読み込み中…

「わたし、小池百合子かも」と思ったら負け。

先日、『女帝 小池百合子』に関する書評をnoteに載せた。フェミニズムからの応答があまり見られないことの違和感とともに記したものだ。

https://note.com/spicyjam/n/n5cbd53514e70

しかし今日は「この本について思ったこと」を素直に書いてみる。

正直に告白すれば、わたしが「小池百合子」になっていたかもしれない……などと思ったのだ。

実のところこの本は都民のとある層に対する猛アピールになったはずだ。なぜなら、彼女が「生粋のお嬢様」ではないことが多くの人の知るところになったから。どうやら都知事は、世の中のことを知らない「お嬢様」だから冷たいのではない。戦いに身を置くことにスリルを覚えるから、あのような発言をしているらしい。

この戦う姿勢は「レディース」に似ていやしないだろうか?根性でしのぎを削り、できるだけ目立とうとする。このやり方は「ヤンキー文化」そのものだ。もちろん都知事本人は、そんなことを言われたくないだろうけれど。

あえて言えば、高貴な感じ、聖人君主的な感じがしない。だからこそ彼女に引き寄せられてしまう。好意的なシンパシーではないかもしれない。しかし、類は友を捨てがたい。

Photo by Evie S. on Unsplash

告白しよう。かくいうわたしも、かつてそのような一人だった。都知事がエジプトに留学した理由を聞いてホッとした。当人の話す「戦略的な選択」が自身の状況と似ていたからだ。

もちろん、わたしはカイロ大に留学などしていない。国立大(二期校)の外国語学部でマイナー言語専攻である。これは、家庭の事情・学力を掛け合わせて、少しの興味を足した最適解としての進学だった(大人になった今では「お前の頭はお花畑か」と言いたいが)。それが第一志望だと言い聞かせ、周りにも嘘をつき、卒業後も、家庭の事情など言いたくないから適当にごまかしていた。

しかしこれも「戦略だったんです」と言えば、なんかすごく、いい感じの社会人に見えてくるから不思議なものだ。

そして今回、読めば読むほど、困ったことに相似点が増えていった。良好とはいえない生育環境、生まれつきの身体コンプレックス。似ていないのは「特に成功していない」ということぐらいかもしれない。

いや、しかし。本当はそうではない。そんな風に思ってしまうことがトラップなのだ。名ばかりの占い師が、何も見ていないうちから「ずっと気にかけていることがありますね。それを解く鍵をあなたは持っています」と語りかけるようなもの。それこそ、ポピュリズムの思うツボである。

まず、進路について。多かれ少なかれ、ほとんどの人にとって、進路の選択は、常に現実的な問題がつきまとう。小学校・中学校・高校と卒業式を重ねるごとに、夢を語るよりも現実が幅を利かせてくる。

わたし自身の入学当時も「どうしてもこの言語をやりたい」と思ってきた人はかなり少なかった(教官からして「本当は東大に入りたかった」と言ってる始末)。要するに、進学の動機なんていろいろあるし、そこまで、目くじらたてるほどのことではない。都知事は、まったく普通の人なのだ。

他のことも同じだ。外見にしても、出自や環境にしても、自慢できない身内にしても……多くの人にとって、ひとつやふたつ、思い当たるフシがあるだろう。それは電車の車内広告を見ればわかる。エステ、脱毛、整形、語学、婚活、これらは「コロナ禍」においても「鉄板ジャンル」として群雄割拠している。

つまりは、本人に共感性があるかどうかは、共感を得られるかどうかとは、あまり関係がない。大事なのは都民が都知事に共感するかどうかだ。都知事の振る舞いが受け入れられれば、当然のことながら支持率は変わる。マスに共感されれば、支持は固くなるのだ。

何の因果か、この間の都知事選で小池百合子の得票率が極めて高かったのは、東京都の中でも「低所得」の住民が多く住む地域だった。ここで市区町村ごとの得票率を見ることができる。

https://www.asahi.com/senkyo/tochijisen/

また、下記では平均年収を見ることができる。

https://sumaity.com/town/ranking/tokyo/income/

皆まで言わないが、そこはかとなく感じることがあるだろう。

もしからしたら、ひと頃言われた「マイルドヤンキー」的な文化とも関係があるかもしれない。でもそれは、果たして笑って済ますことができるだろうか? 社会全体がそのような仕組みをまわしているのだから。

現に都知事は、弱者への配慮がなくても、発信力があると評価されて当選した。

https://www.nhk.or.jp/senkyo/opinion-polls/02/

それは、東京のみならず日本の社会で求められていることだからだ。

この数十年あまりにわたり、この社会が築いてきた社会は、そういうものだ。

自分にとって得になることを優先して声を上げる。客観的に見れば社会的弱者だとしても、自らを弱者と思わずに、さらに弱いものを虐げる。だから弱者への共感など不要である。そして、やましいことをしても人当たりが良ければ問題ないし、それぐらいが人間味があっていい。まさしくヤンキー文化なのだ。

投票率が上がれば都知事は別の人になっただろうか?そうではない。むしろ、投票率をあげるだけこの数字は増えてくるかもしれない。

生まれが恵まれない人が全員、ミシェル・オバマの手記を読んで触発されるのではない。一度憧れても、なかなかたどり着けないものだ。そこで挫折したときに襲われるむなしさが、ポピュリズムをいっそう危うい方向に導いていく。

都知事選で言えば…「小池百合子」氏は「ウチら」になる可能性が感じられるが、有力対立候補は「ウチら」になる余地が見えなかったのではないか。ちょっとでもやましいことがある、誠実じゃない有権者に対して警戒感を抱かせる姿勢が感じ取れてしまったのは否めないと思う。

そして7/16、「GoToキャンペーン」に東京発着について除外することになった。

同日は昼過ぎに「東京の感染者数は286人」の発表をした都知事。

「排除」するのがとても好きな人だ。都知事は、一部の職種・業種を生殺し状態にしながら、排除している。このような視線を作り出しておいて、東京自らが全国から遠い目・白い目でみられているのは、ガッカリしているだろうか。

いや、おそらくこれで「都民を救った」と映るかもしれない(おそらく、東京を除外するための根回しはしているはず)。このようなことが選挙の対抗候補にできたのか?それが今、社会で生きるのに必要とされてる強さなのだ。

