読み込み中…

敗戦75年目の「ゆきどけ荘」

7月下旬に、こんなサイトが公開されていたのをご存知だろうか。就職氷河期世代への支援ポータルサイト「ゆきどけ荘」という政府広報Webサイトだ。「ゆきどけ荘」に集まる住人は就職氷河期に遭遇して今でも困難を抱えており、大家さんが彼らの悩みに答えていくというストーリーが展開されている。これを公開するという行為はディスコミュニケーションの極みであり、8月15日にしげしげと見ると「さすがは日本」としか言いようがない(もちろん皮肉)。

知名度はいまひとつだと思う。SNSプロモーションを主にしているからか、おそらく見る人が限られている。Twitterでザッと検索すると「ターゲット」の否定的なコメントと「ターゲット」より下の年代の嘲笑コメントが目立つ。「ターゲット」と同年代でも「普通に新卒で正社員になって今も働いている人」には無関係なので見向きもしない。何より「当事者より上の世代」は目にする機会も少ないようだ。彼らの声は、おそらく交わることがない。

時期的にもCOVID-19関連ほどのインパクトもないからだろう。内閣官房が旗を振っているのに、特に誰も気にしていない。正義の盾に使うのは勘弁してほしいので、攻撃対象に挙がらなくてよかったけど、就職氷河期のことなんて、無かったことにされているという表れだ。

もちろん誰かの制作物である前に、「OKを出した=これじゃないとOKを出さなかった」のはクライアントである。政府・内閣官房、関係各所との紆余曲折あったことはふまえても、天を仰ぎたくなるキャンペーンだ。予算が足りなかったんだと思うけど……。マズい点を5つ挙げてみる。

1)これがポータルサイトなのか
まず、ポータルサイトと名乗りながら、その役目を果たしていない。情報の更新が遅く、目的の情報にたどり着くまでの導線が長くなるように設計されている。制作者も本当は「ポータルサイト」とは思ってないだろう。本来の提案では「ポータルサイト」部分があったけど、そこまでしか予算がなかった可能性もある。

せめて総務省のこのページの更新をお知らせするだけでも違うはずだ。
「地方公共団体における就職氷河期世代支援を目的とした職員採用試験の実施状況」
このお盆時期に「就職氷河期枠」の公務員試験のエントリーが結構多い様子だ。ということを記事を書くために調べてる途中で知ったのだが、ポータルサイトとはそういう役割を持つべきもの。いっそのことファーストビューで検索窓でも設けておけばよかった。

注ぐべきところに予算を使わない、ディスコミ傾向の広報……発注元が同じだと、どの案件も似たようになるということだろう。

2)才能のムダづかい
そして、今日マチ子さんをムダづかいしている。「税金が〜〜」などという問題ではない。そんなことは正直どうでもいい。ただもったいない。本来ならこの題材と相性がいいはずなのに。次からの項目とも関連する話だが、理由のひとつは単純な類型化をしすぎたのだろう。「支援施策一覧」を見ればわかるように、掲げている施策は20個もあるのに、ケース紹介が3組に集約されている(しかも、すべて網羅されていない)。キャラクターが自由に動いていないところが歯痒いところだ。

3)正社員じゃないとフリーター
「鈴木スミレさんのストーリー」のサブタイトルは「わけあってフリーター」である。その紹介文にのけぞったのはわたしだけだろうか? 内閣官房の認識では、非正規雇用というだけでフリーター。まるまる引用しておく。

[仕事熱心な鈴木さん。しかし、学生時代の就職活動では希望の仕事につけず、⾮正規雇用を転々としている。今の会社は5社目。真面目な勤務態度が会社にも評価されているが、正社員になれる目途はない。正社員として働くことを望んでいるものの、正社員の経験はなく、自信をなくしている。]

とのことだ。
このストーリーでは、大家さんに公務員をすすめられてヤル気を出して終わる。非常勤で公務員してる人はどう思うんだろうか?(※ここですすめられてるのは、特別枠の公務員のことですが)ちなみに彼女は34歳設定。

4)寄り添いなどしない
「田山テルさんのストーリー」はどんなストーリーなのかがよくわからない。紹介文がすべてである。また引用してみる。


[勤勉で⼏帳⾯な田山さん。就職したい気持ちはあるが、6年前に勤めていた会社で派遣切りにあったトラウマから、就職活動をしていない。とくにやりたいことや、これといったスキルもなく、何から⼿をつけていいのかわからない。
働きたい気持ちはあるものの、40歳になり、もう自分には無理なのでは、とあきらめつつある。]

とのこと。それって6年後の鈴木スミレさんと入れ替わってないかな、などと考えてしまう。(そんなわけないけど)
「あなたにもいいところがあるじゃない」とフワッと褒めつつ、結局のところ「とにかく働け」しか言わない。「とにかく何も考えなくていいから投票しよう」という呼びかけと同じ構造だ。

5)ひきこもる人の話は聞かない
ここまでくると大喜利状態ですが、「佐藤ご夫妻のストーリー」がすごい。ひきこもり状態の44歳・息子と同居中の70代夫婦の悩み相談。また引用する。


[不登校からそのままひきこもりになってしまった、息子の佐藤ヒトシさん(44歳)。外に出るのは、たまにコンビニに行く時ぐらい。同居しているご両親のシゲオさんとヨシエさんは、誰に相談することもできず、時間だけが過ぎてしまった。自分たちも70代になり、これからのことを考えて不安をつのらせている。]

ということだが、一番不安なのはヒトシでは?
しかし大家さんは夫妻をねぎらうばかり。内閣官房としては、ヒトシの話は聴くに値しないようだ。

このような点で、いまの「日本」の一端が垣間見れるわけです。「さすが政府広報」と言いたくなる(再・皮肉ですからね)。

とはいえ、笑ってる場合でもない。今日は2020年8月15日、敗戦から75年目だ。実はこの日にも通じている。加藤典洋さんの『敗戦後論』を援用すれば、ずっと負け続けているのに負けていないフリをしているのかもしれない。

