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世界一危うい「マスメディア」のTwitterに登場した、救いのないフィクションについて

ほんの数週間前に好意的に受け入れられていたTwitterアカウントの企画がヒートアップしている。いまのところあまり言われていないけど、「Twitterというメディアをわかってない」「安易にフィクションに頼ることで【虚構】の力を萎えさせた」ということがヤバいと思う。だってNHKなのに。


そもそもの問題は……

そもそもの発端はNHK広島放送局が企画した「もし75年前にSNSがあったら? 1945 ひろしまタイムライン」である。これは3月から行われている試みで、当時広島に住んでいた3名(中学1年生シュン・新聞記者の一郎・新婚主婦やすこ)の日記をもとに、3人のキャラクターが発信する体裁をとっている。日記に描かれなかった部分は、想像しながら創作しちているという。被爆75年を機に、若い世代にSNSを通じてリアルに知ってもらおうという意図だそうだ。

今回、問題が指摘されたのはシュンのツイート。いまNHKの放送であれば通常使わないであろう言葉が散見される。どうしても使うべき場合は、断りの文を入れるレベルのものだ。どういうものだったかは、いまのところ載せるつもりはない。下記にアカウントを載せておくので、気が向いたら8月20日のツイートを見てもらえれば。

シュンのアカウントです。

これに対して、NHKの回答は以下のとおり。

[当時中学1年生だった男性にとって、道中の壮絶な体験が敗戦を実感する大きな契機になったことに加えて、若い世代の方がにも当時の混乱した状況を実感を持って受け止めてもらいたいと、手記とご本人がインタビューで使用していた実際の表現にならって掲載しました。]

https://www.nhk.or.jp/hibaku-blog/timeline/434538.html

これに対して「そこじゃない」というリプ・エアリプがついている。確かにその通りだ。

春先にこれを知った時にも嫌な予感がかすめた。「原爆から75年で節目の年なのに、だんだん当時を知る人も亡くなり、建物も朽ちていく……広島市でさえ継承が難しい問題」を取り上げていた番組で、この企画を語っていた。その「若者=SNS」という無邪気さに不安がよぎった。この方々はTwitterをわかっているのだろうか?と。


ツイートは全世界でアクセス可能な断片

Twitterは全世界からアクセス可能だ。アカウントから配信するということは、全世界同時にタイムラインに流れているのである。わからない言語でも、最近はGoogle翻訳がついているので割と読めてしまう。ただ「割と」読めるだけであって、トンデモ翻訳になっている可能性がある。機械翻訳が翻訳しづらい口語は誤解を招きやすい。つまるところ、全世界に向けて発信されていること、忘れてたのだろうな。日本以外のルーツを持つ人も、日本・広島に住んでいるのだが、それについても、考えていなかったのだろうと思う。ひどい。

さらに、ツイートはただの断片に過ぎない。今回「ツイートごとに注釈を入れたら」いう意見もあったが、それだけで140文字なんてすぐに埋まってしまう。熱心なフォロワーよりも、流れてきたツイートに「オッ」と反応することに気を配らなくてはならない。ネガティブな情報の拡散力は激しいのだ。

もとより、彼ら3名のアカウントのコメントは、割と古風な表現が並んでいる。そこには古き良き面影もあるかもしれない。同時に、亡き祖母が使っていたけど右翼としか思えない言葉がサラッと書いてある。全然よくないことけれど、当時は使う人もいたのだろう。阿久悠の『瀬戸内少年野球団』を小学生の時に読んで「この子たち怖い…」と思ったことがあるのだが、それと同じだ。

しかし、今回のようにヒートアップしない限りは、特に問題にされなかった。おそらくフォロワーになれば文脈もあるので「そうか、当時はこう考えてたのね〜考えさせられるな」とも思うだろう。しかしご存知のように、爆発的に盛り上がるのは、脊髄反射的なレスポンスだ。特に今回のようなネガティブな反応が炎上しやすい(ということを「NHK特集」か何かで観たばかりなのだが……)。


妄想による妄想のためのツイートの行く末

そもそも、これらの内容は真面目であってもフェイク的と言ってもいい。「いま」という言葉を使いながら1945年のことを書いているのだから。もちろんTwitterで架空のキャラクターが扮しているアカウントは数えきれない。過去のことを延々と載せるbotもある。しかしこれは、国を代表する放送局が送り出すアカウントだ。それなのに、フェイク的なbotを流して無責任が過ぎる。ツイートする時にデフォルトで「いま何してる?」と表示されるが、本来は「防空訓練終わった」などと答えられるわけがないのだ。

そして、どこまでが日記に書いてあった出来事なのか、どこまでがキャラクター創作なのかが不明瞭なまま、タイムラインは更新されていく。キャラクターが歩きだすということは、自然とそういうことになるのだが、この題材を使う時に適切だろうか? 昨年の「全裸監督」でも示しているように(その例を持ち出すことさえも「不謹慎」と言われそうだが)、現実をベースにフィクションを立ち上げるのは、なかなかの危ない橋だ。