確かに虚無的な強さだ。しかし、そのようにしか生きるように求められているのが日本の社会。日本の「顔」とも言える東京であればなおさら、その気配は濃厚になる。

少し前まで問題になっていた荒れる成人式の根本は、若者の愚かさではない。社会の不具合だ。「今が人生の頂点、あとはドン底が待ってるから、やるなら今!」と新成人が思ってしまうのは、彼ら自身だけの問題ではないはずだ。

いわゆるリベラルな考えを持った人は、そうした考えを失ってはいけない。GoToキャンペーンが東京を除外したとしても、それは決して「ハッシュタグデモをしたから東京が除外された」わけではない。それを勘違いしたら、ずっとボタンを掛け違えたまま。何も変わらないだろう。

それと同時に「小池百合子になったかもしれない自分」を呪っていても、一歩も進めない。そんなことに思い悩んでいたら「負け」だ。そうとわかれば、もう負け続けることに付き合うヒマはない。あなただって同じはずだ。

note更新しました【200706】

みなさん、いかがお過ごしでしょうか。noteの記事を更新しました。noteで新刊・近刊についての書評マガジン「ぼちぼちブックレビュー」を始めています。週1で更新しようと思ってたのですが、すっかり間が空いているという…。こちらは、そんな感じです。


君のコスモは燃えているか?2020

→これは、聖闘士星矢MOOKを読んだ感想なのですが、昭和の集大成・総決算だったんだな!という発見です。

そして、出来立てホヤホヤななのが、こちら。


セーラー戦士を閉じ込める「わたしたち」/『with』8月号

→with8月号の、セーラームーン婚姻届について、抗議とかする前にどうか読んでいただきたい記事です。

記事の長さからしたら、ここに載せるものかもしれませんが、対象が雑誌ということもあり「今」目に触れてもらわないと意味がないなと思って、noteに載せています。

よかったら読んでみてください!

ある名もなき俳諧師の話

こんなニュースがちょっと前にありました。

寺の墓地、国税が差し押さえ 税金滞納で異例の公売:朝日新聞デジタル https://www.asahi.com/articles/ASN5V7FLQN5VOIPE017.html

当事者の方々が心を痛めているのは言わずもがなですが、わたしも哀しいと感じました。資産運用でうまくいかなかったのは「お寺の経営をなんとかしようと思った」という、真剣な理由だったので、やるせない気持ちでいっぱいです。

でも、実はあまり驚きませんでした。それは、自分の曽祖父が神社を借金の抵当にとられた話を知っているからです。「そういうことって、あるよね〜」と。代々、宮司をしていたそうですが、その神社は山ごと、大正時代に終了してしまいました。

理由は、俳諧にのめりこんだからです。宮司親子2代にわたり、お弟子さんと一緒に俳諧の旅を重ねて大盤振る舞いをした結果、借金のカタにとられてしまったらしい。全国にいくつか、句碑が建っていたそうですが、きっと今では、草木が繁っていたり、朽ちて土に返ったりしているのでしょう。

その後、曽祖母の才覚で青物問屋として再興して、最終的に玄孫ができるまで至ってます。が、一家を大変な目に遭わせた俳諧について触れようという家族も少なかったのは残念なところ。祖母の姉だけが句碑の場所をまとめようとしていたところ、痴呆が始まり計画が頓挫。すでに鬼籍に入っています。

そんな話をことあるごとに聞かされてきたわけで、「俳諧」という響きに、なんとなく後ろめたさと胡散臭さを感じていました。観光しながら、句をひねるだけの旅で身を持ち崩すとは……。(本当は別のことに夢中だったのでは?などと考える始末)

しかし、今日は「俳諧がやめられない」という現象に納得しました。

ゲンロンカフェで安田登さんと山本貴光さんの「禍の時代を生きるための古典講義――第3回『おくのほそ道』『鶉衣』を読む」配信を観ていたのですが(有料・タイムシフトで1週間公開中→https://ch.nicovideo.jp/genron-cafe/live/lv326432214)、そこで語られた《おくの細道はTRPGだった》という安田さんの案内がたいへん魅力的。おそらく初めて「俳諧」の魅力を理解することができました。もちろん、芭蕉などとは比較にならないほど無名な曾祖父たちが同じだったとは言いません(明治〜大正の世の中ですし)が、「ただ景勝地に行って一句ひねるツアー」ではなかったことは確信しました。

二次元的な想像力と知性、霊感的なものが交わったところで快楽を求め、終わらないゲームを楽しみ続けている。しかも、仲間たちと。

これは……もしかして……玄孫のわたし、日常の風景なのでは……?

血は争えないという言葉は、あんまり使いたくないですが、仕方がありません。まったくもって、その通り。「血は争えない問題」は他にもいろいろありますが、とにかく俳諧について、もっと深めたいなぁ。

サードプレイスは幻想か

「米スタバ、持ち帰り・デリバリーへのシフト加速 「コロナ後」見据え」https://forbesjapan.com/articles/detail/35150

さんざん「サードプレイス」を掲げてきたのに、ひどい方向転換だ。企業が決めたことなので、抗議するわけではないけれど。学校でも、家でも、オフィスでもない「自分の時間」を過ごせる場所。結局のところ、それは外側に依存していただけで、自分で制御できなかったのだなと打ちのめされる。

スタバだけの問題ではないし、日本でも同じことだ。カフェあるいは喫茶店は豊かな時間を提供してきた。多くの人にとって、息を吸うように自然なことだったので、無くなることを考えていなかったのだ。

居酒屋やファミレス、カラオケの深夜営業について、継続的に取りやめるところが増えている。

仕事で遅くなった(という言い訳をしたい)時、いる場所がなくなってしまう。「ちょっと、今日はこのまま帰りたくないのだが……」という時に、フラッと立ち寄るのが難しくなる。そこまでの決意を持たねばならないことだろうか。

Photo by Khara Woods on Unsplash

実際に、そういうことが起きている。

わたしはゲンロン主催のスクールに通って、かれこれ3年ほどになるが、その二次会の重要拠点のひとつである居酒屋が閉店になってしまった。周辺では動揺の声があがった(自分自身も瞬間的にMLへ投稿していた)。この衝撃は、まだ尾を引いている。

