読み込み中…

広告批評が気になる理由

「批評」という言葉は、ウケが悪い。信じられないくらい、本当に一般的にネガティブなイメージがついてまわる。

そのイメージとは、
・人の揚げ足をとってうれしいなんて気持ち悪い。
・誰も喜ばない、人を悲しませることを言うなんてタチが悪い。
・自分で作り出せないくせに、批判するなんて、つまらない人間だね。
―と、およそこのような具合である。

そんな「一般的なイメージ」よりも、さらに厄介なのは、「批評」がほとんど望まれていない業界のことを「批評」する場合だ。

それはたとえば「広告」のこと。

内側の人の多く(影響力のある、有能な人)は「批評」自体が無意味だと思っている。翻って、批評をする側にも「もはや『批評』するだけの価値はない」という応答もある。このままでは話が平行線。実のところ、私にとって師と仰ぐ人たちの中にも、そう考えている人が多い。

どちらの道理も、たしかに一理ある。広告業に携わる人に多いのが、何も生まずに文句を言うとか、難解な言葉や原理を使うことへの拒否反応。その一方で、『広告批評』が終刊を迎えたことに象徴されるように、すでに思想とはかけ離れたところに「広告」があるのだという前提で話してしまう。

しかし私の目には、「批評」と「広告」は切り離せないものだと映る。

もしも「作品性が生まれづらい」のが理由であれば、それ自体を論じることが価値のあること。「広告」は社会に生きる人のことを考え抜いて、新たな価値観を作っていくものだからだ。少なからずの社会を反映しているといえる。その点でやはり、「批評」と「広告」は分かちがたい。

最終的には、いろんなことを思っている人たちに「面白い」と言ってもらえる「批評」が書けるようにならなくては、と思う。 誰に望まれなくても、書いてしまうことがあるとしたら、その理由は目立ちたがり屋だから、ではない。大げさに言えば、詰まるところ「後世のため」なのかもしれない。

コメントを残す