こじつけでもなんでもない。戦後の営みの積み重ねが、就職氷河期という状態を作ったのだ。しかし、正規ルートから外れた人に「負け」を押し付けるだけで流されてきた組織は結局のところ自らも脆弱になっている。それは自治体で、企業で、業界で。さまざまな場所にある日本の社会という組織のことだ。そして戦後75年目のいま、世界で流行っている感染症に晒されている。

来春の新卒採用は厳しいという。さまざまな予測によると「団塊世代がいないので、人手不足が起きるので就職氷河期は来ない」とされている。学生時代からの起業も以前にも増して活発だし、働き方もますます柔軟になっている。しかし、この耳触りのいい言葉は、前にも聞いたことがある。まさに就職氷河期まっただなかに聞こえてきた言葉そのままだ。「負けてなどいない」と言うことは、実は何も変わってないのではないか? (こんなことを言うのは、正規ルートから外れてる自分としては、セカンドレイプ的な苦しさがあるのだけれど)

自分のいる社会は、過去に愚かなことをした。そこで暮らす自分も愚かなことをするかもしれない。だったら、そうしないためには何をするべきか? そんな想像力を働せるには「愚かなことだ」「負けた」と認めなければ始まらない。理由がわからなければ、対処しようがないからだ。

『敗戦後論』ではただの事実として描かれているのだが、戦後すぐには「明治人」「大正人」「昭和人」がもの言う世代として同居していた。その状況、ある意味では今に似ている。つまり、まだチャンスは残されている。しかし無限ではないし、個別の死はすぐ隣にあることもまた事実だ。25年後、わたしがまだ生きていたら、敗戦100年目に何を言っているだろうか。もう少しマトモなことを言っていると良いのだが……。(そしてその頃、就職氷河期世代が「定年」を迎えることになる)

Photo by Danie Harris on Unsplash

「おもてなし」を世界に掲げた東京の無意識レインボー

なんで、みんな言わないんだろう。
いや、もうしょうがないと思っているのかもしれないけど。

東京都が「感染拡大防止ステッカー」の活用を呼びかけている。東京都が設定したガイドラインに沿った対応の申請をした事業所や店舗に発行する貼り紙について。都のガイドラインでは、主に人と対面する業種ごとに対策が振り分けられていて、それを遵守した店舗・事業所にステッカーの掲示を認める制度だ。

各自治体でこのように「お墨付き」を与える制度はできているのだが、目にした中で東京都のデザインがいちばん酷い。「かわいくない」「ダサい」そういう言い方も有りうるが、嗜好の問題で片付けられそうなので、もっと強く否定したほうがいいと思う。世界を「おもてなし」しようとしていた自治体としては「失態」とも呼べるものだ。

一目瞭然、モチーフとしてレインボーが使われている。2020年の夏に、東京で。なぜ、あえてのレインボーなのか。虹色のものを身につけること、掲げることは、LGBTQを否定しない、普通のことだと表明する印でもある。虹がLGBTQのものだと言いたいわけではない。しかし、もしも予定通りにオリンピックが今頃開かれていたとしたら、どうだろうか?イベントや店舗で自治体が認証した揃いの虹色のステッカーがあれば、そういうことだと思う方が自然だったはずだ。「グローバル的」な流れではその方が多数派なのだから。

それなのに。

「感染拡大を止める」と全く別の目的の意匠でレインボーを使っている。これはおそらく、全くの盲点だったのだろう。もしも「そのような意味も込めました」と後付けしようものなら、さらにひどい話である。

たとえば、こんなことも予想される。日本語…というより漢字が読めない人がこれを見て、とある飲食店に入ったとしよう。もしかしたらその人は「あぁこのお店は安心できるのかも」と思うかもしれない。仮に当事者でなくても、変な話を聞くことがないとわかる場所は、ホッとできる。それなのに、聞こえてくるのが店主と他の客の差別主義的な会話だったら? そして……あまり考えたくはないけれど、「感染防止対策をやってるけど、それだけで、そんなつもりじゃない」と言う人だっているだろう。残念ながら。

この話、半分は実話だ。このあいだ偶然入ったお店がこのマークをしていたのだが、耳を覆いたくなる話を「店主が」していた。すぐに出たけれども。

つまり、誤解だらけで、誰にとっても迷惑なデザインだ。これで本当に世界に向けて「おもてなし」しようとしていたことを思うと、滑稽さすら感じる。

https://www.seisakukikaku.metro.tokyo.lg.jp/cross-efforts/corona/anewnormalwithcovid19.html

さらに、仕組みの設計にも問題がある(すでに言い尽くされていることだが)。

基本的には用意されたデータを各自で印刷する。印刷できない場合は郵送できるが、原理的にコピーも可能だ。むしろ推奨している。ましてや、ステッカーの掲示がないと店舗・事業所の営業できないという性質のものではなく、ただの呼びかけに過ぎない。

そんなザルのようなステッカーだが、掲示するための申請は、さまざまな情報を渡さなくてはならない。事業所名や住所、電話番号などを東京都のHPに掲載される。取材NGや連絡先のメディア非公開でやってきた事情などは考慮されない。また、東京都あるいは「その指示を受けた者」の立入検査を拒まないことをに同意する必要がある。しかも「場合によってはオープンソースとして第三者に公開されるかも」という項目には最初からチェックマークが入っている。どこかのECメルマガのようだ。

https://www.bousai.metro.tokyo.lg.jp/taisaku/torikumi/1008262/1008420/index.html

それでも多くのイベントや店舗で使われているのは、背に腹が変えられないからに決まっている。

ここ数ヶ月、クリエイティブの力の必要性が語られる場面が増えた。確かにこういう齟齬が起きないように、クリエイティブの力は活用すべきだ。ただし、それは決して未来の話ではない。現在進行形の課題として、わたしたちの日常のそばにある。少し前に一部で盛り上がったローソンのPBパッケージリニューアルより盛り上がらない。いくらインフラ的な側面もあるとはいえ、ローソンも民間企業。東京都の政策は大手企業の経営戦略よりも公共に関わる問題だ。もしかしたら政治的な配慮のなさはもっと強いインパクトを持っているかもしれない。多くの人は、距離が近すぎて見えていないのだろうか。

