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ハッシュタグの快感、その行方【改】

Photo by bady qb on Unsplash

「#MeToo」は、たしかに世界を動かすコピーだった。良いことも、悪いことも加速させた。あらゆる物事にはいい面も悪い面もあるが、暗黒面にすぐ落ちてしまう。特に昨今のハッシュタグの使われ方は酷い。どの主張もおよそ、吊し上げと変わらない。

言葉は人を救うが、殺めることもできる。近ごろは、そのおそろしさを知っているはずの人まで、ためらいを見せずに、強い言葉を発している。わたしは、そこにたいへんな違和感をおぼえている。

声を上げることの暴力性を意識している人が、強い声を上げる。ということはつまり……「それ」への暴力を認めるということだ。その名前の付くものには何を言っても赦されると思っているのだろうか。

たとえば。「電通」への言及について。このことを書くと、嫌う人がいるだろうなぁとは想像がつく。片方からは「擁護するな」と。もう片方は「野暮なことをするな」「端くれで業界人ヅラするな」と。わかっていて、あえて書いている。

たしかに、過去に何度も過労死を出しているのに隠そうとするとか、ハラスメントがなくならないなどの問題は、社会のそこ彼処に存在している。「電通」固有の問題ではない。他の業界や会社、無数の組織がやっていることだ。つまり、ここ(特に日本)は、そんな社会なのだ。これを変革したいという気持ちの表出だとしても、この「なぶり方」は正しいのだろうか?

むしろ、雪崩式に行われることによって「そうしたものが何故なくならないのか」がよく見えてしまう。けれども発信者は、そんなことをしたいわけではないはずだ。「正しいこと」をしている。そう、だからこそ、ちょっと考えてほしいのだ。誰かが命を断つ前に。


抽象的な話をしても実感がわかないだろう。いくつか、業界の中の話をしたい。

広告代理店、あるいは広告制作会社には、いろんなイメージがあるだろう。しかしその本質は、基本的にサービス業である。内訳は「制作側」も「営業側」に分けられるが、どちらも目の前のクライアントや世の中の人に喜んでもらうための仕事をしている。

特に、省庁や自治体の仕事は「必要とされている」ことでモチベーションを保つことができるものだ。はっきり言って、簡単に利益が出せる仕事ではない。

入札で適正価格を、と言うけれども、そもそも国や自治体向けに、通常価格では受注できない。およそ予算は少ないから。もし世の中で「それが適正価格なのだ」と言うのであれば、どんどんデフレは進むだろう。そもそも入札のために制作した提案にも費用がかかっているが、多くはプレゼン費用が出ない。

いざ、受注となってからも大変だ。おしなべて担当者とのやりとりは行政文書的で、難航する。社内・協力会社のスタッフも疲弊する。ちなみに全ての作業を社内で行えるような会社は存在しないはずだ。もしできるとしたら、恐ろしい。

そんなわけで(わたしは直接存じ上げないが、おそらくは)、持続化給付金のサービスインにかかわった人は職種に限らず、自らをエッセンシャルワーカーであるという意気込みで携わっていたはずだ。いろんなところで不具合が起きた(ている)のは、医療ミスと同じぐらい致命的なことだ。けれども、それをいたずらになぶり続けることで解決しない。医療ミスを考えればすぐにわかるだろう。

それからひとつ、伝えておきたいことがある。実は、利益率の低い仕事を代理店本社で請け負わないのは、長時間労働反対の訴えの結果だ。だからそこを攻撃するのは、実はロジック的には矛盾している。本社で行うのは「極めて筋のいい仕事」が多い。時間も社員の数も限られている。全体的にクライアントの予算も減っていて、社員の工数管理に見合うものが減る。それがダメなら、会社の機能が成り立たなくなる。その結果が、外注に頼るということ。外注するのもダメだというなら潰れろというのか?…と穿った見方まで出てきても仕方がない。

そもそも、広告業界など、業界全体がクライアントから受注することで成り立っているもの。日本の企業の仕組みをドラスティックに変えようとせずに、代理店の異常さを煽っても何も産まない。(海外のような競合禁止を貫くのなら、中小企業を減らさないとダメだが、それは日本の社会にとって本当にいいことだろうか?)

