やるべきこと
流行りの「オンラインサロン」。食わず嫌いは良くないと思って、入会しようと思ったのだが、財布を忘れて決済できなかった。「あぁ……」と思う一方で、そもそも、そんなことをやっている場合ではないのだと思いなおした。神様ありがとう。
令和が来る前にやるべきことがあるのだが、あと1週間なのでは。うん、ヤバい。
ディレクターの仕事も、原稿を書くのも。家のゴタゴタも。やりぬくって決めたのだから、毎日やります。
流行りの「オンラインサロン」。食わず嫌いは良くないと思って、入会しようと思ったのだが、財布を忘れて決済できなかった。「あぁ……」と思う一方で、そもそも、そんなことをやっている場合ではないのだと思いなおした。神様ありがとう。
令和が来る前にやるべきことがあるのだが、あと1週間なのでは。うん、ヤバい。
ディレクターの仕事も、原稿を書くのも。家のゴタゴタも。やりぬくって決めたのだから、毎日やります。
あと10日ほどで平成が閉じる。土曜日のテレビニュースでは、その1週間のテレビで放映された出来事のダイジェストが流れているのだが、最近目につくのは、今上と現皇后のフィーバーぶりだ。
「私的」に旧正田邸を訪れるとか、退位の報告を伊勢神宮へ行うとか。それだけのことで……あえて言おう。たったそれだけのことで、沿道に行列ができるという事実は捨て置けない。ゴールに向かって走る長距離の選手でもなければ、優勝パレードでもない(そこに旗を振る必要があるかは、また別問題として)。
ところで、「平成」を振り返ることは必要だ。曲がりなりにも、3つのディケイドが過ぎ去ったのである。戦後70余年の半分に迫る時間が過ぎている。今上である天皇は、自らの言葉として、昭和天皇が途中から始めた「象徴」という姿を模索した30年だったと述べている。
天皇が象徴を模索していた平成。この時代を象徴するスポーツは、サッカーだろう。平成の初期、バブルの賑やかさとともにJリーグは幕を開けた。日韓W杯の合同開催。そして最後の10年は、東日本大震災、女子サッカーW杯優勝、Jヴィレッジが福島第一原発の処理の拠点だったこと……やはりサッカーと平成は切り離せない。
サッカーで考えれば、退位の表明から、その日までの時間は、「ロスタイム」あるいは「アディショナルタイム」のようなものだ。この概念は、サッカーという競技が「お茶の間」で浸透してもたらしたもののひとつでもある。
日本でずっと呼んでいた「ロスタイム」は、(loss of time)を元にした和製英語。いわゆる「空費時間」。「追加時間」とみなす(additional time)という風潮に染まったのは2000年代に入ってからのことだ。なんで変わったのか? ざっくり言うと、「サドンデス」を「ゴールデンゴール(日本ではVゴールと言っていた)」と言い換えるのと同じ傾向。「あと●分しかない」ではなくて「あと●分もある」という意識が変わるとか、そう言う心理的側面がひとつ。これはアメリカでW杯が開かれたことにもよるらしい。アメリカの人は、タイムマネジメントされた球技が好きだから、性に合わなかったようだ。
譲位をほのめかした「お言葉」の際には、ゴールとなる日付は用意されていなかった。つまり、正式に「退位の日」が4月30日と決まる前には、終わりの見えないロスタイムのようなものだった。そのフワッとした時間の捉え方は、日本のあちらこちらで見られた。わたしの周りだと、カレンダー作る時どうするんだ、とか。
しかし、終わりの明確なラインが見えてくると、それは「アディショナルタイム」の様相を帯びてきた。時間を積極的に使う姿勢があちらこちらで見られたのだ。それは例えば「平成最後の〜〜」が強調されたり、「次の元号は何か?」という問いかけも増えていったりすること。この短い1年の間で、平成サッカー史のおさらいをしていたとも言える。
そう考えると、最近の熱狂ぶりも納得がいく。そうだ、この熱狂は、試合終了になだれ込む渋谷センター街の予行練習に違いない。
天皇と皇后が現れる場所であれば、日本全国どこでも渋谷のセンター街なのだと考えれば、「地元」だけではなくて、わざわざ別の地域から来ている人がいるのも自然である。もちろん、そんなのは好きにすればいいことだ。迫っかけの気持ちは、わからないでもない。感極まって涙ぐむとか、コメントが支離滅裂になるとか。夢中になるとは、そういう訳のわからない域に達することだから。
しかし、追っかけをすると言うことは、それを崇拝することだ。ある種の信仰のようなもの。この様子を普通に放映して、本当に問題はないのだろうか。
少なくとも、2019年の日本では、問題はないとされる「空気」が出来上がっている。祭政分離の国ではなかったんだっけ…?こちらが不安になる。
そんな「空気」を体現したのがNHKのニュースだ。記者が[皇室の祖先の「天照大神」]という書き方をしても、スルーできる空気。「とされる」を入れるかどうかの違いが意識されていないのだと思う。陰謀とかそういうことではなくて、現場で由々しき事態とは思われていない可能性が高い。(ローカル局までは更新できないようだ。下記リンク先は東海NEWS WEB)
