(補足)「ヒロシマタイムライン」二重の危うさについて
昨日書いた記事だけど、やはり補足が必要だと思う。
フィクションを描くにあたり、「ひろしまタイムライン」は、「烏丸ストロークロック」から監修として柳沼昭徳、広島を拠点に活動する「舞台芸術制作室 無色透明」からサポートとして坂田光平を迎えている。ただ、彼らがどこまでかかわっているのか定かではない。この状況で言えることは少なすぎる。
柳沼氏は地域に根差した演劇プロジェクトを行なってきた。東日本大震災後の仙台で完成させた「まほろばの景」も幾度かの修正を重ねて、上演を重ねている。
とにかく、放送局がこの企画を中途半端に進めたわけではないのはわかる。しかし、だからこそ、そこで生じた齟齬を、誰かが掬い上げることができなかったのだろうか?
結果的に、これは広島在住の「日本人」のための、「日本人」に向けたコンテンツだ。その「日本人」には、外国にルーツがある者は入っていない。そしてこのコンテンツは、日記を残すことができた割と恵まれた境遇にいる人が、良識者として代弁している。
その世界を見る目は一方的である。自分たちがどのように世界から見えているのかは気に留めていない。当時の「日本」と同じような図式である。同じ瞬間、世界には、別の視点で「日本」を見ていた人も存在していたことを、2020年のわたしたちは認識しているのに。
思うに、75年前の「当事者」の声を聞きすぎたのではないか? いま暮らしている75年後の世界で、どのように受け止めるかが重要なのに。声なき声の「間」を拾うというのは、そういうことではないはずだ。
これはあくまで推測に過ぎないが、Twitterで「上演」をするような感覚があったのかもしれない。ゆるアカウントがキャラを使って繰り出すツイートは、まるでセリフである。ただ、昨日の記事でも触れたように、Twitterは舞台とは異なる、開かれた空間だ。それゆえの危うさを抱えている。
もちろん、そこまでの意図があったのかは想像に任せるしかない。しかし、表面を見るだけでも、実験的なプロジェクトであることは確かだ。過去にも、ある意味「ネタ」として歴史をなぞる試みはあった。たとえば関ヶ原の戦いの同日、「今頃小早川が…」「ここで形勢が…」というツイートが流れたのだった。しかし、これは10ヶ月もの間行われる(予定)プロジェクトだ。これまでに例のない実験には、危うさがつきものである。
つまり、二重の危うさを抱えていることがわかる。そして同時に思い出すべきは、この街に原子爆弾が投下されたことに、実験的な側面もあったことだ。「実験」という意味を与えることは免罪符にならない。少なくとも75年後の2020年において、それと引き換えに人の苦しみを肯定することは、よほどの覚悟を背負う行為なのだ。