それにしても。こんな時に、ほんとにどうしてやってしまったのだろう。全くわからない。意見を通せる立場の人だっているはずのに。その立場にある人が口をつぐんだのか、その人の訴えが聞き入れなかったのかは知る由もない。ひとつだけ言えることがある。2020年の夏に「虹」を無意識に選んだ自治体が世界を「おもてなし」をするのは簡単なことではなかった、それだけだ。

Photo by Denise Chan on Unsplash

「わたし、小池百合子かも」と思ったら負け。

先日、『女帝 小池百合子』に関する書評をnoteに載せた。フェミニズムからの応答があまり見られないことの違和感とともに記したものだ。

https://note.com/spicyjam/n/n5cbd53514e70

しかし今日は「この本について思ったこと」を素直に書いてみる。

正直に告白すれば、わたしが「小池百合子」になっていたかもしれない……などと思ったのだ。

実のところこの本は都民のとある層に対する猛アピールになったはずだ。なぜなら、彼女が「生粋のお嬢様」ではないことが多くの人の知るところになったから。どうやら都知事は、世の中のことを知らない「お嬢様」だから冷たいのではない。戦いに身を置くことにスリルを覚えるから、あのような発言をしているらしい。

この戦う姿勢は「レディース」に似ていやしないだろうか?根性でしのぎを削り、できるだけ目立とうとする。このやり方は「ヤンキー文化」そのものだ。もちろん都知事本人は、そんなことを言われたくないだろうけれど。

あえて言えば、高貴な感じ、聖人君主的な感じがしない。だからこそ彼女に引き寄せられてしまう。好意的なシンパシーではないかもしれない。しかし、類は友を捨てがたい。

Photo by Evie S. on Unsplash

告白しよう。かくいうわたしも、かつてそのような一人だった。都知事がエジプトに留学した理由を聞いてホッとした。当人の話す「戦略的な選択」が自身の状況と似ていたからだ。

もちろん、わたしはカイロ大に留学などしていない。国立大(二期校)の外国語学部でマイナー言語専攻である。これは、家庭の事情・学力を掛け合わせて、少しの興味を足した最適解としての進学だった(大人になった今では「お前の頭はお花畑か」と言いたいが)。それが第一志望だと言い聞かせ、周りにも嘘をつき、卒業後も、家庭の事情など言いたくないから適当にごまかしていた。

しかしこれも「戦略だったんです」と言えば、なんかすごく、いい感じの社会人に見えてくるから不思議なものだ。

そして今回、読めば読むほど、困ったことに相似点が増えていった。良好とはいえない生育環境、生まれつきの身体コンプレックス。似ていないのは「特に成功していない」ということぐらいかもしれない。

いや、しかし。本当はそうではない。そんな風に思ってしまうことがトラップなのだ。名ばかりの占い師が、何も見ていないうちから「ずっと気にかけていることがありますね。それを解く鍵をあなたは持っています」と語りかけるようなもの。それこそ、ポピュリズムの思うツボである。

まず、進路について。多かれ少なかれ、ほとんどの人にとって、進路の選択は、常に現実的な問題がつきまとう。小学校・中学校・高校と卒業式を重ねるごとに、夢を語るよりも現実が幅を利かせてくる。

わたし自身の入学当時も「どうしてもこの言語をやりたい」と思ってきた人はかなり少なかった(教官からして「本当は東大に入りたかった」と言ってる始末)。要するに、進学の動機なんていろいろあるし、そこまで、目くじらたてるほどのことではない。都知事は、まったく普通の人なのだ。

他のことも同じだ。外見にしても、出自や環境にしても、自慢できない身内にしても……多くの人にとって、ひとつやふたつ、思い当たるフシがあるだろう。それは電車の車内広告を見ればわかる。エステ、脱毛、整形、語学、婚活、これらは「コロナ禍」においても「鉄板ジャンル」として群雄割拠している。

つまりは、本人に共感性があるかどうかは、共感を得られるかどうかとは、あまり関係がない。大事なのは都民が都知事に共感するかどうかだ。都知事の振る舞いが受け入れられれば、当然のことながら支持率は変わる。マスに共感されれば、支持は固くなるのだ。

何の因果か、この間の都知事選で小池百合子の得票率が極めて高かったのは、東京都の中でも「低所得」の住民が多く住む地域だった。ここで市区町村ごとの得票率を見ることができる。

https://www.asahi.com/senkyo/tochijisen/

また、下記では平均年収を見ることができる。

https://sumaity.com/town/ranking/tokyo/income/

皆まで言わないが、そこはかとなく感じることがあるだろう。

もしからしたら、ひと頃言われた「マイルドヤンキー」的な文化とも関係があるかもしれない。でもそれは、果たして笑って済ますことができるだろうか? 社会全体がそのような仕組みをまわしているのだから。

現に都知事は、弱者への配慮がなくても、発信力があると評価されて当選した。

https://www.nhk.or.jp/senkyo/opinion-polls/02/

それは、東京のみならず日本の社会で求められていることだからだ。

この数十年あまりにわたり、この社会が築いてきた社会は、そういうものだ。

自分にとって得になることを優先して声を上げる。客観的に見れば社会的弱者だとしても、自らを弱者と思わずに、さらに弱いものを虐げる。だから弱者への共感など不要である。そして、やましいことをしても人当たりが良ければ問題ないし、それぐらいが人間味があっていい。まさしくヤンキー文化なのだ。

投票率が上がれば都知事は別の人になっただろうか?そうではない。むしろ、投票率をあげるだけこの数字は増えてくるかもしれない。

生まれが恵まれない人が全員、ミシェル・オバマの手記を読んで触発されるのではない。一度憧れても、なかなかたどり着けないものだ。そこで挫折したときに襲われるむなしさが、ポピュリズムをいっそう危うい方向に導いていく。