https://www3.nhk.or.jp/tokai-news/20190418/0004278.html
もしも。徳仁という個人にインタビューすることが叶うのなら、聞いてみたい。歩くだけで、沿道で旗を振られるという熱狂的な国民の姿を目の前にして、本人は何を思うのだろう。この数十年かけて祈り続けてきた、その先にあるのが、この光景であることに対して、どのように思うのだろう。その心境を伺いたい。しかし、今のわたしにできることは、思い至ろうとすることだ。
答えは出ないまま、次の時代がそこまで見えている。
さて。どんな本を読んだところで、いっこうに精神年齢が高くならない。というか幼く見えるようなので、肉体年齢を下げることにした。これで帳尻を合わせようかと。その手段は、エステではなくて、コラーゲンドリンクでもなくて、筋トレ。ジムに通い始めた。筋肉をつけて代謝アップをさせれば「体年齢」が下がるはずだから。
「見た目フワッとしてるけど、締めるところはギュッとできます」という感じで生きたい。
自分で認識する以上に、私の身体は誤解を生んでいる。そしてそれ以上に、自己像の認知が歪んでいるのだけど、それはまた別の話で。
どこまで理解してもらえるかわからないが、肌感として、実のところ「女である」というだけで低く見られるものだ。
例えば、初対面の挨拶を思い浮かべてほしい。目の前に、年頃の近しい男女がいたとする。背が高く日焼けした男性と、背が低くて色の白い女性。顔は、いずれも美しいとは言えないが、不細工だとも言えない。あなたは、第一印象としてどちらが「上司」「リーダー」だと思うだろうか? ――こんなことは、日常茶飯事、今日も日本のどこかでそんなシーンがあったに違いない。
私たちは、「女性は下にいるものだ」と思うようにプリセットされている。だから、やはり、見た目を変えていくことも大事なのでは、と。
ところで、周りの「仕事ができる」人がやっているように振る舞うことは、誰もが通る道だと思う。私の場合は、意識的に理性を憑依させるイメージだ。そういうモードに切り替える。
しかし最近、しっくりとこないケースが多い。違和感がある。自分の主張が認められないから、ではない。今までも、同じような振る舞いをしていると「生意気」と思われていたと思う。時には、男女を区別するバイアスを感じることもあったけれど、話はそこで終わりじゃないのだ。若さがなくなってくるにつれて「ヒステリー」というレッテルが増える。それは、私がそういう扱いをされた、ということではない。だから余計に身にしみる。
そして、私の見た目は幼い。背が低いし、顔つきも、美人じゃないし童顔。だけど体つきは「女性らしい」タイプだ。だから、身体が誤解を招いているのだと思う。能力が下だと思われながら、「女性らしい」身体でいるのは不利だ。背が低いのに加えて、社会的に低く見える要素が増えるから。加えて、もう若くないこと。それはなかなか手強い。「おばさん」になるのはリスクが増える。
そして今や、自分で思うよりも、ずっと若くない。
仕事終わりに、後輩から「今日は若い連中で飲みに行って来るッす」と言われたとき、世界が色を変えるほどの驚きがあった。ひがみでも何でもなく、〈あぁ、私は若くないと思われている〉という発見。
とは言っても、もっとも危険なのが「あの人、何も考えていないよね」という女性。「年だけとってる」人だ。これになるのは、正直言って避けたい。でも実際のところ、そういう人は多い。だけど、本人たちだけの問題ではないと思う。「女の子はそんなこと考えなくていいよ(そういう大事なことは男が考えるから)」という風潮に乗ってしまった結果だ。だからなんというか・・・・・・意識しないと、そうなってしまうような気がしている。
だから、私はいま、第三の方向を目指したい。「痩せればモテる」ということではない。見た目が変わることで、何かを変えられると良いのだけど。
ずっと気になっていた、このサイトのSSL化が完了。
ブラウザで見るたびに「安全ではありません」と表示されて「あぁぁぁぁ……」と残念な気持ちでいっぱいだった。これが解消されただけでも、ずいぶん気持ちが晴れやかになる。
もう私は、ほとんどコーディングができない。かなりのタグを忘れているし、いろんな情報が古いままだ。だけど、自分でウェブサイトが立ち上げられるという感覚は、大事にしていたい。
こうして、だんだんと「古い人間」になっていくのだろう。そんな気もする。
「令和」という文字を見続けていると、「ツンデレ」としか読めなくなってくる。
およそどれだけの人が「令」の文字に「(何事をするのにも)よい」という意味がある、とすぐに思い至るのだろうか? むしろ、レ点を付けて「和をせしむ」と読んでしまう人も多いのではないか?
