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コミティアの学漫ブースで、編集したマンガ本を出した

このあいだの続き。今日は長めです。

結果どうだったのか? ・・・少なくとも、55名のかたに購入いただいた。しかし3チーム中最下位。これは悔しい。だけど、買ってくれた人がいるのはありがたい。でも悔しい。その繰り返し。まぁ、どちらも本音です。

チームBのリーダー吉田さんがすごくよい文章を書いてます。この記事には、「やった人」にしか出せない言葉がたくさん出てきます。コミティアでもなんでも「やった人」なら共感できるはず。

次に進むため、わたしなりに振り返ってみた。

◆編集長という立場

まず、いままで会ってきたすべての編集長の人に平謝りしたい。わたしはなにもわかっていなかった…。いや、もちろん商業誌と比較するものではないのは承知のうえだけれども。これはもうほんとうに、もっと敬意を払わなくては!かたく心に誓いました。

◆リーダーとして

全力は尽くしたと思っていた。でも、いま振り返れば、やれることがもうちょっとあったのかもしれない。

身体的には限界突破していたので、「ほんとうにもう、もうムリ……」状態だった。しかし、まさにそこが敵。体力が削られたために「右眼と左眼で見る」的なことが十分ではなく、至らないところがあったと思う。

つまり「体力をつけておけばよかった」ということ。カラダづくり再開かも。(とか言いながら、レッドブル片手の意思薄弱な自分がここにいるよ)

◆コミティアこうすればよかったかも委員会

もしそんなものを開くとしたら、こんな感じです。

1)接客マニュアル

→こういうのって押しつけられたら楽しくないけど、リーダーとしてはやるべきだったのかもしれない。ただ、推したほうがいいのか、引いたほうがいいのかって、人や場所の雰囲気を見ながらやるのは、いろいろ発見があった。仕事で販促品とか作っても「売れろ〜売れろ〜」と念を送るだけなので、実際に売るのって楽しい。たまにだから楽しいとか言ってられるんだろうけど。

2)休暇

→これは難しい問題だ。人は暮らしていかねばならないから。ややこしい案件ほど突然やってくる広告関係の仕事がアダになった。翌日の半休が精一杯。土曜は休出したんだよ、これでも。忙しい自慢をしているつもりはなくて、有休とりやすい仕事ができない体質だから、仕方がない。裁量労働制という名のダークグレーな場所(だからといって高給でもない)でなないと仕事ができない人間もいるのだ……ぜんぜん自慢にならない。

3)店頭まわり

→イラレでカチカチと作ってる間は「このままでは店頭まわりにしては地味だ…もっと目立たねば…しかし予算もない…ぐぬぬ」と思っていた棚。意外と「プロっぽい」と好評だった。しかし、周囲を見て、もうちょっとハンドクラフト感があったほうがよかったのかも。なんか隙がない感じはあったなぁ。

4)アカウントの運用とか

これは、うん、ごめんなさい。これからもがんばりたい。キャラを作るとかしなかったのは、破綻しそうだったからな。長期運用できるんじゃないかなぁ。がんばります。

◆同人誌をつくるということ

広告関係の仕事でもディレクションをしていて、スキル的にそのまま使えるところも大きかった。しかし、決定的な違いがある。

「同人誌作成は、人がお金で動くわけではない!気持ち!」

これが、ホントにすごい難易度が高かった。

それぞれの日常や目標を抱えながら、「いいものにしたい」と思っている。見ている方向や、どこまでやるのかが、ちょっとずつズレてしまう。

(難しさの一例…たとえば普段の仕事なら、飛び道具として、たまーに、焼肉パワーも使える。しかし、今回わたしのポケットマネーが潤沢だとしても、これは有効ではなかったはずだ。みんな焼肉やお寿司を楽しく食べるだろうけど、そこゴールじゃないからね……)

言葉だけで人を動かすことの難しさは、すでにわかっていたことではある。それでも届かないことがあると無力感しかない。この体験も大事だった。

わかる人にもわからないかもしれない話をする。ときめきトゥナイト第2部で鈴世が「無力だ……!」の言葉とともにうなだれるような感じ。あれって絶対必要だったはず。そんな感じで、必要なことだったのだ。

同人誌をつくって売る、この課題は「中間講評会」のようなものだと思ってたけど、本当にこの半年あまりの集大成のような気がする。引き受けてよかった〜と思ってます。

◆このあとどうするの?