そして先日、22時過ぎのリモート仕事を終えた後に困ったことが起きた。自分に「お疲れ!」を言うための小腹を満たす・一杯をやる店が、どこも空いてなかったのだ。「せっかく頑張ったのに…くぅっ…なぜ…」と、昼も食べてなかったので空腹がたまらず、コンビニで飲み物とつまむものを購入。夜の公園で一人飲みである。

世の中には、「おうち◯◯」や「#StayHome」を避けたい人もいる。けれども、家族の絆を声高に言う人が増えれば増えるほど、そういう声が消されていく。

仕事のデキる素敵な人が「なんか最近、在宅になってコーヒー飲まなくなりましたね。あれは結局場所を買っていたんだと思う。もったいなかったかも。いまは家でプロテイン飲んでますよ。家族との時間もできたし。もう、こういう働き方がいい」的な話をしてるのを聞いた。いいなぁ。勝ち続けている。

もちろん、本当に幸せな時間が過ごせる人は構わないのだ。家でも一人になれるだけの理解と、スペースがある人は、そのようにすればいい。そしてたまに、特別な時間を過ごすのもいいだろう。

けれども、それはやはり、限られた人だけの贅沢である。だからこそ、飲み食いをしたり、価値観を共有するための公共の場所が必要だったのだ。

民主主義はカフェから始まったと言うけれど、今回わたしは時代劇を思い出した。屋台や茶店、蕎麦屋でなら町人と侍が話をする(茶事も似たようなことはあるが、それは招かれなくてはならないのでこの場合は当てはまらない)。いま、時代劇チャンネルで流れているドラマの数々は、民主主義が産んだフィクションなのかもしれない。

わたしはいま「家」でも「会社」でもない場所でこの原稿を書いている。いちおう、サードプレイスを確保しているわけだ。他人から見れば、馬鹿なことだろう。家賃と二重に場所を支払い、在宅勤務ならしなくてもいい出費をしている。けれども、わたしが辛うじて生きてこられたのは、サードプレイスのおかげだ。これは幻ではない。幻想にしてはいけない。

だからと言って、わたしに今できることは少なすぎるのだが……。このような場所で過ごして生きていくこと。これは本当に、続けていこうと思う。

2020年のブラックホール

Photo by Hello I’m Nik 🎞 on Unsplash

ここ2〜3ヶ月ほどのあいだに、使いたくないワードが増えてきた。謎の造語がの増殖力がすごい。このままどんどん膨張していき、しまいには無になるのでは、などと思ってしまう。

もちろんすべてを調べているわけではないのだけれど、英語と日本語で、それらを使うときのモードが違うということに気づいた。日本語は、「わたしが〜します」「わたしが〜しよう」ではなくて「〜を守る」「〜してはいけない」が強く働く社会で使われているようだ。

たとえば、social disancingだ。「ソーシャルディスタンシング」のことを、日本でもはや「ソーシャルディスタンス」としか呼ばなくなってきている。

近い将来、特に地方の差別を取材した記事で「日本人があえてソーシャルディスタンスを使った理由」などというタイトルで記事にならなければ良いなと思う。もちろん、非英語圏ではこのような使われ方になりやすい。英語圏でもsocial distanceという語が使われてもいる。特に本邦の場合は単純に語感の違いでこうなってしまったわけだ。それにしても、根本的な違いがあると思われる。

それは、謎の造語にも表れている。

◆「三密」密だ・である」「密な」
サンミツか、ミツミツか。いずれにしても、わたしは使いたくない。厚労省の見解によると以下の通りだ。
1)[密閉された場所]……窓やドアが開いていない、風通しの悪い場所
2)[密集した場所]……人がたくさん集まっている場所
3)[密接した場面]………人と人との距離が近い場面

実は英語版も作っているのだけれど(3Cと呼ぶそうだ)、この手のイニシャルをとった形式は、英語にしても意味がないと思う。日本語話者にとっても、本当に効いているのか疑問だ。
https://www.mhlw.go.jp/content/10900000/000615287.pdf

◆夜の街
ただの職業差別用語。当然ながら、夜だけに発生するウイルスではない。今は陽性とわかった人のうち半分にも満たない人が「夜の街で●人」と謎のカウントをされている。

◆クラスター班
「これを避けよう」という、集団リンチ・ヒステリーの一歩手前を作り出している。差別の温床。血眼になって「クラスターをつぶす」と言っておきながら「差別はよくない」と言うのは現実からすると卑怯な話だ。

他にもいろいろ。賛否両論あるだろうけれど、わたしは使いたくないので否定的なコメントだけ載せた。いずれにしても、これらは「してはいけないこと」を挙げている。「●●を避ける」というだけで、何をすれば良いのかはわからない。

じゃあ何をすればいいんだろうって考えてみた。

もしかして、「ちょっと離れてみる」ぐらいのことではないか? 「三密を避ける」が意味するのは、要するに「ちょっと離れてみよう」なのだ。

公式見解やいろいろなところで「三密の発見が日本モデルを支えている」と強調しているけれど、一周回って実際にできることは「ソーシャルディスタンシング」という世界共通の考え方に近い。

要するに、どの国も同じようなレベルのことしかできないのだ。

ハッシュタグの快感、その行方【改】

Photo by bady qb on Unsplash

「#MeToo」は、たしかに世界を動かすコピーだった。良いことも、悪いことも加速させた。あらゆる物事にはいい面も悪い面もあるが、暗黒面にすぐ落ちてしまう。特に昨今のハッシュタグの使われ方は酷い。どの主張もおよそ、吊し上げと変わらない。

言葉は人を救うが、殺めることもできる。近ごろは、そのおそろしさを知っているはずの人まで、ためらいを見せずに、強い言葉を発している。わたしは、そこにたいへんな違和感をおぼえている。

声を上げることの暴力性を意識している人が、強い声を上げる。ということはつまり……「それ」への暴力を認めるということだ。その名前の付くものには何を言っても赦されると思っているのだろうか。

たとえば。「電通」への言及について。このことを書くと、嫌う人がいるだろうなぁとは想像がつく。片方からは「擁護するな」と。もう片方は「野暮なことをするな」「端くれで業界人ヅラするな」と。わかっていて、あえて書いている。

たしかに、過去に何度も過労死を出しているのに隠そうとするとか、ハラスメントがなくならないなどの問題は、社会のそこ彼処に存在している。「電通」固有の問題ではない。他の業界や会社、無数の組織がやっていることだ。つまり、ここ(特に日本)は、そんな社会なのだ。これを変革したいという気持ちの表出だとしても、この「なぶり方」は正しいのだろうか?