「令」の字を「れい」と読むと、およそ「上の者から下の者への指示」が思い浮かぶだろう。伝令、命令、指令。あとは、使い方は違うけど「令嬢」「令息」といった、称号の類。よく言えば凜とした、俗っぽく言えば「ツン」そのものだ。
「和」に関しては、「和み」とか「平和」とか。「和らぐ」だって割と使う。要するに「デレ」だ。
「ツンデレ」は言い過ぎだろうか。それでも語感としては、凜とした中のあどけなさとか。理性と感性の揺らぎとか。そうしたイメージが強い。
これは、実はとても意味があることだ。この元号を使うのは現代の私たち。この2文字を見たときに、現在を生きる私たちがどのような想いを抱くのか、それは最強のキャッチコピーになる。
『万葉集』が出典元との記者会見があった。梅見の宴で風流を詠んだ歌の序文であると。その序文が、これだ。
[天平二年正月十三日、萃于帥老之宅、申宴會也。于時、初春令月、氣淑風和。]
一見してわかるように、これは漢文の読み下しだ。「天平二年の正月十三日に、帥老の宅に萃(あつ)まりて、宴会を申(の)ぶ。時に、初春の令月(れいげつ)にして、氣淑(よ)く風和(やはら)ぐ」――つまりは――「太宰府の長官だった大伴旅人の邸宅で宴会が開かれた。初春の正月ということで、澄み渡る、風の穏やかな日だった」といった意味。
▼ちなみに、本当のところは、「日本の古典に『も』由来する」ということで専門家の意見はまとまっているそうだ。https://www.asahi.com/articles/ASM4154Z4M41UTFK00Z.html
たしかに『万葉集』は日本で最初の歌集であり、庶民の歌も収められている。そしてこの段では、大陸の文化がなかったら成立しなかった梅見の宴を題材にしている。これを漢字で書き留めるという連環を大切にしたい。
つまり、日本の文化は大陸の文化と分かちがたく育まれてきたのだということを思い出させる。国粋的な立場・国際的な立場の人も、どちらにも配慮した、鉄壁のシステムで出来上がっている凄さがある。
これを思うと、「和を令しむ」とのダブルミーニングではないか、との考えを捨てることはできない。
というのは、組織に長くいると、思うことがあるから。平和はやはり「心がけ」や「心ばえ」だけでは訪れない。戦略的なシステムと態度があって、平和は保たれるのである。
しかし、そもそも本当の「ツンデレ」は戦略的ではない。「ツンデレ」はするものではなく、なってしまうものだ。
令和は、その由来が「春」にあるのに、まだ春を知ることもなく、夏盛りを迎える。自らの由来を知ることのないまま、行く年来る年を重ねていく。
つまり、ダブルミーニングであることにも気づかずにいるのが一番怖い。平和的ファシズムが進んでいくのと変わりない。
私たちは平成が終わる頃になってようやく「平成が何者だったのか」を振り返るようになってきた。じきに始まる令和という時代は、もう少し元号のことを、その背後の制度について、思いを巡らす必要がある。せっかく考える時間が与えられたのだ。
そう、私たちにはすることがある。そのツンデレを、もっと可愛がらなくてはならない。「……っ、そんなことない」と言いながら、軌道修正をしていく。それがツンデレというものだ。
『るろうに剣心』の斎藤一なら、こう言うに決まっている。「敵前逃亡は士道不覚悟!」と。
ここ3週間のことを振り返りたい。身の回りでいろんなことが起きた。
まず、母が壊れた。もうずっと慢性的な精神状態なので、いまさらではあるのだが……。
ここ1年、特に批評再生塾の課題もあって(仕事もしてたけど)、
ロクに相手をしてなかったのがいけなかった。3月に入ったら、もう露骨だった。最終課題に向けて、頭のモード切り替えが凄かった。昼間の制作会社のこと考えているか、論考か、つまりどっちも広告のことを別ベクトルで考えていた。