打ち上げは楽しかったけど、なんか自分だけ戦ってない気がした。そりゃそうだ。だってわたしはマンガ描いてないから。

同人誌つくるのでおあずけ状態だった『群像』のリニューアル以降を読んだ。なんとも言えないモードに突入した。どうせ、などと言ってる場合ではない。戦う準備に時間かけてる場合じゃない。みんなとっくに書いてるだろうけどね……!

広告批評が気になる理由

「批評」という言葉は、ウケが悪い。信じられないくらい、本当に一般的にネガティブなイメージがついてまわる。

そのイメージとは、
・人の揚げ足をとってうれしいなんて気持ち悪い。
・誰も喜ばない、人を悲しませることを言うなんてタチが悪い。
・自分で作り出せないくせに、批判するなんて、つまらない人間だね。
―と、およそこのような具合である。

そんな「一般的なイメージ」よりも、さらに厄介なのは、「批評」がほとんど望まれていない業界のことを「批評」する場合だ。

それはたとえば「広告」のこと。

内側の人の多く(影響力のある、有能な人)は「批評」自体が無意味だと思っている。翻って、批評をする側にも「もはや『批評』するだけの価値はない」という応答もある。このままでは話が平行線。実のところ、私にとって師と仰ぐ人たちの中にも、そう考えている人が多い。

どちらの道理も、たしかに一理ある。広告業に携わる人に多いのが、何も生まずに文句を言うとか、難解な言葉や原理を使うことへの拒否反応。その一方で、『広告批評』が終刊を迎えたことに象徴されるように、すでに思想とはかけ離れたところに「広告」があるのだという前提で話してしまう。

しかし私の目には、「批評」と「広告」は切り離せないものだと映る。

もしも「作品性が生まれづらい」のが理由であれば、それ自体を論じることが価値のあること。「広告」は社会に生きる人のことを考え抜いて、新たな価値観を作っていくものだからだ。少なからずの社会を反映しているといえる。その点でやはり、「批評」と「広告」は分かちがたい。

最終的には、いろんなことを思っている人たちに「面白い」と言ってもらえる「批評」が書けるようにならなくては、と思う。 誰に望まれなくても、書いてしまうことがあるとしたら、その理由は目立ちたがり屋だから、ではない。大げさに言えば、詰まるところ「後世のため」なのかもしれない。

残りものから勝手に選ぶ、2018年コンテンツ・ベスト5

おはようございます。こんにちは。
何より2019年もよろしくお願いします。

そんなときに今さら感はありますが、2018年のベストコンテンツ5を発表します。しかし、ここには勝手な「縛り」を設けています。すでに2018年12月21日に、ゲンロンの友の会総会において、さやわかさんが恒例の「ベスト100」を発表しています。そこに現れなかったものから選ぼう、という試みです。

けっこう無謀です。残りもの感は否めません。いやしかし、こういう事態は、いろんな意味で周回遅れになった者の宿命です。それではどうぞ。

1)青春五月党の復活
ついに。柳美里が2018年10月、福島・小高という地で青春五月党を復活させた。
舞台は「書店兼芝居小屋を作る」という構想が結実した「ラママ小高」。そして俳優は県立ふたば未来学園高校の演劇部の部員、顧問。彼ら/彼女らの世界として 2018年の『静物画』が 立ち現れたのである。