むしろ、雪崩式に行われることによって「そうしたものが何故なくならないのか」がよく見えてしまう。けれども発信者は、そんなことをしたいわけではないはずだ。「正しいこと」をしている。そう、だからこそ、ちょっと考えてほしいのだ。誰かが命を断つ前に。


抽象的な話をしても実感がわかないだろう。いくつか、業界の中の話をしたい。

広告代理店、あるいは広告制作会社には、いろんなイメージがあるだろう。しかしその本質は、基本的にサービス業である。内訳は「制作側」も「営業側」に分けられるが、どちらも目の前のクライアントや世の中の人に喜んでもらうための仕事をしている。

特に、省庁や自治体の仕事は「必要とされている」ことでモチベーションを保つことができるものだ。はっきり言って、簡単に利益が出せる仕事ではない。

入札で適正価格を、と言うけれども、そもそも国や自治体向けに、通常価格では受注できない。およそ予算は少ないから。もし世の中で「それが適正価格なのだ」と言うのであれば、どんどんデフレは進むだろう。そもそも入札のために制作した提案にも費用がかかっているが、多くはプレゼン費用が出ない。

いざ、受注となってからも大変だ。おしなべて担当者とのやりとりは行政文書的で、難航する。社内・協力会社のスタッフも疲弊する。ちなみに全ての作業を社内で行えるような会社は存在しないはずだ。もしできるとしたら、恐ろしい。

そんなわけで(わたしは直接存じ上げないが、おそらくは)、持続化給付金のサービスインにかかわった人は職種に限らず、自らをエッセンシャルワーカーであるという意気込みで携わっていたはずだ。いろんなところで不具合が起きた(ている)のは、医療ミスと同じぐらい致命的なことだ。けれども、それをいたずらになぶり続けることで解決しない。医療ミスを考えればすぐにわかるだろう。

それからひとつ、伝えておきたいことがある。実は、利益率の低い仕事を代理店本社で請け負わないのは、長時間労働反対の訴えの結果だ。だからそこを攻撃するのは、実はロジック的には矛盾している。本社で行うのは「極めて筋のいい仕事」が多い。時間も社員の数も限られている。全体的にクライアントの予算も減っていて、社員の工数管理に見合うものが減る。それがダメなら、会社の機能が成り立たなくなる。その結果が、外注に頼るということ。外注するのもダメだというなら潰れろというのか?…と穿った見方まで出てきても仕方がない。

そもそも、広告業界など、業界全体がクライアントから受注することで成り立っているもの。日本の企業の仕組みをドラスティックに変えようとせずに、代理店の異常さを煽っても何も産まない。(海外のような競合禁止を貫くのなら、中小企業を減らさないとダメだが、それは日本の社会にとって本当にいいことだろうか?)

ちなみに、「電通はダメだが博報堂はいい」という話はデマに乗っかっているにすぎない。そもそも長時間の打ち合わせは博報堂の文化。多くの人の目が電通に行っているので、気づかれないだけだ。……もっとも、博報堂はそうした戦略でカバーリングをしていると言えるのかもしれないが。それは、ただ着ぐるみでごまかしているに過ぎない。


しかしわたしは、ある意味ではラジカルな考え方の持ち主だ。システムを滅するという観点では、こういうのはいいかもしれないと思う。念のため言っておくと、提言などではなく「想像してみた」というレベルのものだ。

代理店は公共の事物の一切に関わることなく、すべての業務を直取引にする。

おそらく現場は疲弊するだろう。 もともと公務員の数を減らしていたところでもあり、大パニックが想像される。

もちろん、そうした業務に適した人はいるかもしれない。しかし、それに没頭していたら、元々していた業務ができなくなる。外注するのも、ひと苦労だ。

(Aコース)
現状の仕組みを変える。
自治体や省庁の1〜2年交代の持ち回り廃止。
なぜなら、現場がわかる人間がいないから。
体制づくりをするにも、人が足りない。
広報・制作業務の専門職を作っちゃおう。

コミューンの香りで面白すぎる。わたしはそんなものに入りませんが。

(Bコース)
良いものを作るとか周知してもらうとか、
あんまり関係ない。
わかりづらいと言われても、読んでわからないのが悪い。
時間を割かずに片手間で済ませよう。
名称とかロゴは市民・国民から集めればいい。
タダとか賞金数万円で済むから全部公募にしよう。

Bコースになる流れでしょうね。なんでも公募すればいいって感じだから。

しかし、これでもまだヌルいかもしれない。

国や自治体の業務に、民間が関わるときは利益を考えないこと。

これが、答えだろうか? もちろん、そういうことにすれば、みんなの気持ちは収まるし、当然、政治にかけるコストも低くなる。もしかしたらいいことかもしれない。ただひとつネックなのは、いま以上に社会への関わりを意義あるものに感じなければ、誰も得をしない制度。「関わった」という満足感を搾取するだけではないか。活気のない世の中であれば、ますます絵にかいた餅になり、誰も触らずカビが生えていく。もっと悪いのは「能力があるなら貢献せよ、さもなくば生きる資格がない」などと言い始めることだ。


さて、ハッシュタグの話に戻ろう。たまたま、ここ数日のトレンドについて述べたので「電通」の話になったのだが、業界ネタを書きたかったわけではない。

たかがハッシュタグ。されどハッシュタグ。「me too」ではなく「#MeToo」が重要だったのは、集計と検索がしやすいハッシュタグがついたからだ。このハッシュタグは、社会を動かすための機能ではない。これはラベリング。誰が何を言っているのかをわかりやすく、見つけやすくするための機能だ。