しかし、あの寸前までは楽しかったなぁ。きっとあの多幸感がいけなかった。「何か」を呼んでしまった。
そして、これがいちばんヤバいことなのだが――批評再生塾の最終課題を提出できなかった。敵前逃亡と呼ばれても仕方がない。けっこう恥ずかしい。
泣いた。仕事で味わう悔しさとも違う、深い悲しみだ。それは、失恋に似ている。もう取り返せないのだから。
環境を整えるのも実力のうちだと思っている。だから悪いのは私だ。
それでもやっぱり、思う。「どうしていつもこうなる?」と。こういうことは少なくとも20年以上、私の身に起きている。無限ループから抜け出せない感じがして、背筋が凍った。それは終わりの始まりだろうか、とか。
しかし、某同人誌の論考を書いていてよかった。
ひどい状況で申し訳なさすぎるのですが、メンバーに助けられた。
泣いた。
泥酔して人に迷惑かけたときに、感じるあの温もり。そんな人の温かさだ。子どもにはわからない、あれだ。
ループから抜け出せる気がする。
「批評」という言葉は、ウケが悪い。信じられないくらい、本当に一般的にネガティブなイメージがついてまわる。
そのイメージとは、
・人の揚げ足をとってうれしいなんて気持ち悪い。
・誰も喜ばない、人を悲しませることを言うなんてタチが悪い。
・自分で作り出せないくせに、批判するなんて、つまらない人間だね。
―と、およそこのような具合である。
そんな「一般的なイメージ」よりも、さらに厄介なのは、「批評」がほとんど望まれていない業界のことを「批評」する場合だ。
それはたとえば「広告」のこと。
内側の人の多く(影響力のある、有能な人)は「批評」自体が無意味だと思っている。翻って、批評をする側にも「もはや『批評』するだけの価値はない」という応答もある。このままでは話が平行線。実のところ、私にとって師と仰ぐ人たちの中にも、そう考えている人が多い。
どちらの道理も、たしかに一理ある。広告業に携わる人に多いのが、何も生まずに文句を言うとか、難解な言葉や原理を使うことへの拒否反応。その一方で、『広告批評』が終刊を迎えたことに象徴されるように、すでに思想とはかけ離れたところに「広告」があるのだという前提で話してしまう。
しかし私の目には、「批評」と「広告」は切り離せないものだと映る。
もしも「作品性が生まれづらい」のが理由であれば、それ自体を論じることが価値のあること。「広告」は社会に生きる人のことを考え抜いて、新たな価値観を作っていくものだからだ。少なからずの社会を反映しているといえる。その点でやはり、「批評」と「広告」は分かちがたい。
最終的には、いろんなことを思っている人たちに「面白い」と言ってもらえる「批評」が書けるようにならなくては、と思う。 誰に望まれなくても、書いてしまうことがあるとしたら、その理由は目立ちたがり屋だから、ではない。大げさに言えば、詰まるところ「後世のため」なのかもしれない。
おはようございます。こんにちは。
何より2019年もよろしくお願いします。
そんなときに今さら感はありますが、2018年のベストコンテンツ5を発表します。しかし、ここには勝手な「縛り」を設けています。すでに2018年12月21日に、ゲンロンの友の会総会において、さやわかさんが恒例の「ベスト100」を発表しています。そこに現れなかったものから選ぼう、という試みです。
けっこう無謀です。残りもの感は否めません。いやしかし、こういう事態は、いろんな意味で周回遅れになった者の宿命です。それではどうぞ。
1)青春五月党の復活
ついに。柳美里が2018年10月、福島・小高という地で青春五月党を復活させた。
舞台は「書店兼芝居小屋を作る」という構想が結実した「ラママ小高」。そして俳優は県立ふたば未来学園高校の演劇部の部員、顧問。彼ら/彼女らの世界として 2018年の『静物画』が 立ち現れたのである。
