。それは自治体で、企業で、業界で。さまざまな場所にある日本の社会という組織のことだ。そして戦後75年目のいま、世界で流行っている感染症に晒されている。

来春の新卒採用は厳しいという。さまざまな予測によると「団塊世代がいないので、人手不足が起きるので就職氷河期は来ない」とされている。学生時代からの起業も以前にも増して活発だし、働き方もますます柔軟になっている。しかし、この耳触りのいい言葉は、前にも聞いたことがある。まさに就職氷河期まっただなかに聞こえてきた言葉そのままだ。「負けてなどいない」と言うことは、実は何も変わってないのではないか? (こんなことを言うのは、正規ルートから外れてる自分としては、セカンドレイプ的な苦しさがあるのだけれど)

自分のいる社会は、過去に愚かなことをした。そこで暮らす自分も愚かなことをするかもしれない。だったら、そうしないためには何をするべきか? そんな想像力を働せるには「愚かなことだ」「負けた」と認めなければ始まらない。理由がわからなければ、対処しようがないからだ。

『敗戦後論』ではただの事実として描かれているのだが、戦後すぐには「明治人」「大正人」「昭和人」がもの言う世代として同居していた。その状況、ある意味では今に似ている。つまり、まだチャンスは残されている。しかし無限ではないし、個別の死はすぐ隣にあることもまた事実だ。25年後、わたしがまだ生きていたら、敗戦100年目に何を言っているだろうか。もう少しマトモなことを言っていると良いのだが……。(そしてその頃、就職氷河期世代が「定年」を迎えることになる)

Photo by Danie Harris on Unsplash

「おもてなし」を世界に掲げた東京の無意識レインボー

なんで、みんな言わないんだろう。
いや、もうしょうがないと思っているのかもしれないけど。

東京都が「感染拡大防止ステッカー」の活用を呼びかけている。東京都が設定したガイドラインに沿った対応の申請をした事業所や店舗に発行する貼り紙について。都のガイドラインでは、主に人と対面する業種ごとに対策が振り分けられていて、それを遵守した店舗・事業所にステッカーの掲示を認める制度だ。

各自治体でこのように「お墨付き」を与える制度はできているのだが、目にした中で東京都のデザインがいちばん酷い。「かわいくない」「ダサい」そういう言い方も有りうるが、嗜好の問題で片付けられそうなので、もっと強く否定したほうがいいと思う。世界を「おもてなし」しようとしていた自治体としては「失態」とも呼べるものだ。

一目瞭然、モチーフとしてレインボーが使われている。2020年の夏に、東京で。なぜ、あえてのレインボーなのか。虹色のものを身につけること、掲げることは、LGBTQを否定しない、普通のことだと表明する印でもある。虹がLGBTQのものだと言いたいわけではない。しかし、もしも予定通りにオリンピックが今頃開かれていたとしたら、どうだろうか?イベントや店舗で自治体が認証した揃いの虹色のステッカーがあれば、そういうことだと思う方が自然だったはずだ。「グローバル的」な流れではその方が多数派なのだから。

それなのに。

「感染拡大を止める」と全く別の目的の意匠でレインボーを使っている。これはおそらく、全くの盲点だったのだろう。もしも「そのような意味も込めました」と後付けしようものなら、さらにひどい話である。

たとえば、こんなことも予想される。日本語…というより漢字が読めない人がこれを見て、とある飲食店に入ったとしよう。もしかしたらその人は「あぁこのお店は安心できるのかも」と思うかもしれない。仮に当事者でなくても、変な話を聞くことがないとわかる場所は、ホッとできる。それなのに、聞こえてくるのが店主と他の客の差別主義的な会話だったら? そして……あまり考えたくはないけれど、「感染防止対策をやってるけど、それだけで、そんなつもりじゃない」と言う人だっているだろう。残念ながら。

この話、半分は実話だ。このあいだ偶然入ったお店がこのマークをしていたのだが、耳を覆いたくなる話を「店主が」していた。すぐに出たけれども。

つまり、誤解だらけで、誰にとっても迷惑なデザインだ。これで本当に世界に向けて「おもてなし」しようとしていたことを思うと、滑稽さすら感じる。

https://www.seisakukikaku.metro.tokyo.lg.jp/cross-efforts/corona/anewnormalwithcovid19.html