都知事選で言えば…「小池百合子」氏は「ウチら」になる可能性が感じられるが、有力対立候補は「ウチら」になる余地が見えなかったのではないか。ちょっとでもやましいことがある、誠実じゃない有権者に対して警戒感を抱かせる姿勢が感じ取れてしまったのは否めないと思う。

そして7/16、「GoToキャンペーン」に東京発着について除外することになった。

同日は昼過ぎに「東京の感染者数は286人」の発表をした都知事。

「排除」するのがとても好きな人だ。都知事は、一部の職種・業種を生殺し状態にしながら、排除している。このような視線を作り出しておいて、東京自らが全国から遠い目・白い目でみられているのは、ガッカリしているだろうか。

いや、おそらくこれで「都民を救った」と映るかもしれない(おそらく、東京を除外するための根回しはしているはず)。このようなことが選挙の対抗候補にできたのか?それが今、社会で生きるのに必要とされてる強さなのだ。

確かに虚無的な強さだ。しかし、そのようにしか生きるように求められているのが日本の社会。日本の「顔」とも言える東京であればなおさら、その気配は濃厚になる。

少し前まで問題になっていた荒れる成人式の根本は、若者の愚かさではない。社会の不具合だ。「今が人生の頂点、あとはドン底が待ってるから、やるなら今!」と新成人が思ってしまうのは、彼ら自身だけの問題ではないはずだ。

いわゆるリベラルな考えを持った人は、そうした考えを失ってはいけない。GoToキャンペーンが東京を除外したとしても、それは決して「ハッシュタグデモをしたから東京が除外された」わけではない。それを勘違いしたら、ずっとボタンを掛け違えたまま。何も変わらないだろう。

それと同時に「小池百合子になったかもしれない自分」を呪っていても、一歩も進めない。そんなことに思い悩んでいたら「負け」だ。そうとわかれば、もう負け続けることに付き合うヒマはない。あなただって同じはずだ。

ある名もなき俳諧師の話

こんなニュースがちょっと前にありました。

寺の墓地、国税が差し押さえ 税金滞納で異例の公売:朝日新聞デジタル https://www.asahi.com/articles/ASN5V7FLQN5VOIPE017.html

当事者の方々が心を痛めているのは言わずもがなですが、わたしも哀しいと感じました。資産運用でうまくいかなかったのは「お寺の経営をなんとかしようと思った」という、真剣な理由だったので、やるせない気持ちでいっぱいです。

でも、実はあまり驚きませんでした。それは、自分の曽祖父が神社を借金の抵当にとられた話を知っているからです。「そういうことって、あるよね〜」と。代々、宮司をしていたそうですが、その神社は山ごと、大正時代に終了してしまいました。

理由は、俳諧にのめりこんだからです。宮司親子2代にわたり、お弟子さんと一緒に俳諧の旅を重ねて大盤振る舞いをした結果、借金のカタにとられてしまったらしい。全国にいくつか、句碑が建っていたそうですが、きっと今では、草木が繁っていたり、朽ちて土に返ったりしているのでしょう。

その後、曽祖母の才覚で青物問屋として再興して、最終的に玄孫ができるまで至ってます。が、一家を大変な目に遭わせた俳諧について触れようという家族も少なかったのは残念なところ。祖母の姉だけが句碑の場所をまとめようとしていたところ、痴呆が始まり計画が頓挫。すでに鬼籍に入っています。

そんな話をことあるごとに聞かされてきたわけで、「俳諧」という響きに、なんとなく後ろめたさと胡散臭さを感じていました。観光しながら、句をひねるだけの旅で身を持ち崩すとは……。(本当は別のことに夢中だったのでは?などと考える始末)

しかし、今日は「俳諧がやめられない」という現象に納得しました。

ゲンロンカフェで安田登さんと山本貴光さんの「禍の時代を生きるための古典講義――第3回『おくのほそ道』『鶉衣』を読む」配信を観ていたのですが(有料・タイムシフトで1週間公開中→https://ch.nicovideo.jp/genron-cafe/live/lv326432214)、そこで語られた《おくの細道はTRPGだった》という安田さんの案内がたいへん魅力的。おそらく初めて「俳諧」の魅力を理解することができました。もちろん、芭蕉などとは比較にならないほど無名な曾祖父たちが同じだったとは言いません(明治〜大正の世の中ですし)が、「ただ景勝地に行って一句ひねるツアー」ではなかったことは確信しました。

二次元的な想像力と知性、霊感的なものが交わったところで快楽を求め、終わらないゲームを楽しみ続けている。しかも、仲間たちと。

これは……もしかして……玄孫のわたし、日常の風景なのでは……?

血は争えないという言葉は、あんまり使いたくないですが、仕方がありません。まったくもって、その通り。「血は争えない問題」は他にもいろいろありますが、とにかく俳諧について、もっと深めたいなぁ。

サードプレイスは幻想か

「米スタバ、持ち帰り・デリバリーへのシフト加速 「コロナ後」見据え」https://forbesjapan.com/articles/detail/35150

さんざん「サードプレイス」を掲げてきたのに、ひどい方向転換だ。企業が決めたことなので、抗議するわけではないけれど。学校でも、家でも、オフィスでもない「自分の時間」を過ごせる場所。結局のところ、それは外側に依存していただけで、自分で制御できなかったのだなと打ちのめされる。

スタバだけの問題ではないし、日本でも同じことだ。カフェあるいは喫茶店は豊かな時間を提供してきた。多くの人にとって、息を吸うように自然なことだったので、無くなることを考えていなかったのだ。

居酒屋やファミレス、カラオケの深夜営業について、継続的に取りやめるところが増えている。

仕事で遅くなった(という言い訳をしたい)時、いる場所がなくなってしまう。「ちょっと、今日はこのまま帰りたくないのだが……」という時に、フラッと立ち寄るのが難しくなる。そこまでの決意を持たねばならないことだろうか。