ちなみに、「電通はダメだが博報堂はいい」という話はデマに乗っかっているにすぎない。そもそも長時間の打ち合わせは博報堂の文化。多くの人の目が電通に行っているので、気づかれないだけだ。……もっとも、博報堂はそうした戦略でカバーリングをしていると言えるのかもしれないが。それは、ただ着ぐるみでごまかしているに過ぎない。


しかしわたしは、ある意味ではラジカルな考え方の持ち主だ。システムを滅するという観点では、こういうのはいいかもしれないと思う。念のため言っておくと、提言などではなく「想像してみた」というレベルのものだ。

代理店は公共の事物の一切に関わることなく、すべての業務を直取引にする。

おそらく現場は疲弊するだろう。 もともと公務員の数を減らしていたところでもあり、大パニックが想像される。

もちろん、そうした業務に適した人はいるかもしれない。しかし、それに没頭していたら、元々していた業務ができなくなる。外注するのも、ひと苦労だ。

(Aコース)
現状の仕組みを変える。
自治体や省庁の1〜2年交代の持ち回り廃止。
なぜなら、現場がわかる人間がいないから。
体制づくりをするにも、人が足りない。
広報・制作業務の専門職を作っちゃおう。

コミューンの香りで面白すぎる。わたしはそんなものに入りませんが。

(Bコース)
良いものを作るとか周知してもらうとか、
あんまり関係ない。
わかりづらいと言われても、読んでわからないのが悪い。
時間を割かずに片手間で済ませよう。
名称とかロゴは市民・国民から集めればいい。
タダとか賞金数万円で済むから全部公募にしよう。

Bコースになる流れでしょうね。なんでも公募すればいいって感じだから。

しかし、これでもまだヌルいかもしれない。

国や自治体の業務に、民間が関わるときは利益を考えないこと。

これが、答えだろうか? もちろん、そういうことにすれば、みんなの気持ちは収まるし、当然、政治にかけるコストも低くなる。もしかしたらいいことかもしれない。ただひとつネックなのは、いま以上に社会への関わりを意義あるものに感じなければ、誰も得をしない制度。「関わった」という満足感を搾取するだけではないか。活気のない世の中であれば、ますます絵にかいた餅になり、誰も触らずカビが生えていく。もっと悪いのは「能力があるなら貢献せよ、さもなくば生きる資格がない」などと言い始めることだ。


さて、ハッシュタグの話に戻ろう。たまたま、ここ数日のトレンドについて述べたので「電通」の話になったのだが、業界ネタを書きたかったわけではない。

たかがハッシュタグ。されどハッシュタグ。「me too」ではなく「#MeToo」が重要だったのは、集計と検索がしやすいハッシュタグがついたからだ。このハッシュタグは、社会を動かすための機能ではない。これはラベリング。誰が何を言っているのかをわかりやすく、見つけやすくするための機能だ。

本来的に、多くの人はラベリングをすることに快感を得るものだと言われている。感覚的にも、同じように分類されたものを見るとわかりやすい。本能的に身につけてきた把握する力だろう。そして、仲間を見つけると安心をする。アーカイブ的な機能に加えて、共感を大切にするという意味でも、SNSにおけるハッシュタグは、人に快感を与えてくれる。

そして、「#MeToo」が持つ「わたしはここにいる(た)」という主張は、手を挙げる行為と分ちがたい性質を帯びている。もともとの世界と結びついていたからこそ、爆発的に増えたものだった。だから、もしも「#MeToo」というハッシュタグとともに猫の画像を掲載したとしても、何の意味もない。そのような空虚なもので数を増やしても意味をなさない。なぜならば、数を増やすこと「だけ」に意味を持たせることに反旗を翻そうという試みでもあったからだ。

冒頭にも述べたが、言葉の力を知っている人の、悲しい行為を何度も見た。それらが強いからだけではない。それ以上に虚しさが募るのだ。「もう言うことがない」けれども「このハッシュタグをトレンドから消してはいけない」からと言って、無関係な画像や内容を掲載したハッシュタグ付きの投稿を上げるのは、どうしてだろう。それがおもしろ投稿ではないのだ。本気である。だからこそ、もうダメじゃないかと宙を見てしまった。言葉の力など、息も絶え絶えになっている姿がそこにあった。

ハッシュタグで刻む言葉は、つまるところ、空にむけて掲げる手と同じである。一見すると、何も事をなすわけでは無い。しかしその手は「たかが」では済まされない。他の言葉と同じように、いつでも暴力性を秘めている。人を動かす可能性も秘めている。

そのとき、あなたは、こぶしを突き上げるのか、振っているのか、どうしたいのだろう? その場所は、ライヴハウスか、道端か、車窓から? どこでも誰にも迷惑をかけない、というわけにはいかない。目立つな、外が見えない、目障りだ、そう思われることは大いにある。それでも声を上げなくては、と思ったら、声をあげればいいのだ。それを止めることは、誰にもできない。

だからせめて、どこで、誰に、どのように向けているのか、自覚的でありたい。「ただの暴力」にならないために。

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