さらに、仕組みの設計にも問題がある(すでに言い尽くされていることだが)。

基本的には用意されたデータを各自で印刷する。印刷できない場合は郵送できるが、原理的にコピーも可能だ。むしろ推奨している。ましてや、ステッカーの掲示がないと店舗・事業所の営業できないという性質のものではなく、ただの呼びかけに過ぎない。

そんなザルのようなステッカーだが、掲示するための申請は、さまざまな情報を渡さなくてはならない。事業所名や住所、電話番号などを東京都のHPに掲載される。取材NGや連絡先のメディア非公開でやってきた事情などは考慮されない。また、東京都あるいは「その指示を受けた者」の立入検査を拒まないことをに同意する必要がある。しかも「場合によってはオープンソースとして第三者に公開されるかも」という項目には最初からチェックマークが入っている。どこかのECメルマガのようだ。

https://www.bousai.metro.tokyo.lg.jp/taisaku/torikumi/1008262/1008420/index.html

それでも多くのイベントや店舗で使われているのは、背に腹が変えられないからに決まっている。

ここ数ヶ月、クリエイティブの力の必要性が語られる場面が増えた。確かにこういう齟齬が起きないように、クリエイティブの力は活用すべきだ。ただし、それは決して未来の話ではない。現在進行形の課題として、わたしたちの日常のそばにある。少し前に一部で盛り上がったローソンのPBパッケージリニューアルより盛り上がらない。いくらインフラ的な側面もあるとはいえ、ローソンも民間企業。東京都の政策は大手企業の経営戦略よりも公共に関わる問題だ。もしかしたら政治的な配慮のなさはもっと強いインパクトを持っているかもしれない。多くの人は、距離が近すぎて見えていないのだろうか。

それにしても。こんな時に、ほんとにどうしてやってしまったのだろう。全くわからない。意見を通せる立場の人だっているはずのに。その立場にある人が口をつぐんだのか、その人の訴えが聞き入れなかったのかは知る由もない。ひとつだけ言えることがある。2020年の夏に「虹」を無意識に選んだ自治体が世界を「おもてなし」をするのは簡単なことではなかった、それだけだ。

Photo by Denise Chan on Unsplash

ゼクシィとりぼんがコラボしたヤバさを誰も知らない

集英社の雑誌『りぼん』とゼクシィが8月号でコラボした企画が話題だ。と言っても、対象になるのは『初×婚』(ういこん)という作品のみ。柱となるのは次の3企画。

①『りぼん』綴じ込み付録のオリジナルミニ「婚姻届」

②『ゼクシィ』のカバーガールと同じ格好・ポーズの主人公が『りぼん』の表紙を飾る

③『ゼクシィ』のコンテンツにヒロインと恋人候補が登場

つまり、どちらかと言えば『ゼクシィ』の読者よりも、作品のファンに向けた企画と言ってもいい。それなのに、『初×婚』の世界観が活かしきれていないのがもったいない。さまざまな観点から問題を指摘する声があるが、作品との関係性について、もっと語られるべきだと思う。

とにかく『初×婚』はスゴい

『初×婚』(ういこん)は黒崎みのりが『りぼん』で連載中の学園ラブコメ。両親を事故で亡くした主人公が夢を叶えるため全寮制の新設高校へ入学するのだが、そこは大手IT企業の社長夫妻が設立した変則的な学校。自社開発の高性能マッチングシステムに選ばれた男女のパートナーが3年間同じ部屋で寮生活を送る。最終的にナンバーワンに選ばれたカップルは卒業と同時に入籍、夫妻から社長の座を譲り受けるというシステムだ。選出するのは社員たち。学校の成績に加えて、課外活動やカップルとしての行動、SNSのは逐一点数化される。「いいね」もらうため、〈世界一の夫婦〉を目指して生徒たちは日夜奮闘する。そう、主人公は、かつて失った温かい家庭を手に入れるために全力で入学したのだ。ちなみに、部屋の中で「過度の接触」があった場合は警報が鳴るシステムで、セキュリティ的にも安心。……とどのつまり四六時中、外から監視されているのである。