Photo by Khara Woods on Unsplash

実際に、そういうことが起きている。

わたしはゲンロン主催のスクールに通って、かれこれ3年ほどになるが、その二次会の重要拠点のひとつである居酒屋が閉店になってしまった。周辺では動揺の声があがった(自分自身も瞬間的にMLへ投稿していた)。この衝撃は、まだ尾を引いている。

そして先日、22時過ぎのリモート仕事を終えた後に困ったことが起きた。自分に「お疲れ!」を言うための小腹を満たす・一杯をやる店が、どこも空いてなかったのだ。「せっかく頑張ったのに…くぅっ…なぜ…」と、昼も食べてなかったので空腹がたまらず、コンビニで飲み物とつまむものを購入。夜の公園で一人飲みである。

世の中には、「おうち◯◯」や「#StayHome」を避けたい人もいる。けれども、家族の絆を声高に言う人が増えれば増えるほど、そういう声が消されていく。

仕事のデキる素敵な人が「なんか最近、在宅になってコーヒー飲まなくなりましたね。あれは結局場所を買っていたんだと思う。もったいなかったかも。いまは家でプロテイン飲んでますよ。家族との時間もできたし。もう、こういう働き方がいい」的な話をしてるのを聞いた。いいなぁ。勝ち続けている。

もちろん、本当に幸せな時間が過ごせる人は構わないのだ。家でも一人になれるだけの理解と、スペースがある人は、そのようにすればいい。そしてたまに、特別な時間を過ごすのもいいだろう。

けれども、それはやはり、限られた人だけの贅沢である。だからこそ、飲み食いをしたり、価値観を共有するための公共の場所が必要だったのだ。

民主主義はカフェから始まったと言うけれど、今回わたしは時代劇を思い出した。屋台や茶店、蕎麦屋でなら町人と侍が話をする(茶事も似たようなことはあるが、それは招かれなくてはならないのでこの場合は当てはまらない)。いま、時代劇チャンネルで流れているドラマの数々は、民主主義が産んだフィクションなのかもしれない。

わたしはいま「家」でも「会社」でもない場所でこの原稿を書いている。いちおう、サードプレイスを確保しているわけだ。他人から見れば、馬鹿なことだろう。家賃と二重に場所を支払い、在宅勤務ならしなくてもいい出費をしている。けれども、わたしが辛うじて生きてこられたのは、サードプレイスのおかげだ。これは幻ではない。幻想にしてはいけない。

だからと言って、わたしに今できることは少なすぎるのだが……。このような場所で過ごして生きていくこと。これは本当に、続けていこうと思う。

2020年のブラックホール

Photo by Hello I’m Nik 🎞 on Unsplash

ここ2〜3ヶ月ほどのあいだに、使いたくないワードが増えてきた。謎の造語がの増殖力がすごい。このままどんどん膨張していき、しまいには無になるのでは、などと思ってしまう。

もちろんすべてを調べているわけではないのだけれど、英語と日本語で、それらを使うときのモードが違うということに気づいた。日本語は、「わたしが〜します」「わたしが〜しよう」ではなくて「〜を守る」「〜してはいけない」が強く働く社会で使われているようだ。

たとえば、social disancingだ。「ソーシャルディスタンシング」のことを、日本でもはや「ソーシャルディスタンス」としか呼ばなくなってきている。

近い将来、特に地方の差別を取材した記事で「日本人があえてソーシャルディスタンスを使った理由」などというタイトルで記事にならなければ良いなと思う。もちろん、非英語圏ではこのような使われ方になりやすい。英語圏でもsocial distanceという語が使われてもいる。特に本邦の場合は単純に語感の違いでこうなってしまったわけだ。それにしても、根本的な違いがあると思われる。

それは、謎の造語にも表れている。

◆「三密」密だ・である」「密な」
サンミツか、ミツミツか。いずれにしても、わたしは使いたくない。厚労省の見解によると以下の通りだ。
1)[密閉された場所]……窓やドアが開いていない、風通しの悪い場所
2)[密集した場所]……人がたくさん集まっている場所
3)[密接した場面]………人と人との距離が近い場面

実は英語版も作っているのだけれど(3Cと呼ぶそうだ)、この手のイニシャルをとった形式は、英語にしても意味がないと思う。日本語話者にとっても、本当に効いているのか疑問だ。
https://www.mhlw.go.jp/content/10900000/000615287.pdf

◆夜の街
ただの職業差別用語。当然ながら、夜だけに発生するウイルスではない。今は陽性とわかった人のうち半分にも満たない人が「夜の街で●人」と謎のカウントをされている。

◆クラスター班
「これを避けよう」という、集団リンチ・ヒステリーの一歩手前を作り出している。差別の温床。血眼になって「クラスターをつぶす」と言っておきながら「差別はよくない」と言うのは現実からすると卑怯な話だ。

他にもいろいろ。賛否両論あるだろうけれど、わたしは使いたくないので否定的なコメントだけ載せた。いずれにしても、これらは「してはいけないこと」を挙げている。「●●を避ける」というだけで、何をすれば良いのかはわからない。

じゃあ何をすればいいんだろうって考えてみた。

もしかして、「ちょっと離れてみる」ぐらいのことではないか? 「三密を避ける」が意味するのは、要するに「ちょっと離れてみよう」なのだ。

公式見解やいろいろなところで「三密の発見が日本モデルを支えている」と強調しているけれど、一周回って実際にできることは「ソーシャルディスタンシング」という世界共通の考え方に近い。

要するに、どの国も同じようなレベルのことしかできないのだ。

ハッシュタグの快感、その行方【改】

Photo by bady qb on Unsplash

「#MeToo」は、たしかに世界を動かすコピーだった。良いことも、悪いことも加速させた。あらゆる物事にはいい面も悪い面もあるが、暗黒面にすぐ落ちてしまう。特に昨今のハッシュタグの使われ方は酷い。どの主張もおよそ、吊し上げと変わらない。

