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誤解を生む身体(1)

さて。どんな本を読んだところで、いっこうに精神年齢が高くならない。というか幼く見えるようなので、肉体年齢を下げることにした。これで帳尻を合わせようかと。その手段は、エステではなくて、コラーゲンドリンクでもなくて、筋トレ。ジムに通い始めた。筋肉をつけて代謝アップをさせれば「体年齢」が下がるはずだから。

「見た目フワッとしてるけど、締めるところはギュッとできます」という感じで生きたい。

自分で認識する以上に、私の身体は誤解を生んでいる。そしてそれ以上に、自己像の認知が歪んでいるのだけど、それはまた別の話で。

どこまで理解してもらえるかわからないが、肌感として、実のところ「女である」というだけで低く見られるものだ。

例えば、初対面の挨拶を思い浮かべてほしい。目の前に、年頃の近しい男女がいたとする。背が高く日焼けした男性と、背が低くて色の白い女性。顔は、いずれも美しいとは言えないが、不細工だとも言えない。あなたは、第一印象としてどちらが「上司」「リーダー」だと思うだろうか? ――こんなことは、日常茶飯事、今日も日本のどこかでそんなシーンがあったに違いない。

私たちは、「女性は下にいるものだ」と思うようにプリセットされている。だから、やはり、見た目を変えていくことも大事なのでは、と。

ところで、周りの「仕事ができる」人がやっているように振る舞うことは、誰もが通る道だと思う。私の場合は、意識的に理性を憑依させるイメージだ。そういうモードに切り替える。

しかし最近、しっくりとこないケースが多い。違和感がある。自分の主張が認められないから、ではない。今までも、同じような振る舞いをしていると「生意気」と思われていたと思う。時には、男女を区別するバイアスを感じることもあったけれど、話はそこで終わりじゃないのだ。若さがなくなってくるにつれて「ヒステリー」というレッテルが増える。それは、私がそういう扱いをされた、ということではない。だから余計に身にしみる。

そして、私の見た目は幼い。背が低いし、顔つきも、美人じゃないし童顔。だけど体つきは「女性らしい」タイプだ。だから、身体が誤解を招いているのだと思う。能力が下だと思われながら、「女性らしい」身体でいるのは不利だ。背が低いのに加えて、社会的に低く見える要素が増えるから。加えて、もう若くないこと。それはなかなか手強い。「おばさん」になるのはリスクが増える。

そして今や、自分で思うよりも、ずっと若くない。

仕事終わりに、後輩から「今日は若い連中で飲みに行って来るッす」と言われたとき、世界が色を変えるほどの驚きがあった。ひがみでも何でもなく、〈あぁ、私は若くないと思われている〉という発見。

とは言っても、もっとも危険なのが「あの人、何も考えていないよね」という女性。「年だけとってる」人だ。これになるのは、正直言って避けたい。でも実際のところ、そういう人は多い。だけど、本人たちだけの問題ではないと思う。「女の子はそんなこと考えなくていいよ(そういう大事なことは男が考えるから)」という風潮に乗ってしまった結果だ。だからなんというか・・・・・・意識しないと、そうなってしまうような気がしている。

だから、私はいま、第三の方向を目指したい。「痩せればモテる」ということではない。見た目が変わることで、何かを変えられると良いのだけど。

令和元年は春を知らない

「令和」という文字を見続けていると、「ツンデレ」としか読めなくなってくる。

およそどれだけの人が「令」の文字に「(何事をするのにも)よい」という意味がある、とすぐに思い至るのだろうか? むしろ、レ点を付けて「和をせしむ」と読んでしまう人も多いのではないか? 

「令」の字を「れい」と読むと、およそ「上の者から下の者への指示」が思い浮かぶだろう。伝令、命令、指令。あとは、使い方は違うけど「令嬢」「令息」といった、称号の類。よく言えば凜とした、俗っぽく言えば「ツン」そのものだ。

「和」に関しては、「和み」とか「平和」とか。「和らぐ」だって割と使う。要するに「デレ」だ。

「ツンデレ」は言い過ぎだろうか。それでも語感としては、凜とした中のあどけなさとか。理性と感性の揺らぎとか。そうしたイメージが強い。

これは、実はとても意味があることだ。この元号を使うのは現代の私たち。この2文字を見たときに、現在を生きる私たちがどのような想いを抱くのか、それは最強のキャッチコピーになる。