本来的に、多くの人はラベリングをすることに快感を得るものだと言われている。感覚的にも、同じように分類されたものを見るとわかりやすい。本能的に身につけてきた把握する力だろう。そして、仲間を見つけると安心をする。アーカイブ的な機能に加えて、共感を大切にするという意味でも、SNSにおけるハッシュタグは、人に快感を与えてくれる。

そして、「#MeToo」が持つ「わたしはここにいる(た)」という主張は、手を挙げる行為と分ちがたい性質を帯びている。もともとの世界と結びついていたからこそ、爆発的に増えたものだった。だから、もしも「#MeToo」というハッシュタグとともに猫の画像を掲載したとしても、何の意味もない。そのような空虚なもので数を増やしても意味をなさない。なぜならば、数を増やすこと「だけ」に意味を持たせることに反旗を翻そうという試みでもあったからだ。

冒頭にも述べたが、言葉の力を知っている人の、悲しい行為を何度も見た。それらが強いからだけではない。それ以上に虚しさが募るのだ。「もう言うことがない」けれども「このハッシュタグをトレンドから消してはいけない」からと言って、無関係な画像や内容を掲載したハッシュタグ付きの投稿を上げるのは、どうしてだろう。それがおもしろ投稿ではないのだ。本気である。だからこそ、もうダメじゃないかと宙を見てしまった。言葉の力など、息も絶え絶えになっている姿がそこにあった。

ハッシュタグで刻む言葉は、つまるところ、空にむけて掲げる手と同じである。一見すると、何も事をなすわけでは無い。しかしその手は「たかが」では済まされない。他の言葉と同じように、いつでも暴力性を秘めている。人を動かす可能性も秘めている。

そのとき、あなたは、こぶしを突き上げるのか、振っているのか、どうしたいのだろう? その場所は、ライヴハウスか、道端か、車窓から? どこでも誰にも迷惑をかけない、というわけにはいかない。目立つな、外が見えない、目障りだ、そう思われることは大いにある。それでも声を上げなくては、と思ったら、声をあげればいいのだ。それを止めることは、誰にもできない。

だからせめて、どこで、誰に、どのように向けているのか、自覚的でありたい。「ただの暴力」にならないために。

そして、鬼は滅びたのか?~『鬼滅の刃』最終話について

Photo by Ming Lv on Unsplash

先週の月曜日、何があったか覚えているでしょうか? もはやいろんなことがあって忘れてしまいそうですね。「社会現象」を巻き起こしたマンガ、あの『鬼滅の刃』がついに完結を迎えたのでした。

このマンガは、大正時代が舞台になっているだけではなく、世の中からみた歴史が映し出されているとわたしは考えています。というわけで、その報を聞いて、まず思ったのは「あぁ、やっぱり大正時代だから短いのか……」と。

結末の在り方については、賛否両論さまざまな意見が飛び交っています。作品のクオリティに言及したもの、作者への感謝、他の作品と比較したメタ的内容まで多様なものです。そうしたことは、ここでは扱いません。たしかに、ファンの目線でマンガを読む行為は尊い。けれども、ここではあえて、別の可能性を探りたい。

※ちなみに※この記事には作品の考察をするための「ネタバレ」が含まれています。もしもあなたがネタバレ厳禁と思っているなら、作品を味わってからこの続きを読んでください。もちろん、気にしないなら、このまま読んでいただけるとうれしいのですが。


仮説[鬼滅の刃=近代の鏡物]

何を今さら言っているのかと、訝しがる人もいるかもしれません。『鬼滅の刃』の舞台が大正時代であるのは周知の事実。しかし、これはただの設定ではありません。『鬼滅の刃』という作品は、いまの世の中にある歴史観が映し出しているのです。

平安時代後半から室町時代にかけて、「日本」の文学史では「鏡物」と呼ばれるジャンルが多く見られました。これらはひとつ前の時代を描いた歴史物です。受験生の皆さんにはお馴染みの、ダイコンミズマシの四鏡〜『大鏡』『今鏡』『水鏡』『増鏡』が有名ですね。

主人公を中心に歴史を語らせるという手法は、現代では映像作品との親和性が高くなっています。つまり、大河ドラマや朝の連続テレビ小説です。すでに色んな場所で[『鬼滅の刃』=朝ドラ]説は、ずいぶん取り上げられています。

もちろん朝ドラでも構わないのですが、その際は「朝ドラの視聴者層とファン層が重なる」という部分が強調される傾向になります。ものの見方を映し出しているという意味であれば、むしろ「鏡物」から連なる作品と考えたほうが自然だと思います。

作品全体は言うに及ばず、そのことが最終話にクッキリと表れています。大正時代の奥多摩からはじまり、現代の東京で帰結することになりましたが、最終話は、ただの後日談ではありません。全編にわたり、鬼との闘いを通じて「現代と歴史」を浮き彫りにして来た作品だからこそ、現代を最終話にする必要が合ったのです。


「血縁」の結実

まずは軽く物語のおさらいを。

第一話において、時代は「大正」とだけ明言されています。作中での会話をもとにすれば、おそらくは大正前半の出来事。家族を鬼に殺され、妹の禰豆子を鬼にされた炭治郎は、家族の敵を討ち、妹を人間に戻すために鬼と対決するべく旅に出ます。最初の旅立ちから4年程度。その戦いで繰り広げられるドラマが描かれている作品です。

炭治郎が知らないところで、鬼と人の因縁の戦いは、平安時代の中頃(A.D.900年前後)から続いていました。ただ、善と悪の凌ぎ合いというよりも、むしろ根源的には「血縁」をめぐる争いです。

そして最終話=205話の舞台は「現代・東京」です。ここで描かれるのは、前話まで活躍していた人物たちの子孫や転生者が平和に暮らす情景。つまり、彼らは「血縁」的な結びつきを持って現代の東京で暮らしています。

この「血縁」に注目してみます。

鬼殺隊を束ねる「産屋敷家」は、彼らの血縁は鬼を出してしまった咎で「呪い」にかかっています。その呪いとは、産まれた子がすぐに命を落としてしまうこと。神職の娘を娶り、鬼を滅ぼすことに「心血を注ぐ」ことで家を絶やさないことが可能になりました。それでも早逝が運命づけられており、序盤に現れる若い当主は97代目です。(明治より前の基準であれば、元服してから数年は生きられる計算ですが……まぁそういう問題ではないですね)