およそ20年越し?に観ることができたのは、もしかしたら震災があったからなのかもしれないと思うと、たしかに居心地が悪い。しかし、当時小学校の中学年だった彼ら/彼女らは、震災の記憶を生々しく感じている最後の世代になっている。 そして、声に出すには、ある程度時間が必要だったはずだ。このタイミングだからこそ上演できた『静物画』だ。
そして何より、下北沢や渋谷ではなく、小高という場所で発信していることの重要性。地方都市からも遠くはなれた町で、その地に生きる人々が声をあげること。時には、他から来た人とも交わること。選択肢が都会だけじゃない、ということが当たり前になったら素敵だと思うのは、観光客のうわごとだろうか。
そして小高に行く途中、飯舘村を通った。つくづく感じる。震災後という「戦後」はまだ終わっていない。
2)タッキー引退
解散しても、事務所が移っても、表舞台に立っていてくれればファンは観ることができる時代になった。それを表象したのが、SMAPというグループの変遷だ。新しいようでいて、これは意味的には「2010年代のモード」だ。しかし、タッキーの決断は(もちろん、不可抗力的なことが直接的な原因だったとしても)もっと新しい。「そう遠くない未来のモード」を予感させる。世の中の雰囲気は、景気と同じように、常に揺り戻しと共にある。
それをふまえ、つまり「見える化」を徹底的に行っている現在の次に起こることを予想すると、「見えないところこそ重要」というモードが来ることは、想像に難くない。「ポストトゥルースが行きつく先はSNS離れかもしれない」とか「GAFA(グーグル、アップル、フェイスブック、アマゾン)が盤石ではないかも」というささやきも聞こえる昨今、タッキーの引退について一連のセレモニーを「ただファンと事務所の内輪ウケ」などと言っている場合ではない。
3)チームラボ
2018年の作品には、「普通のひと」をあぶり出すえげつなさ、という一点において「芸術的」な意味がある。
具体的にはたとえば・・・・・・
・体のサイズ、筋力は標準以上
・アトラクションは誰かと一緒に楽しむ
・写真はたくさん撮るものだ
・「アート」は人をハッピーにする
ということに何事もなく抵抗感のない「普通のひと」かどうか? 要するに「リア充判定装置」なのだ。多様性なんてロンドンが燃えてるぜ!ぐらいの勢い。
4)「沖縄」
私たちは「沖縄」に依存しすぎている。しかし同時に、そのことを忘れているかのように振る舞う。
羽田空港の飛行コースが変わるからと言って、あの騒ぎようは一体何なのか。「沖縄」の人は笑うだろう。今さら何言ってるのかと。
基地の問題だけではない。いや、それに関係があるとも言えるが、平成の間に流行った歌の「沖縄」に関係する比率は相当なものだ。「沖縄」出身の芸能人には、とりわけ地域性が求められている。「沖縄」を消費するだけ消費した後に残るものは何だろう。「沖縄」が基地に依存しているのではない。日本全体が「沖縄」に依存しているのだ。
5)「発達障害」誤解キャンペーン
TVで取り上げないと、知られる機会が少ない。しかし、TVのインパクトが実態とかけ離れてしまうことがある。 啓蒙するのであれば、心の病気は脳という器官の不調だという観念と同じようなことが必要だ。心の病気については、もうそろそろ広まってきただろうか。発達障害も同じことだ。脳が変則的に動く。
障害者雇用を積極的にしている企業って限られているし、特性を活かした仕事が世の中に簡単あるのなら、そもそも苦労していない。若い人に夢を与えるだけでは、うまくいっているケースのPRでしかない。
その一方で「発達障害って個性って考えればいいんじゃないですかね」という無邪気なコメントに同調しても、訂正する人がいない。いや、それは確かに理想だ。だったらその人は、歩けない人にも「個性ですよね」と言うべきなのだ。
以上。何も統一感がないですよね。しかしながらここには、2018年の困難さが滲み出ているのではと。