言葉は人を救うが、殺めることもできる。近ごろは、そのおそろしさを知っているはずの人まで、ためらいを見せずに、強い言葉を発している。わたしは、そこにたいへんな違和感をおぼえている。

声を上げることの暴力性を意識している人が、強い声を上げる。ということはつまり……「それ」への暴力を認めるということだ。その名前の付くものには何を言っても赦されると思っているのだろうか。

たとえば。「電通」への言及について。このことを書くと、嫌う人がいるだろうなぁとは想像がつく。片方からは「擁護するな」と。もう片方は「野暮なことをするな」「端くれで業界人ヅラするな」と。わかっていて、あえて書いている。

たしかに、過去に何度も過労死を出しているのに隠そうとするとか、ハラスメントがなくならないなどの問題は、社会のそこ彼処に存在している。「電通」固有の問題ではない。他の業界や会社、無数の組織がやっていることだ。つまり、ここ(特に日本)は、そんな社会なのだ。これを変革したいという気持ちの表出だとしても、この「なぶり方」は正しいのだろうか?

むしろ、雪崩式に行われることによって「そうしたものが何故なくならないのか」がよく見えてしまう。けれども発信者は、そんなことをしたいわけではないはずだ。「正しいこと」をしている。そう、だからこそ、ちょっと考えてほしいのだ。誰かが命を断つ前に。


抽象的な話をしても実感がわかないだろう。いくつか、業界の中の話をしたい。

広告代理店、あるいは広告制作会社には、いろんなイメージがあるだろう。しかしその本質は、基本的にサービス業である。内訳は「制作側」も「営業側」に分けられるが、どちらも目の前のクライアントや世の中の人に喜んでもらうための仕事をしている。

特に、省庁や自治体の仕事は「必要とされている」ことでモチベーションを保つことができるものだ。はっきり言って、簡単に利益が出せる仕事ではない。

入札で適正価格を、と言うけれども、そもそも国や自治体向けに、通常価格では受注できない。およそ予算は少ないから。もし世の中で「それが適正価格なのだ」と言うのであれば、どんどんデフレは進むだろう。そもそも入札のために制作した提案にも費用がかかっているが、多くはプレゼン費用が出ない。

いざ、受注となってからも大変だ。おしなべて担当者とのやりとりは行政文書的で、難航する。社内・協力会社のスタッフも疲弊する。ちなみに全ての作業を社内で行えるような会社は存在しないはずだ。もしできるとしたら、恐ろしい。

そんなわけで(わたしは直接存じ上げないが、おそらくは)、持続化給付金のサービスインにかかわった人は職種に限らず、自らをエッセンシャルワーカーであるという意気込みで携わっていたはずだ。いろんなところで不具合が起きた(ている)のは、医療ミスと同じぐらい致命的なことだ。けれども、それをいたずらになぶり続けることで解決しない。医療ミスを考えればすぐにわかるだろう。

それからひとつ、伝えておきたいことがある。実は、利益率の低い仕事を代理店本社で請け負わないのは、長時間労働反対の訴えの結果だ。だからそこを攻撃するのは、実はロジック的には矛盾している。本社で行うのは「極めて筋のいい仕事」が多い。時間も社員の数も限られている。全体的にクライアントの予算も減っていて、社員の工数管理に見合うものが減る。それがダメなら、会社の機能が成り立たなくなる。その結果が、外注に頼るということ。外注するのもダメだというなら潰れろというのか?…と穿った見方まで出てきても仕方がない。

そもそも、広告業界など、業界全体がクライアントから受注することで成り立っているもの。日本の企業の仕組みをドラスティックに変えようとせずに、代理店の異常さを煽っても何も産まない。(海外のような競合禁止を貫くのなら、中小企業を減らさないとダメだが、それは日本の社会にとって本当にいいことだろうか?)

ちなみに、「電通はダメだが博報堂はいい」という話はデマに乗っかっているにすぎない。そもそも長時間の打ち合わせは博報堂の文化。多くの人の目が電通に行っているので、気づかれないだけだ。……もっとも、博報堂はそうした戦略でカバーリングをしていると言えるのかもしれないが。それは、ただ着ぐるみでごまかしているに過ぎない。


しかしわたしは、ある意味ではラジカルな考え方の持ち主だ。システムを滅するという観点では、こういうのはいいかもしれないと思う。念のため言っておくと、提言などではなく「想像してみた」というレベルのものだ。

代理店は公共の事物の一切に関わることなく、すべての業務を直取引にする。

おそらく現場は疲弊するだろう。 もともと公務員の数を減らしていたところでもあり、大パニックが想像される。

もちろん、そうした業務に適した人はいるかもしれない。しかし、それに没頭していたら、元々していた業務ができなくなる。外注するのも、ひと苦労だ。

(Aコース)
現状の仕組みを変える。
自治体や省庁の1〜2年交代の持ち回り廃止。
なぜなら、現場がわかる人間がいないから。
体制づくりをするにも、人が足りない。
広報・制作業務の専門職を作っちゃおう。

コミューンの香りで面白すぎる。わたしはそんなものに入りませんが。

(Bコース)
良いものを作るとか周知してもらうとか、
あんまり関係ない。
わかりづらいと言われても、読んでわからないのが悪い。
時間を割かずに片手間で済ませよう。
名称とかロゴは市民・国民から集めればいい。
タダとか賞金数万円で済むから全部公募にしよう。

Bコースになる流れでしょうね。なんでも公募すればいいって感じだから。

しかし、これでもまだヌルいかもしれない。

国や自治体の業務に、民間が関わるときは利益を考えないこと。

これが、答えだろうか? もちろん、そういうことにすれば、みんなの気持ちは収まるし、当然、政治にかけるコストも低くなる。もしかしたらいいことかもしれない。ただひとつネックなのは、いま以上に社会への関わりを意義あるものに感じなければ、誰も得をしない制度。「関わった」という満足感を搾取するだけではないか。活気のない世の中であれば、ますます絵にかいた餅になり、誰も触らずカビが生えていく。もっと悪いのは「能力があるなら貢献せよ、さもなくば生きる資格がない」などと言い始めることだ。