つまり、物語の中での「鬼」は、もともと人だったものが鬼になるという存在です。だから鬼はもともと、人との「血縁」があったのです。

そもそも、血を絶やせばいいという発想はなかったのか? という疑問もありますが、中世的な世界観では家の断絶は忌避するのが不文律です。それと同時に、彼らが鬼のいない平和な世を望んでいたからでしょう。

しかも、隊士たちはそれぞれに内なる「血縁」と対峙しています。先祖との縁で力を得る者もいれば、親戚縁者と袂をわかつことで強さを得る者もいる。さらに鬼だって同様です。血縁だからこその愛憎を「鬼」になることによって満たそうというケースが見受けられます。

主人公の兄妹のみならず、家族の中でのポジションが個人のアイデンティティとしてかなり重要な部分を占めています。家族としての自分と個人が分かちがたく、絡めとられるシーンが多いのは、指摘するまでもありません。家族ごっこをする鬼も登場しますし、炭治郎の「長男だから」と言い聞かせる場面、鬼化して子を手にかけた憤怒の念など、すべて挙げては段落が埋まりそうです。

さらに、「血の継承」は概念だけの問題ではありません。鬼にしても、鬼狩りをする人にしても、その身体に流れる「血」が個人の能力に直結しています。物語の中では、実際問題としても「血縁」は生と死に関わること。自分に流れる血の力が、その運命を変えていく。逃れられない宿命としての「血」が描かれているのです。


生活単位の更新

ただし、ここで忘れてはならないことがあります。鬼殺隊は単なる血族ではありません。むしろ、擬似家族です。産屋敷家の当主は代々、「お館様」と呼ばれて隊士を率いています。御家人制度や、棚親・棚子のようなものですね。特に、輝哉は隊士たちを子のように扱っており、同時に親のように慕われています。隊士の力は親子代々伝わるものもありますが、それとは関係なく顕れることも。それらは異能・異形の姿で存在しています。

つまり、この組織は「鬼を滅する」という目的のためだけに集めた能力者集団。その目的を果たした後で最終的にどうしたのか? そこがラストを見る上では重要になります。

竈門炭治郎・禰豆子の兄妹は、ただ生まれ故郷に帰って元の生活を始めたのではありません。苦難をともにした仲間との新たな結びつきを得ました。新たな生活単位としての「家族」を作り、雲取山に帰還します。どれだけ異能の持ち主とはいえ、市井の人として日々を続けていくのです。

それが仮に、メタマンガである『銀魂』における「最終回発情期<ファイナルファンタジー>」だとしても。これはかなり重要なことです。

しかしながら、最終回が意味するところは、再び「血縁」です。時は移り変わり、「現代の東京」で、彼らの子孫や転生者の近くで平和な暮らしをしています。この状況は、いまの世の中とたいへん似ています。いくら社会制度やテクノロジーが進んでも、「血縁」が重視されています。さんざんもてはやされたシェアリングエコノミーですが、2020年は世界中で「StayHome」が呼びかけられ、本邦では「世帯主」に給付金の案内が来るご時世。

ここで時代を述べるならば、「血縁」というワードを持ち出して皇室について触れないわけにはいきません。大正時代は、皇室で事実上の一夫一妻制度が始まった時代でもあります。厳密に女官制度が廃止されたのは昭和になってからですが「側室」という制度は使われていません。近代化を目指す「日本」にとって、そのような概念は過去に置いてきたかったのでしょう。「血縁」を絶やさぬようにする前時代的な仕組みは瓦解しました。しかし、その新たな制度は、結果として後世に生きる人を「血縁」によって縛ることにもつながっています。


どこに「鬼」はいる?

前述した通り、この作品の中で「鬼」は元々は「人であった」ものとされています。しかしながら、この前提条件には疑問符をつけたくなります。

なぜ「鬼」が生まれたのでしょうか。作中ではラスボスの鬼舞辻無惨が【一番はじめに鬼になった】と呼ばれています。1000年ほど前、薬師(医者)に施してもらった薬が元で鬼になったわけですが、そもそもなぜ「鬼」だとわかったのでしょう。そして何より、この薬師(医者)がその薬を持ちえた理由は……?

(このあたりは、憶測としていろいろな可能性が考えられるのですが)いずれにせよ、鬼は彼だけではなかった、もしくは彼の前にも「鬼」がいたと考える方が自然です。

そして、産屋敷家は「呪い」にかかっています。そもそもそんなものは誰がかけたのでしょう。家族のひとりが「鬼」になるからと言って、産まれてくる子どもの寿命を縮めるなど、連帯責任をとる必要があるものでしょうか?神が祟るというのは、穏やかではありません。しかしながら、登場人物も読み手も、その事実を自然と受け入れています。新興宗教の教祖になっていた「鬼」もいましたが、カウンターになる宗教については、特に描かれていません。それにもかかわらず「神様だから仕方ないね」と受け入れている節があります。「神」の意に反するものが「鬼」ということなのかもしれません。

炭治郎に伝わっていたのは「ヒノカミ」に捧げるための「神楽」であり、日輪のピアス。「鬼」は日の光で焼け死ぬ性質があり、鬼殺隊が使用するのは日輪刀。そうです、神様は日の光=お天道様そのものでもあると推測されます。そう考えると「天照大神」、さらには前述した皇室の存在も自ずと導き出されます。

これらの存在は、特にサジェスチョンされることはありません。海外の読み手は「おぉ、Japnaeseアミニズム」と思いながら読むかもしれません。しかし、登場人物のみならず「日本」の読者も、そこに特段の「イズム」は感じていません。空気のように当たり前にあることとして受け入れているわけです。

このように、「鬼」を語っている時、「神」は語られず物語は進みます。けれども、それ故に、さらに大きな存在であることが暗示されているのです。

誤解を招くかもしれないので強く言っておきますが、この作品は「何か」を礼賛しているマンガではありません。そういうことではなく、神仏習合という形で「日本」の各地に根付いていた信仰の在りようをさまざまなモチーフを使って描いています(無垢さ・素朴さ故の暴力性も作者は描いています)。


現代に横たわる「鬼」

この最終話において、「鬼」を滅するための道具や、その人たちの写真などの遺物が飾られるのはマンションのリビング。かつて「ケガレ」と日常を分けていた存在が、居住空間にあるのは不思議です。しかしながら、都市生活というものは、こんな感じです。かつては禁忌とされていた習慣の多くが迷信と思われ、破られながら日常が営まれています。

しかしながら。「鬼」は本当にいなくなったのでしょうか?