極め付けは「#もし75年前にSNSがあったら」というハッシュタグである。

この「if構文」の使い方がまずい。あるわけがないのだ。それは想像力の問題ではない。SNSがあったら、そもそもああいう形での戦争は起きてない。これは歴史を扱う企画として、穴のあいた餡ドーナツを作るようなものだ。ふと思うことがあってもいい。けれども、それは単なる妄想だ。この人たちが「2020年にタイムスリップしてきた」なら、まだ良かったのかもしれない。

しかし、現実にまずいレスポンスをわたしは目撃した。それは原爆投下以降のツイートに対しての反応だ。「もしも75年前にSNSがあったら、励まし合えるからこんなに孤独じゃなったのに、やりきれない」といったもの。書いている人が真剣なほどツラくなる。禅問答のようなif構文ハッシュタグがツイートされるとき、「お題の答え」は「あったら良かったのに」を誘導する役割を担っている。それはミスリーディングだ。


無意識的なメディア選定の狂い

底本にしたのが日記というのだが、そもそも、日記とツイートは、だいぶ違う。ツイートは瞬間的にワッと言ってみるものだ。しかし、日記はそうではない。もう日記を書いている人も少ないとは思うのでブログでもいいが…いや、ブログとやはり違う。日記は「今この瞬間に見てもらう」のではない。10年後の自分や、後の世に誰かが見るかもしれないと思えども、すぐに誰かの反応を聞きたいことは書かない。その日の出来事を反芻して、書き留めることと、胸の中にしまっておくことを取捨選択して、記録する。ペンや紙が限られていた当時であれば、なおさらだろう。

つまるところ、この企画はハナから媒体を間違えている。「1945ひろしまタイムライン」という別のWebサイトを作り、そこで似たような仕組みを稼働させることだって可能なはず。

日記を口語体に直して毎日UPするのではダメだったのか?前にも書いたが、実際のSNSに流さず、「1945ひろしまタイムライン」という架空の次元をwebサイトに立ち上げるのではダメだったのか? 広島の日本人だけではなく、いろいろな当時の日記を時系列で見せていくという手段もあったはずだ。

最終的に、NHK_PRさんなどで「更新」をお伝えすれば、もっと広く知ってもらえたのではないか。


もはやTwitterは「マスメディア」

ここのところ、Twitterがキャズムを超える以上に広がりきった結果「マスメディア」化している。他のマスメディアと異なるのは、情報を発信する側も受信する側も「危うさ」を抱えている点だ。因果律が通用しないところで、突然炎上したり注目されたりする。

タイムライン機能は人の目が追える限界に挑戦しているので、自分のタイムラインに複数上がっていたら「すごい話題」だと錯覚してしまう。ひとつひとつはそうでもないけど「それぞれ」が「みんなが話題にしてる」と錯覚した時に「Twitterで話題」になる。しかし、ほとんどのバズの数字は、従来のマスメディアからするとたいしたことのない範囲だ。テレビの視聴率1%は、誤差はあれど100万人程度に換算されるといわれている。平均視聴率が1%台の番組は、景気が悪そうに感じるだろう。しかし、一度に100万ビューというのはとてつもない数字に思える。それがマスメディアに登場するだけで、マスコンテンツになる。

多くの人が気付いている通り、最近テレビのニュースや情報番組で「Twitterで話題」「ネットで注目」というコンテンツが増え過ぎている。「こんな過激な意見がある」「こんな動画がある」という事実を従来のマスメディアが流す時、それは突如マスコンテンツとして再生成される。

「Twitterで話題」というコンテンツは、ほとんどの場合は「あぁ知ってる」という情報だろう。どこでも観られない、かわいい特ダネを見つけることをしない。いっそのこと、番組スタッフのニャン子姿をインスタにもTwitterにも上げず、その番組だけ流したほうが、よほど観る価値があるだろう。

もちろん、ツイート内容に関する規制はない。たとえば民放連に代表されるような業界団体もない。けれども実質的なコンテンツの拡がりからすると、もはやマスメディア並に影響力を持っている。それでいて、最終的にはあくまで個人の意見であると収斂されていく。


Twitterアカウントのキャラ変

企業やサービスの広報として「中の人」やキャラクターが扮する、ゆるアカウント(軟式アカウント)は人気がある。特に広報アカでは異動による「中の人が交代します」卒業ツイートへのレスがつくほど。他社のアカウントの発信にかぶせて、自社の商品をアピールしたり、コラボが決まったり……人間味のあるやりとりがTwitterの良さのひとつと思われてきた。けれども、だんだんとそうではなくなっている。

