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あいつと、また会うなんて。

今朝、都合のよい夢を見ていた。懐かしい人が出てきた。笑っていた。こちらも笑った。「また会おうね」と言って別れた。すべて夢の話だ。

夢占いをする気など毛頭ないけれど、ここ2〜3年の自分の行動に似ていると思った。

「わたしのような者が読んでも書いても、世界は変わらない」と手を振って別れたはずの、人文系の本棚。書店に行くと、その前に立つ生活に戻りつつある。そして、文章を書こうとしている。「わたしのような者」とはつまり、研究者でもオタクでもない、何物にもなれない生き物のこと。

奨学金を返すためだけに就職をしたかっただけなのに、内定ゼロで卒業式とか。文章を書く仕事に就いたと思ったら、定型文が書けない愚か者とか。派遣切りに遭わないで済むと思ってたら編集長交代で逆転で派遣切りに遭うとか。体のサイズとか。まぁ何にせよ、基本的に「じゃない方」なのだ。世界の真ん中で何かを発表するのなんて向いているわけがない。

だがしかし、実際には、背を向けたからと言って特に何も生まなかったし、別に特段稼げるようになれたわけでもなかった。魂を売り渡すぐらいで富豪になれるのであれば、みんなとっくにそうしている。だったら、書き続ければよかったのかもしれない。すべてがもう、あとの祭りだけど。

収穫があるとすれば、物事を見る角度が拡がったということぐらいだ。「人には本を読む気力すらないほど疲れることがある」とか「アカデミックな人はウソをついているような感じがする」とか。そういう肌感覚が備わったことは、とてもよかった。まぁ、それぐらいである。どっちの側にも立てるということは、片方の側だけでもないということでも。だからたぶん、ベン図の重なりの中。

しかし今から思えば、そうした背中の気配を、精一杯追い払っていた。ある場所では「キャッチーすぎる」と言われ、また別の場所では「批評っぽい」と言われた。もちろん実力不足だってある。「突き抜けた遊び心」も「あられもない鋭さ」があれば、結果は違ったかもしれない。そう、中途半端なのだ。

この「どっちつかず」の優柔不断なところを変えたかった。けれども、最近思うのだ。それは要らないことだったらしい。たぶん、こういうことが「わたしにしか書けないもの」につながっている。

もちろん、夢のようには都合よくいかない。でも、もうわたしには「やれたかもしれない委員会」を開いている余裕はない。

・・・・・・と言いつつ、焦る日曜日の夜。