鬼殺隊が動いている裏で、さらに彼らが解散した後も、人はいくらでも「鬼」になったし、人のことを「鬼」と呼んでいたはずです。もちろん、この時代設定はフィクションですが、戦争や震災がまったく起きなかったパラレルワールドだとは思えません。そうであれば、「現代・東京」にする必要はないからです。

最終話では、かつてそこに戦いがあったなど、何事もなかったかのような幸せな空気に包まれています。「好き/嫌い」ではありません。実際のところ、そういう世界が描かれているのです。

これは、まさに本邦の状況と言い換えてもいいと思います。「この事態を教訓に」思っていたことですら、わたしたちはすぐに忘れてしまいます。2020年の今、COVID-19という新型コロナウイルスによっていろいろと起きている出来事は、2011年の震災でも、十分にわかっていたはずのことなのに。

しかし同時に、こんなことも言えます。いみじくも人の心から生まれた「鬼」を昇華させる姿を読みながら、読み手は鬼の側にも心を惹かれてきました。炭治郎も鬼化する直前まで追い詰められました。それはつまるところ、読み手が「鬼」の存在をいつも感じているからなのです。「鬼」はわたしたちの隣人であり、自分もいつか、そうなるかもしれない。むしろ心の中に潜んでいる存在だということに気づかされる。

本当は、設定の年代を考えれば、現実の時間軸とリンクさせる、あるいは匂わせる展開だってあり得たと思います(原案となった読み切りには、外国の話も出ているので…)。けれども、そんな話にはなっていません。それはそうです。世の中の読み手は、それほど望んでいないから。だからここに、ある歴史観が映し出されているのです。

呼ばず語りの国で —–COVID-19-あるいは—–

起きぬけにスマホをチェックするとコロナ。ブラウザを立ち上げてもコロナ。テレビをつけてもコロナ。人と話してもコロナ。ほんの数ヶ月前に「コロナ」と言えばビールだったのに(暖房器具の人も、太陽を思い出す人もいるかもしれないが)、とにかく世の中は変わってしまった。言うまでもない。新型コロナウイルスの話題で、みんなが大変だ。

Photo by Claire Mueller on Unsplash

COVID-19 vs. XXXXX

日本ではいつのまにか、そのウイルスを「新型コロナウイルス」と呼ぶようになった。本当の名前は「COVID-19」なのだが。まるで、WHOが決めた正式名「COVID-19」など存在しなかったように、自然とそう呼ばれている。

もちろん他の国でも「新型コロナウイルス」という言葉が使われている。ただ固有名詞としては「COVID-19」が優勢。見出しやタグで使われるのは「COVID-19」あるいはそれに準じる表記。かたや日本では「新型コロナウイルス」が名前のような振る舞いだ。

試しにやってみた。Googleでの検索結果で「COVID-19」を日本語で検索しても厚生労働省の日本語ページは上位にヒットしづらい(2000/5/13時点)。WHOの特設サイトのほかは、民間有志のものだ。あの山中伸弥教授の個人サイトが2番目に出てきたこともあった。「新型コロナウイルス」だと圧倒的に厚生労働省のいろいろなページをおすすめされるのに、不思議な感じはある。

(もちろん、検索結果は一過性のものなので、参考程度に)

実際に、あなたも「コロナ」「新型コロナ」に比べて「COVID-19」と言うことは珍しいだろう。日本語で「コヴィッドナインティーン」とか「コビッド十九」とか呼ぶのは長い。視覚情報として「COVID-19」と付けておくこともできたはずだが、言文一致だろうか? とにかく定着しなかった。それ自体は、単にそうなってしまっただけだ。しかし、名前のつけかたひとつで、社会の状況がよくわかる、ということは言える。

日本では正式な名前は捨てられた。しかも、代わりに使われたのは、日本ならではの何かではない。「新しいタイプのウイルスの一種」という普通名詞的な呼び名である。このことは、ささいなことではあるが、実は重要なことでもある。

固有名詞の書き換え

この誤差は、少なくとも2月の初旬には生じていた。実は仕事でこのウイルスに関する広報資料を扱うことがあったのだが、海外のリリースを翻訳するにあたり「COVID-19」としていた箇所を「新型コロナウイルス」に書き換えることに。個人的に違和感をおぼえたので記憶に残っている。やりとりはおよそこんな感じだ。

「呼び方定着してないので、WHOにあわせたら良いのでは。文字数も少ないので」と質問した。(ウイルスそのものの話ではなくて感染症のことを言ってるのこともあった)
返事は即答。「いや、わかりやすく新型コロナウイルスで」と。こちらの違和感は拭えず、コロナウイルスも専門用語だからわかりづらい、それ自体はいっぱいあるので、不正確だと問いかけた。すると修正指示がくだる。
【一括変換の後、お手数ですがレイアウトのスペース調整してください】
おおぅ。
こちらは修正がめんどくさいと思ったわけではないのに……さぞかし、めんどくさい奴だと思われたらしい。

和製英語はこのように生まれるのだ。
もちろん、悪いことばかりではない。

ただ、意味合いは変化する。やはり「名付け」という行為は、記号論というジャンルでいろんな人が指摘している通り「意味づけ」である。特別な名前、何者にも替えがたいもの。それは人との関連性を生む。名前があることで、他と区別する。そして自分との間に、特有の関係を作りあげる。まるで関係のない世界の一部が、にわかに眼前に現れるのである。人は名づけを増やすことで世界を拡げていける生き物だ。

書き換えがもたらす変化

それなのに。「新型コロナウイルス」と目にするたびに、聞くたびに、日本語での認識は「新しいタイプのコロナウイルスの一種」である。
《どうやら新型のウイルスらしい……インフルエンザみたいな……新型インフル?……まぁとにかく新しい……致死率もそれなりの……》こんな調子で「なんだかとにかくやばいらしい」ということが滲み出ているわけだ。