さて、ハッシュタグの話に戻ろう。たまたま、ここ数日のトレンドについて述べたので「電通」の話になったのだが、業界ネタを書きたかったわけではない。

たかがハッシュタグ。されどハッシュタグ。「me too」ではなく「#MeToo」が重要だったのは、集計と検索がしやすいハッシュタグがついたからだ。このハッシュタグは、社会を動かすための機能ではない。これはラベリング。誰が何を言っているのかをわかりやすく、見つけやすくするための機能だ。

本来的に、多くの人はラベリングをすることに快感を得るものだと言われている。感覚的にも、同じように分類されたものを見るとわかりやすい。本能的に身につけてきた把握する力だろう。そして、仲間を見つけると安心をする。アーカイブ的な機能に加えて、共感を大切にするという意味でも、SNSにおけるハッシュタグは、人に快感を与えてくれる。

そして、「#MeToo」が持つ「わたしはここにいる(た)」という主張は、手を挙げる行為と分ちがたい性質を帯びている。もともとの世界と結びついていたからこそ、爆発的に増えたものだった。だから、もしも「#MeToo」というハッシュタグとともに猫の画像を掲載したとしても、何の意味もない。そのような空虚なもので数を増やしても意味をなさない。なぜならば、数を増やすこと「だけ」に意味を持たせることに反旗を翻そうという試みでもあったからだ。

冒頭にも述べたが、言葉の力を知っている人の、悲しい行為を何度も見た。それらが強いからだけではない。それ以上に虚しさが募るのだ。「もう言うことがない」けれども「このハッシュタグをトレンドから消してはいけない」からと言って、無関係な画像や内容を掲載したハッシュタグ付きの投稿を上げるのは、どうしてだろう。それがおもしろ投稿ではないのだ。本気である。だからこそ、もうダメじゃないかと宙を見てしまった。言葉の力など、息も絶え絶えになっている姿がそこにあった。

ハッシュタグで刻む言葉は、つまるところ、空にむけて掲げる手と同じである。一見すると、何も事をなすわけでは無い。しかしその手は「たかが」では済まされない。他の言葉と同じように、いつでも暴力性を秘めている。人を動かす可能性も秘めている。

そのとき、あなたは、こぶしを突き上げるのか、振っているのか、どうしたいのだろう? その場所は、ライヴハウスか、道端か、車窓から? どこでも誰にも迷惑をかけない、というわけにはいかない。目立つな、外が見えない、目障りだ、そう思われることは大いにある。それでも声を上げなくては、と思ったら、声をあげればいいのだ。それを止めることは、誰にもできない。

だからせめて、どこで、誰に、どのように向けているのか、自覚的でありたい。「ただの暴力」にならないために。

珍しく組織論とか考えてる

乗っているのがモロい舟でも、よく知らないが頑丈な物質で覆われているので、航行に支障はない。助けてくれた人もいるし、悪い人ばかりではないと思うと、出ていくことがなかなかできない。手塩にかけてきた愛着もある。さらに、別の船や島が見つかるかどうか不安だから。

ただ、やはり海には嵐も起こる。そのときに舟の中での様子が大切なのだと思う。ここで方向性に決定的な違いがあると、船員は脱出を図るだろう。

今回、新型コロナウイルスへの対応によって、イメージの命運が分かれてしまったのは、政治の問題だけではない。組織のリーダーの覚悟が透けて見えてしまった。航海を経済活動になぞらえれば、いま起きているのは嵐と同じだ。いや……むしろ、病が感染しているのは異常気象と似ている。理由はわからないが毎日台風が来てるのに「出社しろ」と言うのと変わらないのだと思う。

本邦には中小企業がたくさんある。多くの場合、そこにあるのは「さほど潤沢ではないが会社がまわせる資金」と「平凡な市民」だ。社長や管理職でさえも、少々の野心があるが基本的には平和に人生を送りたい善良な人々である。それであれば、なおさら重要なのが組織の設計や組織が体現する思想やアイデンティティだ。

しかし、それができていないところがあまりにも多すぎる。もし語弊があるのであれば、こうも言い換えることができる。好印象を残しているのは、それができているところだけ、なのだ。

会社の歴史は関係なさそうだ。長い実績があってもなかなか社としての方針を出さないところがある。バブル崩壊もITバブルもリーマンショックも、東日本大震災さえ経験したのに。むしろ「震災の時も乗り越えたから大丈夫」という意識があるようだ。しかし、そういう人に限って具体的な方策も示さず、なぜ乗り越えられたかについては精神論しか語らない。リーダー的存在の発言に、今回は本当に、心からうんざりしている。ちなみに、これはひとつの企業を責めているわけではないので、悪しからず。

この短期間でショートするかどうかとは別のところで、既存の組織が壊れて社会がますます変化する流れが作られるのではないか。むしろ、新しく書き換わっていかないと、マズい。非常に危うい。まぁずっと変な国なんだけど。

折しも(4/5深夜)、先ほど「緊急事態宣言の【準備】に入る【見通し】」という謎のニュースが流れてきた。おそらく、この発表を受けて色々と準備に入る企業もあるのだろう。ため息しか出ない。しかし同時に、仕事があるのはありがたいこと。がんばります。

それにしても、みんながこんなに管理されたいとは思わなかったな。でも考えてみれば、管理されたい人が多いから、現状の学校や社会でうまくいってる人がマジョリティなんだね。わたしはできるだけ、死ぬまで抜け道を探していきたい。組織論とか考えてみたけど、社長には向いてなさそうだ。

2020/2/9に国際展示場へ来てほしい、たったひとつの理由

久しぶりの投稿になってしまった。大きな言い訳は、ひらめき☆マンガ教室で同人誌を作っていたから。もちろん、マンガを描いてるわけではない。いろいろあって「編集長」とサークルの「リーダー」をした。その生活も、もう終わる。