ディストピアSF的な衝撃設定に驚くものの、読んでみれば上質な日常系ラブコメだ。正義感の強い純情な主人公とイジワルで賢いイケメン相方をはじめ、周囲の友人のキャラクターは90年代以降のラブコメを正しく継承しており、幅広い年代に愛される資質がある。大コマの使い方や人物の動き方のバランスがよく、最近の少女マンガを知らなくても戸惑うことなく物語に入っていける主人公が相手を「好き」と感じるまで単行本3巻を要する展開もいじらしい。スペック至上主義の中で優しさや思いやりを大切にする主人公が知らぬ間に周りを動かしていく様には心が洗われる。

何よりも、先ほど「ディストピアSF的」と書いたけれども、実は今のわたしたちの生活も、似たようなものなのかもしれない。ここまで露骨ではないにしても、マッチングアプリで出会うことも特別なことではないし、SNSの投稿だって気にしている。だから日常系

ラブコメにすら感じてしまう。要するに、このマンガは本来、このように色々なレイヤーで語れる、豊かな作品なのだ。(*1)

せつない「共犯」

そんな人気作品とのコラボ企画。肝心なのは両者に「いつもと違う読者層」を流入させることだ。

まずは、少女マンガを卒業した女性に『りぼん』の作品を知ってもらいたいという試み。結婚式情報が目当ての読者にとっては、③は読者参加型のお役立ちコンテンツであり、流入先は『初×婚』単行本。マンガの雰囲気も伝わってくる。これは成功しているだろう。

そしてもうひとつが『りぼん』からの流入。むしろ、このコラボはゼクシィ側に作品が登場することで完結する。そこで気になることが出てくる。

ちなみに、一部で盛り上がりを見せた①の「婚姻届」だが、書式や記載する内容が役所の様式ではないので使えない。妄想強めであることは、罪ではないと加えておこう。しかし、『ゼクシィ』8月号も一緒に買うとなれば話は別だ。

表紙②を見れば、主人公と同じポーズ、同じドレス姿のモデルがいる。「コスプレ」ではなくて、あくまでお洒落で自然に、生身の人として現れるのだ。その違和感は、フィクションと現実がいい具合に混ぜ合わせる。数年後への過度な期待や、反対に、自分の状況を思って心が萎えてしまったり。大人が「面白い」と思う以上に敏感な部分があるはずだ。

さらに中面のコラボコンテンツ③が現実的過ぎる。結婚してから2人関係がどう変わったか?というアンケート記事で、実際のカップルの肉声は生々しい。再構成されたマンガも、載っているだけでうれしいものだ。ほんの300円で、小学生・中学生が「現実の結婚」のスペックをまざまざと見てしまうのである。さらに、ここには役所での申請が可能な「本物の婚姻届」も載っている。自分の「おままごと」に気づいた少女は、そう簡単に戻れないものだ。『りぼん』が色褪せて見えるのではないか? そんな光景がまぶたに浮かぶ。

作品と相性の良い企画に見えて、実は諸刃の剣なのだ。

該当箇所(状況をわかりやすくするための図像として掲載しました)

広告と作品の関係

この企画は、『りぼん』の読者に自らの意志で『ゼクシィ』を手に取る体験をオフィシャルに作り出した。制度としての婚姻が不可能な年代を中心に、結婚という手続きをシミュレーションさせている。

もちろん、「お仕事体験」が特別なことではない世代だ。将来を具体的にシミュレーションすることは、今の十代にとって普通のことなのかもしれない。投資の勉強など、実学的なワークショップも取り入れられいると聞く。現実を見ることが悪いわけではない。

さらに、『ゼクシィ』にしてみれば、早いうちに未来の顧客を獲得したいところだろう。ハウスメーカーや金融機関の広告と同じだ。若い頃の好感は、長く続くもの。「いつか」が現実になった時に迷わず手に取る、そこまでの心の障壁は取っておきたい。その意味では、現時点で成功しているに違いない。広告から得られる価値は高まっている。