およそ20年越し?に観ることができたのは、もしかしたら震災があったからなのかもしれないと思うと、たしかに居心地が悪い。しかし、当時小学校の中学年だった彼ら/彼女らは、震災の記憶を生々しく感じている最後の世代になっている。 そして、声に出すには、ある程度時間が必要だったはずだ。このタイミングだからこそ上演できた『静物画』だ。

そして何より、下北沢や渋谷ではなく、小高という場所で発信していることの重要性。地方都市からも遠くはなれた町で、その地に生きる人々が声をあげること。時には、他から来た人とも交わること。選択肢が都会だけじゃない、ということが当たり前になったら素敵だと思うのは、観光客のうわごとだろうか。

そして小高に行く途中、飯舘村を通った。つくづく感じる。震災後という「戦後」はまだ終わっていない。

2)タッキー引退
解散しても、事務所が移っても、表舞台に立っていてくれればファンは観ることができる時代になった。それを表象したのが、SMAPというグループの変遷だ。新しいようでいて、これは意味的には「2010年代のモード」だ。しかし、タッキーの決断は(もちろん、不可抗力的なことが直接的な原因だったとしても)もっと新しい。「そう遠くない未来のモード」を予感させる。世の中の雰囲気は、景気と同じように、常に揺り戻しと共にある。

それをふまえ、つまり「見える化」を徹底的に行っている現在の次に起こることを予想すると、「見えないところこそ重要」というモードが来ることは、想像に難くない。「ポストトゥルースが行きつく先はSNS離れかもしれない」とか「GAFA(グーグル、アップル、フェイスブック、アマゾン)が盤石ではないかも」というささやきも聞こえる昨今、タッキーの引退について一連のセレモニーを「ただファンと事務所の内輪ウケ」などと言っている場合ではない。

3)チームラボ
2018年の作品には、「普通のひと」をあぶり出すえげつなさ、という一点において「芸術的」な意味がある。
具体的にはたとえば・・・・・・
・体のサイズ、筋力は標準以上
・アトラクションは誰かと一緒に楽しむ
・写真はたくさん撮るものだ
・「アート」は人をハッピーにする
ということに何事もなく抵抗感のない「普通のひと」かどうか? 要するに「リア充判定装置」なのだ。多様性なんてロンドンが燃えてるぜ!ぐらいの勢い。

4)「沖縄」
私たちは「沖縄」に依存しすぎている。しかし同時に、そのことを忘れているかのように振る舞う。

羽田空港の飛行コースが変わるからと言って、あの騒ぎようは一体何なのか。「沖縄」の人は笑うだろう。今さら何言ってるのかと。

基地の問題だけではない。いや、それに関係があるとも言えるが、平成の間に流行った歌の「沖縄」に関係する比率は相当なものだ。「沖縄」出身の芸能人には、とりわけ地域性が求められている。「沖縄」を消費するだけ消費した後に残るものは何だろう。「沖縄」が基地に依存しているのではない。日本全体が「沖縄」に依存しているのだ。

5)「発達障害」誤解キャンペーン
TVで取り上げないと、知られる機会が少ない。しかし、TVのインパクトが実態とかけ離れてしまうことがある。 啓蒙するのであれば、心の病気は脳という器官の不調だという観念と同じようなことが必要だ。心の病気については、もうそろそろ広まってきただろうか。発達障害も同じことだ。脳が変則的に動く。

障害者雇用を積極的にしている企業って限られているし、特性を活かした仕事が世の中に簡単あるのなら、そもそも苦労していない。若い人に夢を与えるだけでは、うまくいっているケースのPRでしかない。

その一方で「発達障害って個性って考えればいいんじゃないですかね」という無邪気なコメントに同調しても、訂正する人がいない。いや、それは確かに理想だ。だったらその人は、歩けない人にも「個性ですよね」と言うべきなのだ。

以上。何も統一感がないですよね。しかしながらここには、2018年の困難さが滲み出ているのではと。