明日、2月9日の14時までに。国際展示場に来てほしい。そこでは「コミティア」というイベントが行われている。同人誌の即売会だ。入場券代わりに1000円で「ティアマガジン」を手に入れたら、西ホールにある「の07b」のブースに行ってみてほしい。そこでは『さよなら家族・またきて家族』という本が売っているはずだ。表紙あわせて172ページ、500円。その本には、3ヶ月分の熱量が詰まっている。

ひらめき☆チームA『さよなら家族・またきて家族』

「ガラじゃないこと」もたくさんした。それでも、作品をベストな状態で見せたかった。何がなんでも、よい本を作りたかったし、いろんな人に読んでほしいと思う。

今回のコミティアの参加予定サークル数は、過去最多だという。SNSもマスメディアになってしまった2020年。こういう場所での体験が「オルタナティブ」なコンテンツに触れることなのかもしれない。

いや、それより何より。読んでくれたあなたにはぜひ、『さよなら家族・またきて家族』買ってみてほしい。

ただただ、それだけです……!

平成最後の……

このフィーバーとともに

あと10日ほどで平成が閉じる。土曜日のテレビニュースでは、その1週間のテレビで放映された出来事のダイジェストが流れているのだが、最近目につくのは、今上と現皇后のフィーバーぶりだ。

「私的」に旧正田邸を訪れるとか、退位の報告を伊勢神宮へ行うとか。それだけのことで……あえて言おう。たったそれだけのことで、沿道に行列ができるという事実は捨て置けない。ゴールに向かって走る長距離の選手でもなければ、優勝パレードでもない(そこに旗を振る必要があるかは、また別問題として)。

ところで、「平成」を振り返ることは必要だ。曲がりなりにも、3つのディケイドが過ぎ去ったのである。戦後70余年の半分に迫る時間が過ぎている。今上である天皇は、自らの言葉として、昭和天皇が途中から始めた「象徴」という姿を模索した30年だったと述べている。

天皇が象徴を模索していた平成。この時代を象徴するスポーツは、サッカーだろう。平成の初期、バブルの賑やかさとともにJリーグは幕を開けた。日韓W杯の合同開催。そして最後の10年は、東日本大震災、女子サッカーW杯優勝、Jヴィレッジが福島第一原発の処理の拠点だったこと……やはりサッカーと平成は切り離せない。

ロスタイムまたはアディショナルタイム

サッカーで考えれば、退位の表明から、その日までの時間は、「ロスタイム」あるいは「アディショナルタイム」のようなものだ。この概念は、サッカーという競技が「お茶の間」で浸透してもたらしたもののひとつでもある。

日本でずっと呼んでいた「ロスタイム」は、(loss of time)を元にした和製英語。いわゆる「空費時間」。「追加時間」とみなす(additional time)という風潮に染まったのは2000年代に入ってからのことだ。なんで変わったのか? ざっくり言うと、「サドンデス」を「ゴールデンゴール(日本ではVゴールと言っていた)」と言い換えるのと同じ傾向。「あと●分しかない」ではなくて「あと●分もある」という意識が変わるとか、そう言う心理的側面がひとつ。これはアメリカでW杯が開かれたことにもよるらしい。アメリカの人は、タイムマネジメントされた球技が好きだから、性に合わなかったようだ。

譲位をほのめかした「お言葉」の際には、ゴールとなる日付は用意されていなかった。つまり、正式に「退位の日」が4月30日と決まる前には、終わりの見えないロスタイムのようなものだった。そのフワッとした時間の捉え方は、日本のあちらこちらで見られた。わたしの周りだと、カレンダー作る時どうするんだ、とか。

しかし、終わりの明確なラインが見えてくると、それは「アディショナルタイム」の様相を帯びてきた。時間を積極的に使う姿勢があちらこちらで見られたのだ。それは例えば「平成最後の〜〜」が強調されたり、「次の元号は何か?」という問いかけも増えていったりすること。この短い1年の間で、平成サッカー史のおさらいをしていたとも言える。

そう考えると、最近の熱狂ぶりも納得がいく。そうだ、この熱狂は、試合終了になだれ込む渋谷センター街の予行練習に違いない。

何が問題か、それが問題

天皇と皇后が現れる場所であれば、日本全国どこでも渋谷のセンター街なのだと考えれば、「地元」だけではなくて、わざわざ別の地域から来ている人がいるのも自然である。もちろん、そんなのは好きにすればいいことだ。迫っかけの気持ちは、わからないでもない。感極まって涙ぐむとか、コメントが支離滅裂になるとか。夢中になるとは、そういう訳のわからない域に達することだから。

しかし、追っかけをすると言うことは、それを崇拝することだ。ある種の信仰のようなもの。この様子を普通に放映して、本当に問題はないのだろうか。

少なくとも、2019年の日本では、問題はないとされる「空気」が出来上がっている。祭政分離の国ではなかったんだっけ…?こちらが不安になる。

そんな「空気」を体現したのがNHKのニュースだ。記者が[皇室の祖先の「天照大神」]という書き方をしても、スルーできる空気。「とされる」を入れるかどうかの違いが意識されていないのだと思う。陰謀とかそういうことではなくて、現場で由々しき事態とは思われていない可能性が高い。(ローカル局までは更新できないようだ。下記リンク先は東海NEWS WEB)

https://www3.nhk.or.jp/tokai-news/20190418/0004278.html

もしも。徳仁という個人にインタビューすることが叶うのなら、聞いてみたい。歩くだけで、沿道で旗を振られるという熱狂的な国民の姿を目の前にして、本人は何を思うのだろう。この数十年かけて祈り続けてきた、その先にあるのが、この光景であることに対して、どのように思うのだろう。その心境を伺いたい。しかし、今のわたしにできることは、思い至ろうとすることだ。

答えは出ないまま、次の時代がそこまで見えている。