しかし、同時に警戒も必要だ。

『ゼクシィ』が喧伝する結婚観を手放しに現実の世界で祝福することは、多様性という言葉を置いてきぼりにする行為につながる。それを目指す人がいてもいい。しかし、それをしないからと言って排除するのは作品の意図から離れてしまう。

女子の中で圧倒的に多いのは「社長夫妻」の「内助の功」的なポジションを心地よく思う女子だ。ただ、中には職業としての社長業を狙って入学した生徒もいる。彼らは成長の途中でもあり、定型キャラの斜め上を行くこともしばしば。これからどうなるかはわからない。

もちろん、この学園の仕組み上、クィアなカップルはAIが判定しないし、おそらく入学できていないはずだ。なぜなら規則で「男女のカップル」と決まっているから。そして日本では戸籍上「男女」でないと婚姻届が出せないことになっているから、結果的には試験で落とされたのだろう。

これは翻ってみれば、そもそも現実の私たちも閉じられた空間にいるのだと体感していることでもある。折しも「変な校則」が槍玉に上がる今日この頃。作品の意図に関わらず、世の中の状況によって、そのようにすら読めてくる可能性がある。単純化したコラボの図式に当てはめることで、そのような可能性を外に追いやってしまう。

「異色作」の休載中のできごと

さらに、気になることがある。

去年まで、雑誌『りぼん』では『さよならミニスカート』が連載されていた。その主人公は元アイドル。握手会で見知らぬ男から切りつけられて引退後、身分を隠して地方都市に住んでいる。学校で一人だけスラックスの制服姿で通学して陰のある中性的な人物として通している。そこで起きるクラスメイトとの摩擦や恋愛を世の中の卑劣に抗いながら「女が生きていく世界」を考えさせられる事件が続くスリリングな展開だった。だが、2018年9月号から始まった連載は、2019年6月号を最後に休載している。

開始時には「異例」ずくめの話題作として盛り立てようとしていた。(*2)『ジャンプ+』で並行掲載をすることで読者が増え、手応えは大きかったはずだ。制作側も発言の機会が多かったと記憶している(*2)

しかし、それは対話ではなく分断を可視化するに留まり、結果的に休載されたまま1年以上が経過している。もちろん、休載の理由は関係者ではないのでわからない。しかし現実として休載の事実があり、強く推し出す後継作も特に見当たらない。現時点で、特に必要ないと思われているのだろう。そのような中で用意された企画なのである。

一方、その頃『ゼクシィ』は……

そもそも『ゼクシィ』は挙式と新生活に向けて必要な情報を掲載する、結婚に特化した広告媒体だ。しかし、この企業はほんの3年前に画期的な判断をしていた。

それは2017年のキャンペーンで採用されたコピーだ。

「結婚しなくても幸せになれるこの時代に、わたしは、あなたと結婚したいのです」

このキャッチコピーは男女を問わず共感を呼び、担当コピーライターがTCC新人最優秀賞も受賞し。いわゆる「大御所」と言われるクリエイターも唸った。ダイレクトな商品訴求ではなくて、時代の空気感に迫るもの。一見逆説的にもとらえられそうだが、これこそブランド訴求に寄与すると考えた決定に拍手がおくられた。クリエイティビティ的にも、世の中の反応も実りあるものだった。もちろん、このインタビュー(*3)でも述べられているように、世の中にある空気を汲み取った結果である。企業姿勢として多様性を追求するというものではない。

だからこそ、だったのだろう。今年のコピーは「幸せが、動き出したら。ゼクシィ」というもの。「やっぱり幸せは結婚するしかない」という反動的な動きであることは明白だ。つまり、世の中の空気がそのようになっていると読んだのである。やっぱり結婚至上主義になってもらわないと、困るのだ。

「女の子の味方」の正体

『ゼクシィ』と『りぼん』の揺らぎ方は相似形をなしている。それは両者が「女の子」に同じくらいの影響を与える力を持っているからだ。この揺らぎ方は「女の子」が置かれている状況を如実に表している。

そもそも『りぼん』はこれまでにも、多様なキャラクターや物語を生み出してきた。長い歴史を見てみれば、決して『さよならミニスカート』だけが異色なのではない。

しかし、外部から語られるのは「どれも同じに見える」「少女趣味」「凡庸」という景色である。その理由は明らかだ。『りぼん』の外側にいる者が「かくあるべき少女像」を抱いているからだ。読んでもいない作品に対しても、その眼差しが反映されている。

