平成最後の……
このフィーバーとともに
あと10日ほどで平成が閉じる。土曜日のテレビニュースでは、その1週間のテレビで放映された出来事のダイジェストが流れているのだが、最近目につくのは、今上と現皇后のフィーバーぶりだ。
「私的」に旧正田邸を訪れるとか、退位の報告を伊勢神宮へ行うとか。それだけのことで……あえて言おう。たったそれだけのことで、沿道に行列ができるという事実は捨て置けない。ゴールに向かって走る長距離の選手でもなければ、優勝パレードでもない(そこに旗を振る必要があるかは、また別問題として)。
ところで、「平成」を振り返ることは必要だ。曲がりなりにも、3つのディケイドが過ぎ去ったのである。戦後70余年の半分に迫る時間が過ぎている。今上である天皇は、自らの言葉として、昭和天皇が途中から始めた「象徴」という姿を模索した30年だったと述べている。
天皇が象徴を模索していた平成。この時代を象徴するスポーツは、サッカーだろう。平成の初期、バブルの賑やかさとともにJリーグは幕を開けた。日韓W杯の合同開催。そして最後の10年は、東日本大震災、女子サッカーW杯優勝、Jヴィレッジが福島第一原発の処理の拠点だったこと……やはりサッカーと平成は切り離せない。
ロスタイムまたはアディショナルタイム
サッカーで考えれば、退位の表明から、その日までの時間は、「ロスタイム」あるいは「アディショナルタイム」のようなものだ。この概念は、サッカーという競技が「お茶の間」で浸透してもたらしたもののひとつでもある。
日本でずっと呼んでいた「ロスタイム」は、(loss of time)を元にした和製英語。いわゆる「空費時間」。「追加時間」とみなす(additional time)という風潮に染まったのは2000年代に入ってからのことだ。なんで変わったのか? ざっくり言うと、「サドンデス」を「ゴールデンゴール(日本ではVゴールと言っていた)」と言い換えるのと同じ傾向。「あと●分しかない」ではなくて「あと●分もある」という意識が変わるとか、そう言う心理的側面がひとつ。これはアメリカでW杯が開かれたことにもよるらしい。アメリカの人は、タイムマネジメントされた球技が好きだから、性に合わなかったようだ。
譲位をほのめかした「お言葉」の際には、ゴールとなる日付は用意されていなかった。つまり、正式に「退位の日」が4月30日と決まる前には、終わりの見えないロスタイムのようなものだった。そのフワッとした時間の捉え方は、日本のあちらこちらで見られた。わたしの周りだと、カレンダー作る時どうするんだ、とか。
しかし、終わりの明確なラインが見えてくると、それは「アディショナルタイム」の様相を帯びてきた。時間を積極的に使う姿勢があちらこちらで見られたのだ。それは例えば「平成最後の〜〜」が強調されたり、「次の元号は何か?」という問いかけも増えていったりすること。この短い1年の間で、平成サッカー史のおさらいをしていたとも言える。
そう考えると、最近の熱狂ぶりも納得がいく。そうだ、この熱狂は、試合終了になだれ込む渋谷センター街の予行練習に違いない。
何が問題か、それが問題
天皇と皇后が現れる場所であれば、日本全国どこでも渋谷のセンター街なのだと考えれば、「地元」だけではなくて、わざわざ別の地域から来ている人がいるのも自然である。もちろん、そんなのは好きにすればいいことだ。迫っかけの気持ちは、わからないでもない。感極まって涙ぐむとか、コメントが支離滅裂になるとか。夢中になるとは、そういう訳のわからない域に達することだから。
しかし、追っかけをすると言うことは、それを崇拝することだ。ある種の信仰のようなもの。この様子を普通に放映して、本当に問題はないのだろうか。
少なくとも、2019年の日本では、問題はないとされる「空気」が出来上がっている。祭政分離の国ではなかったんだっけ…?こちらが不安になる。
そんな「空気」を体現したのがNHKのニュースだ。記者が[皇室の祖先の「天照大神」]という書き方をしても、スルーできる空気。「とされる」を入れるかどうかの違いが意識されていないのだと思う。陰謀とかそういうことではなくて、現場で由々しき事態とは思われていない可能性が高い。(ローカル局までは更新できないようだ。下記リンク先は東海NEWS WEB)
https://www3.nhk.or.jp/tokai-news/20190418/0004278.html
もしも。徳仁という個人にインタビューすることが叶うのなら、聞いてみたい。歩くだけで、沿道で旗を振られるという熱狂的な国民の姿を目の前にして、本人は何を思うのだろう。この数十年かけて祈り続けてきた、その先にあるのが、この光景であることに対して、どのように思うのだろう。その心境を伺いたい。しかし、今のわたしにできることは、思い至ろうとすることだ。
答えは出ないまま、次の時代がそこまで見えている。