これを「わかりやすい」と思う人が多い。だからこそ、現在の状況がある。「とにかくやばい新しい奴」と思うことで安心させようとする。いわば、球技で自陣にボールが飛び込むの時に発する「来るよ!来るよ!」という掛け声のようなものだ。なんだかよくわからないものに対峙してる自分に、ちょっとだけ酔ってないだろうか。いや、それはさすがに悪意があるだろう。平たく言えば、連帯意識を高めることができるのだ。

いっぽうで、「COVID-19」と名付けると、向き合わずにはいられなくなる。価値判断は含まれず、ただ名づけられたという事実がある。だからこそ、自分にとって他の「よくわかんないけどくしゃみが出る」ではない意識ができる。それはたとえば、客観的に捉えようと心がけること。俯瞰的に考えてみること。自分は何を大切にしていて、何ができるか、何をしてはいけないか、自分を主体に考えることがしやすい。

いや、そうは言っても。もちろん、英文字だけではわかりづらい。頭文字をとって呼ぶ習わしは、なかなか身につかない。難読語のようなものだ。そんな時に比較してみたいのは中国語。こんな表記を見つけたので紹介したい。それは「新冠肺炎」である。言うまでもなく、北海道の地名とは関係ない。コロナは王冠状の突起があることだ。それを表している。つまり「新型コロナウイルスによる肺炎(症状)」を四文字で表していて、賢い。しかも「COVID-19」と同じ「8バイト」だから驚きだ。

誰が悪いとかではない。どの国と比べるわけでもない。事実として、日本での「名付け」が2020年5月現在の社会状況を表しているのだ。漠然と不安を語り、不安が語られる。

顔も同じく…

そして残念ながら、名前だけではない。いや、むしろ「名は体をあらわす」のだから同じことなのだろうが、ビジュアルも相似している。現物を見るのが手っ取り早いだろう。

この画像に見覚えがあるだろう。日本でも、流行の初期にはTVでもよく流れていた。CDCによる着色された画像である。

Photo by CDC on Unsplash

しかし、日本で最近多く見かけるのは、これではないはずだ。おそらくは……これだろう。

国立感染症研究所から提供

このボンヤリとした画像は、日本の国立感染症研究所が分離に成功したウイルスの写真。映ったまま、着色を施していない真の姿ではある。ただし、ここから何を読み取れるだろう? 門外漢から見て「なるほど」と思えるだろうか?

CDCの画像は、いろいろと盛っている。これが逆に怖いという面もあるが、同時に、発信しようという意図がある。受け取った側も、向き合わざるを得ない。

対して、グレーの電子顕微鏡写真。確かに、細かいところまで見えるのはスゴい。しかし、一体それで、何を伝えたいのだろう? よくわからない。特に何も意志はないのかもしれない。それであれば、わかりやすい加工を施しても良いはずだ。解像度のはっきりとした画像に囲まれている現在、このような画像は、漠然とした不安を感じさせてしまうものだ。

名前と同様、いやもしかするとそれ以上に、あからさまに日本での状況を表しているのである。

さて、最大の難問が見えてきた。
別の新型コロナウイルスが出てきたときに、この日本では、そのウイルスをなんて呼べばいいのだろう? 今はボンヤリと考え続けるしかない。新型コロナウイルスが、これからも発見されるのは当然だから。

珍しく組織論とか考えてる

乗っているのがモロい舟でも、よく知らないが頑丈な物質で覆われているので、航行に支障はない。助けてくれた人もいるし、悪い人ばかりではないと思うと、出ていくことがなかなかできない。手塩にかけてきた愛着もある。さらに、別の船や島が見つかるかどうか不安だから。

ただ、やはり海には嵐も起こる。そのときに舟の中での様子が大切なのだと思う。ここで方向性に決定的な違いがあると、船員は脱出を図るだろう。

今回、新型コロナウイルスへの対応によって、イメージの命運が分かれてしまったのは、政治の問題だけではない。組織のリーダーの覚悟が透けて見えてしまった。航海を経済活動になぞらえれば、いま起きているのは嵐と同じだ。いや……むしろ、病が感染しているのは異常気象と似ている。理由はわからないが毎日台風が来てるのに「出社しろ」と言うのと変わらないのだと思う。

本邦には中小企業がたくさんある。多くの場合、そこにあるのは「さほど潤沢ではないが会社がまわせる資金」と「平凡な市民」だ。社長や管理職でさえも、少々の野心があるが基本的には平和に人生を送りたい善良な人々である。それであれば、なおさら重要なのが組織の設計や組織が体現する思想やアイデンティティだ。

しかし、それができていないところがあまりにも多すぎる。もし語弊があるのであれば、こうも言い換えることができる。好印象を残しているのは、それができているところだけ、なのだ。

会社の歴史は関係なさそうだ。長い実績があってもなかなか社としての方針を出さないところがある。バブル崩壊もITバブルもリーマンショックも、東日本大震災さえ経験したのに。むしろ「震災の時も乗り越えたから大丈夫」という意識があるようだ。しかし、そういう人に限って具体的な方策も示さず、なぜ乗り越えられたかについては精神論しか語らない。リーダー的存在の発言に、今回は本当に、心からうんざりしている。ちなみに、これはひとつの企業を責めているわけではないので、悪しからず。

この短期間でショートするかどうかとは別のところで、既存の組織が壊れて社会がますます変化する流れが作られるのではないか。むしろ、新しく書き換わっていかないと、マズい。非常に危うい。まぁずっと変な国なんだけど。

折しも(4/5深夜)、先ほど「緊急事態宣言の【準備】に入る【見通し】」という謎のニュースが流れてきた。おそらく、この発表を受けて色々と準備に入る企業もあるのだろう。ため息しか出ない。しかし同時に、仕事があるのはありがたいこと。がんばります。

それにしても、みんながこんなに管理されたいとは思わなかったな。でも考えてみれば、管理されたい人が多いから、現状の学校や社会でうまくいってる人がマジョリティなんだね。わたしはできるだけ、死ぬまで抜け道を探していきたい。組織論とか考えてみたけど、社長には向いてなさそうだ。