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東京タワー

平成はXに満ちている【極私的・批評再生塾プレイバック】

【極私的・批評再生塾プレイバック】
かつてゲンロンにて開催されていたスクール「批評再生塾」第4期に在籍していた(2018~2019)筆者が、そこで発表した文章に、改題や補遺を付けて記録に残しておく試みです。スクールでは、課題に応答する批評を毎回書き上げて選出されたら発表、そして講評されるというタームを繰り返していました。もうサイトは閉鎖されてしまったけれど、自分の中ではなかったことにはできない時間です。すべて掲載するかは未定。なお、粗削りな文章であり、「4000字から8000字」が基本なので、「こうしておけばよかった」「今考えるとこういうことではないか」といった補遺(言い訳)は文章の前に記すことにします。こうしたところで、何の免罪符にもならない。ここでただ焼き直しを載せるのも、改稿するのも、違うような気がしているので、しばらくは、この形をとります。

《2024.8.17 補遺》今年の夏は、国立新美術館で「CLAMP展」が開催されている。このとき出された課題は、さやわか氏による「平成年間(1989~2020)のポップカルチャーで、この時代の、あるいは人々や社会の、あり方がもっともよく描かれている作品や事象を一つ選び、論じてください」というものだった。色々と考えた結果、わたしはCLAMPの『X』を選んだ。今でも、この選択は間違っていないと思う。ただし、講評の際に『名探偵コナンと平成』をさやわか氏が上梓することを打ち明けられ、(あぁ……やられた……)と思ったのは事実だが。

改稿するのであれば、何よりも、「X」というワードにもっと焦点を当てるべきだったので、そこは直したい。また「決断主義にすべき」と読めてしまうので、そこは言い方を変えるべき……なのだが、実際に書きながら迷っていた痕跡を消せなかった悪い例。(実際に、講評でもそのような指摘をされた)

論点を収斂させるのであれば、アーレントなど「中動態」を補助線として用いれば、整理しやすかったのかもしれない。(が、風呂敷を広げて失敗した可能性も大きい)

また、引き合いにだす資料として一見すると飛び道具のような出典を出している。近代から現代の日本を取り上げるため、幕末や第二次世界大戦の戦後に通底している点を論じたかったが、なぜこれを取り上げるのかを丁寧に拾うべきだったな…ジェンダー観についても同様…と反省点しきり。

それでは以下、本文になります。(改行など規則はWEB用です)


平成はXに満ちている(旧:東京は、世界の中心だった。)


1999年の約束の日。「それ」は来なかった。

ここに、平成年間の〈依り代〉とも言うべき、未完のマンガ作品がある。CLAMPが発表した『X(エックス)』という物語に目を向けてほしい。そこに映し出されるのは、平成という時代だ。

2018年の夏。「平成最後の夏」というワードは、久しぶりに世代を超えた符牒になった。そう、2019年4月末日を最後に「平成」という元号が新しくなる。しかし実際、元号と私たちとの距離は遠い。カレンダーや変換機能を参照せず、あの東日本大震災が「平成何年」に起きたのか、あなたはすぐに言えるだろうか?

改元と同時期に予定されている消費税の引き上げのほうが、よほど私たちの生活に影響の大きいはずだが、それよりも歴史的瞬間に立ち会うほうが一大事。明らかに浮き足立っている。

その瞬間を迎える前に、やっておくべきこと。私たちの記憶が薄れないうちに記しておきたいことがある。当事者性を求めるのではない。今私たちは、あまりにも多くの情報を目にして、気が狂わないように忘れていく、そんな時代を生きている。だから埋もれてしまう前に、『X』という完成されない物語に仮託された「平成」を見て、次の時代に備えたい。