『万葉集』が出典元との記者会見があった。梅見の宴で風流を詠んだ歌の序文であると。その序文が、これだ。

[天平二年正月十三日、萃于帥老之宅、申宴會也。于時、初春令月、氣淑風和。]

一見してわかるように、これは漢文の読み下しだ。「天平二年の正月十三日に、帥老の宅に萃(あつ)まりて、宴会を申(の)ぶ。時に、初春の令月(れいげつ)にして、氣淑(よ)く風和(やはら)ぐ」――つまりは――「太宰府の長官だった大伴旅人の邸宅で宴会が開かれた。初春の正月ということで、澄み渡る、風の穏やかな日だった」といった意味。

▼ちなみに、本当のところは、「日本の古典に『も』由来する」ということで専門家の意見はまとまっているそうだ。https://www.asahi.com/articles/ASM4154Z4M41UTFK00Z.html

たしかに『万葉集』は日本で最初の歌集であり、庶民の歌も収められている。そしてこの段では、大陸の文化がなかったら成立しなかった梅見の宴を題材にしている。これを漢字で書き留めるという連環を大切にしたい。

つまり、日本の文化は大陸の文化と分かちがたく育まれてきたのだということを思い出させる。国粋的な立場・国際的な立場の人も、どちらにも配慮した、鉄壁のシステムで出来上がっている凄さがある。

これを思うと、「和を令しむ」とのダブルミーニングではないか、との考えを捨てることはできない。

というのは、組織に長くいると、思うことがあるから。平和はやはり「心がけ」や「心ばえ」だけでは訪れない。戦略的なシステムと態度があって、平和は保たれるのである。

しかし、そもそも本当の「ツンデレ」は戦略的ではない。「ツンデレ」はするものではなく、なってしまうものだ。

令和は、その由来が「春」にあるのに、まだ春を知ることもなく、夏盛りを迎える。自らの由来を知ることのないまま、行く年来る年を重ねていく。

つまり、ダブルミーニングであることにも気づかずにいるのが一番怖い。平和的ファシズムが進んでいくのと変わりない。

私たちは平成が終わる頃になってようやく「平成が何者だったのか」を振り返るようになってきた。じきに始まる令和という時代は、もう少し元号のことを、その背後の制度について、思いを巡らす必要がある。せっかく考える時間が与えられたのだ。

そう、私たちにはすることがある。そのツンデレを、もっと可愛がらなくてはならない。「……っ、そんなことない」と言いながら、軌道修正をしていく。それがツンデレというものだ。

広告批評が気になる理由

「批評」という言葉は、ウケが悪い。信じられないくらい、本当に一般的にネガティブなイメージがついてまわる。

そのイメージとは、
・人の揚げ足をとってうれしいなんて気持ち悪い。
・誰も喜ばない、人を悲しませることを言うなんてタチが悪い。
・自分で作り出せないくせに、批判するなんて、つまらない人間だね。
―と、およそこのような具合である。

そんな「一般的なイメージ」よりも、さらに厄介なのは、「批評」がほとんど望まれていない業界のことを「批評」する場合だ。

それはたとえば「広告」のこと。

内側の人の多く(影響力のある、有能な人)は「批評」自体が無意味だと思っている。翻って、批評をする側にも「もはや『批評』するだけの価値はない」という応答もある。このままでは話が平行線。実のところ、私にとって師と仰ぐ人たちの中にも、そう考えている人が多い。

どちらの道理も、たしかに一理ある。広告業に携わる人に多いのが、何も生まずに文句を言うとか、難解な言葉や原理を使うことへの拒否反応。その一方で、『広告批評』が終刊を迎えたことに象徴されるように、すでに思想とはかけ離れたところに「広告」があるのだという前提で話してしまう。

しかし私の目には、「批評」と「広告」は切り離せないものだと映る。

もしも「作品性が生まれづらい」のが理由であれば、それ自体を論じることが価値のあること。「広告」は社会に生きる人のことを考え抜いて、新たな価値観を作っていくものだからだ。少なからずの社会を反映しているといえる。その点でやはり、「批評」と「広告」は分かちがたい。

最終的には、いろんなことを思っている人たちに「面白い」と言ってもらえる「批評」が書けるようにならなくては、と思う。 誰に望まれなくても、書いてしまうことがあるとしたら、その理由は目立ちたがり屋だから、ではない。大げさに言えば、詰まるところ「後世のため」なのかもしれない。