Twitterの日本進出が整った2009年頃から、このようなアカウント開設が相次いでいた。いち早く自国の新サービスとして活用していたアメリカ市場でも同様だ。というより、たぶん真似をしたのだと思う。しかし10年以上が経過した2019年に入ってから、先行するアメリカでは、そのようなアカウントへ一般の人が冷めた視線が目立つようになってきたという。「中の人」がミームを生み出す内輪ウケに食傷したようだ。

ウケ狙いのゆるいSNSが「オワコン」な理由/東洋経済ONLINE

コミュニケーションの軌道修正をしているアカウントは増えているようだ。しかし日本では……ゆるアカウントがここまで増殖してしまっては、もう手遅れかもしれない。現実にもゆるキャラがたくさんいるのだから。

今回作られた3つのアカウントも、その延長に過ぎなかったのだろう。


フィクションの暴力性に対する脇の甘さ

そもそも、この取り組みは正解なのだろうか? ある惨禍を当事者以外がフィクションにすることについて、国内でもいろんな見解が交わされてきた。記憶に新しいのは東日本大震災のことだ。当事者以外が描く「震災後文学」については語るのが難しくなっている。原発についても、津波についても。

そもそも「戦争を知らない」世代が経験していない戦争を語ることについては始めから批判されているし、その世代が中心となった学生運動ですら、その後の世代の切り口は変容を指摘される。いずれにせよ、この国で当事者以外がフィクションとして記すときの解は、まだ得られていない。

ましてや、実在の人物をトレースしたキャラクターを「操作」するには、たいへん高度な技術が必要なのだ。「虚構の物語」を描く作家として緻密な仕事が求められる。

まずは文語調で書かれたものを、今っぽい喋り方でリライトする難しさ。橋本治の「桃尻娘」や大和和紀の「あさきゆめみし」の完成度に近づくには、どれほどの文学性が必要だろうか。企画において、日記に書かれていない日の出来事は、他資料を参考する、想像してみる等でツイートを続けているという。どうしてここまで現在に寄せてくるのか。今っぽい喋り方をすることで、日記の中のそれぞれの振る舞いの違和感が生じてくる。それはもう、キャラクターがちゃんと動いていない状態だ。

実際には、作家を入れるなどはしていないようで、この辺りに覚悟の足りなさを感じる。虚構を立ち上げる時に、通常のTwitterアカウント運営のノウハウは通用しない。全く別の技術が必要なのだから。


本当に求められる虚構の力

過去の惨事を固有名で向き合う時に、虚構の持つ力は絶大だ。もちろん、ある種の暴力が発生する。しかし、事実と対峙するには必要なことだと思われる。HBO制作のドラマ「チェルノブイリ」の受容について、昨年盛り上がったことを忘れてはいけない。

【 #ゲンロン友の声 】私たちは今できるかぎりの虚構に触れるべきなのだと思います。/genron note

ドラマ『チェルノブイリ』、事実がまっすぐ伝えられない状況は、まさに今の日本の姿だ/速水健朗:Newsweek Japan

SNSの台頭によって、わたしたちはもうずっと「事実は小説より奇なり」という言葉に支配されていないだろうか? しかしそもそもは、バイロンの作品の中で生まれた言葉である。密着ドキュメンタリーには作れない虚構の力はまちがいなく、あの戦争にだって適用されるものだ。

そしてこの企画、下記のイタリア制作の番組に着想を得たのではないかと推測している。何かしら、少なくはない影響を与えているはずだ。先日、NHKで放映もされた。

『#アンネ・フランク 時を越えるストーリー』

しかしこちらは立て付けが圧倒的に違う。こちらはSNS世代の若者が、アンネ・フランクの足跡を巡り歩き、本人の視点で「アンネの日記」を読み解くドキュメンタリーだ。日記をリライトするだけではなく、実際に歩き、その場所に触れて、自分の考えを組み立てていく。この映像を通して私たちは、その様子を追体験することができる。その時、視聴者も自分なりの答えも出せるかもしれない。

いずれにせよ、そのような力強い虚構の力を使うには、Twitterのゆるアカウント運用では荷が重かったはずだ。安易にフィクションを作り出したのは、ただの無意識だったのかもしれない。しかしその無意識的な行為が、メディア自らが媒体を取り違えていることを白日に晒した。ましてや、今回のことを単純化した「フィクションは紛い物」のような論調が出てくるかもしれない。そもそも停滞している事実から虚構を立ち上げる機会が、ますます限られてくる。ここに「現在の日本らしさ」が凝縮しているのだが、これで終わっていいはずがない。元にした日記は現実に存在しているのだ。願うのは、無闇な中止でも単なる続行でもない。伝えようとしていたことを現代の文脈で捉え直すコンテンツにつなげる方向に話が進めば、ひとつ変われるはずだ。そうでなければ、誰も救われない。

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