「個性」で生きやすくなるとは限らないのに
「個性は美しい」と人は言う。しかし、果たしてそうだろうか? 善きものとしての個性しか見ていない可能性に、もっと敏感になったほうがいい。
少なくとも現在の日本で、病気や障害を「個性」と捉えようと言ってしまえることの愚かさよ、と個人的には思っている。
そんな中で起きた、今回の花王ロリエのKosei-fulプロジェクトにまつわるあれこれ。広告手法や広告のありかた、生理に対する態度について、今回は取り上げない。ここで言いたいことはひとつ。
このキャンペーンに反対したいと思うなら、病気や障害を「個性」と言うべきではない。
なぜならいずれも同じ問題を抱えているから。
「生理を“個性”だととらえれば、私たちはもっと生きやすくなる」
それは、
「障害を“個性”だととらえれば、私たちはもっと生きやすくなる」
「病気を“個性”だととらえれば、私たちはもっと生きやすくなる」
と同じことなのだ。
そもそも個性……とやら。それは、そこまで美しいものだろうか? 生きやすくなるものだろうか?
この夏のはじめ、エッセイマンガ『普通の人でいいのに!』(冬野梅子/モーニング月例奨励賞2020年5月期受賞)がバズった。
この主人公への共感の声が広がっていた。サブカルチャーが好き(特にお笑い方面)で、そこで繋がった友人がいる。中庸のメンタリティ。しかし、大切にしているものを「ただの趣味」と笑われたら怒ることのできる知性も持ち合わせている。それをコケにした(ように見える)周囲に鬱憤をぶちまかそうとするのだが……わたしは、読み進めるにつれて共感というよりも、ステキな人だなと思った。社会は彼女のような「普通」の行いで回っている。この作品が賞をもらえるのもバズるのも、そうあって然るべき。とても正しい。
彼女が嘆く「普通」に憧れる人もいる。わたしはもう諦めているが、生涯手に入れることができない。かと言って、天賦の才があるわけでもなく、ただひたすらに「普通」になれないだけ。「普通」と自覚したのと同じように、苦しさの中で茫洋としている。「普通」になれなないことを絶望しながら、逸脱を求める。
しかしこの苦しさを持ってしても、かつてわたしが大事な友人を傷つけていた過去は免れない。というのも、数年越しに、ある人を傷つけるのに加担したと知ったのである。「経理っぽいね」「経理すごい!」と言ったのはお酒の勢いでもなく、接待スマイルでもなく、本気で感想を述べたのに。「この小説よかったよね!」と同じ感覚で。わたし自身はずっと、その部分ができないことで心を削られていたから、できる人に最大限の敬意をはらっていたのだが。でもそこで「ごめん!」などと言うのはまた違う。謝ればいいってものではない。
何はともあれ、わたしのまわりで「個性」はいまのところ、生きやすさにはつながっていない。現場からは以上です。