だからこそ、その視線は乱反射を生む。発信する側(この場合『りぼん』という媒体)「かくあるべき」と見られている世間の目に応えようとするほど「かくあるべき」という作品を多く作り出すことになる。そして素直な読み手が好意的に読む。結果的にそれが雑誌としてのアイデンティティを強固にしていく。

いみじくも、作者・牧野あおいへのインタビュー(*2)に世の中が求める「王道」が載っている。聞き手が最初に漏らしているように、〈読者層を考えると本来、「キラキラしたアイドルを目指す女の子の物語」が王道かと思〉われているのが実情だろう。一般的な(男性の)反応は、稲田氏の記事(*4)が代弁しているはずだ。作者が〈女の子が困難から立ち直る」が一つのテーマですが、男女の違いに悩んでいる子に対しても味方になりたい。〉と訴えるのと裏腹に、それさえも「女の子の味方」でありうる。

「ゼクシィをいそいそと買う女の子」は、ある意味で男性が「安全に思う女の子」だ。対極にあるのは、その前に「別姓がいい」「嫁?パートナーって呼びたいな」とサラッと言われたり、「結婚はできないけど、好き」と言われたりすることだろう。

20年代、明日はどっちだ

そもそも社会というものは、自分が思うようには回っていない。現在の社会は、数十年前と比べて、当然変わっているところもある。しかし、変革を望んでいる人が思うほどには、変わっていない。

つまり「変わっているはずだ」というのは思い込みなのである。旧い論理で世界を回している人と同じくらいの強度で。つまり、どちらも幻想を抱いている。残念ながら、どちらが強いのかと言えば、正しさではない。圧倒的にうまくやっている方が強い。特に不都合がないのであればなおさら、その傾向は止まらない。

それは良くないことだ。ただ、2019年の「あいちトリエンナーレ」やハッシュタグデモの顛末、偶発的に起きたCOVID-19の大流行、都知事選、そのようなことを思い出してほしい。正義を主張するだけでは分断を生むばかり。「まったく楽しくない」で終わってしまう。だから結局多くの人が、楽な方へ、怒らないで済む方を選ぶ。

ここ数カ月、非常時だからと、結婚願望が高まったり、ペットを飼う人が増えたりしたそうだ。その裏返しとして、#StayHomeで恐怖が増したり、中高生の妊娠が増えたり、譲渡会が開かれなかったり、という弊害もあるのだが、やはり人は暗いニュースよりも幸せな報せに興味がある。

さらに、突然槍玉に上げられた彼らはなぜか、上段から手を差し伸べる術を持っている。「疲れていませんか?」と語りかける。ここで不思議なのは、マイノリティの側から同じことを言われるても、気分を逆撫でされた経験をすぐに忘れてしまうことだ。

しかし、やはりうまくいく方が強い。これまで通りにその手を握ることは、一定の安心材料でもある。つまりこの企画は「やさしさ」でできている。ちょうど今、#MeTooやエンパワーメント、多様性といった概念でターゲットにされた人の側も疲れている。そして怒るのも正直、疲れる。

繰り返しになるが、楽な方へ人は流れるものだ。ということは、つまり……「楽なこと」と思われなければ、いくら正しくても、多くの人を動かせない。それでは世界を少しでも変わらない。怒るために怒っているのではない。笑うために、わたしたちは怒るのだ。それはできるだけ、忘れずにいたい。

今回のコラボ企画は警戒すべき点が多いのも事実だ。しかし『初×婚』という作品は、そんなことも杞憂に終わらせてくれる作品になる可能性がある。この表現が20年代を象徴する表象になるかどうか。わたしたちは今、その分水嶺に立ち会っている。


*
1
http://ribon.shueisha.co.jp/rensai/uikon/

*2
https://www.cinra.net/column/201903-sayonaraminiskirt

*3
https://www.advertimes.com/20171207/article262533/

*4
https://www.premiumcyzo.com/modules/member/2019/09/post_9511/