◇◇◇

『X』は、1989年つまり平成元年に商業誌デビューをしたCLAMPによる作品だ。1992年、月刊『ASKA』にて連載スタート。現在は連載休止中だが、TVアニメ・劇場版・ゲームなどメディアミックスが行われて一世を風靡した。あるいは、このように言えば思い出していただけるだろうか。X JAPANが劇場版に『Forever Love』を書き下ろした。その曲は、X JAPAN解散後、HIDEの告別式でも演奏された。

原作者のCLAMPとは、いがらし寒月・大川七瀬・猫井椿・もこなの女性4名による創作集団。マンガを中心に、キャラクター原案制作やアニメ脚本なども手がけている。関西での同人誌活動を経て上京。1989年、新書館の『サウス』第3号にて『聖伝-RG VEDA-』の読み切りを掲載し、商業誌デビューを飾る。デビュー以来、少女誌・少年誌・青年誌……と媒体を横断しながら活躍。魔法ファンタジーやオカルト的、スピリチュアル的な世界、並行世界、RPG的な要素を軸にした作品が多い。完成度の高い画と独自の世界観を築き上げ、出版とゲーム、音楽というメディアミックスによる商業的成功の一角を担ってきた。海外からの人気も高く、また世代を越えたファンを確実に獲得。制作の現場に身を置きながら自らのブランドを守り続ける、数少ない存在と言える。

とはいえ、彼女たちの射程圏内はニッチな市場ばかりではない。そこが強みでもある。児童向けの時間帯に全国的にTVアニメ化された『魔法騎士(マジックナイト)レイアース』『カードキャプターさくら』というタイトルは、CLAMPの名前を知らずとも耳にした人もいるだろう。


平成という時代をなぞるために、まずは時系列的なことを言及しておく。『X』は2002年の第18巻、単行本化していない2006年/2009年に発表された「18.5巻」を最後に休載中である。メディアミックスされた劇場版やTVアニメ版、ゲームのエンディングには、もちろんそれぞれの結末が存在する。しかしながら、そもそも原作とはストーリーが異なっており、やはり未完と言ったほうが正しい。また、1989年に発表した『東京BABYLON』や『CLAMP学園探偵団』などと同じ人物が登場する地続きの世界である。だから『X』が平成とともに生まれた、と言っても差し支えないはずだ。


そして、その内容は平たく言うと「典型的な世紀末思想ハルマゲドンを日本でやってみた」である。
世紀末の地球の命運を賭け[天の龍(七つの封印)]と[地の龍(七人の御使い)]が東京を舞台に互いの超常能力で戦う。この超常能力イメージには、陰陽師や真言密教、三種の神器など日本的なモチーフが多く使われており、コンピュータやゲノム的な最先端サイエンスの要素も大きな度合いを占めているのも特徴だ。


なぜ東京で戦うのかと言えば、東京が地球を守る結界の中心だからだ。国会議事堂や東京タワー、銀座の時計台、レインボーブリッジなど、東京を代表する建造物のほぼ全てが東京=世界を守る大切な結界なのだ(……もちろんフィクションである)。

それらを守るのが[天の龍]として生きる7名。いっぽうの[地の龍]7名は、そうした結界を破壊するのが使命だ。[天の龍]は自らも結界を作り、攻撃から街と人々を守る。
言い伝えによれば、[天の龍]が生き残れば人々は生き延びて現状が「維持」され、[地の龍]が結界をすべて破壊すると、「変革」が訪れるという。

主人公は、[天の龍]の中心となるべく生まれた「神威(かむい)」という名の少年。幼い頃から常に能力を鍛えながら隠れて生きてきた。彼の心の拠り所は、幼馴染みの封真(ふうま)・小鳥(ことり)の兄妹であった。潜伏先の沖縄から、久しぶりに東京へ戻り彼らと再会した喜びも束の間、運命は回りはじめる。「封真と小鳥を守りたい」と神威が強く願うと同時に、傍らにいた封真の性格が豹変。小鳥を惨殺してしまう。愛する幼馴染みが敵方[地の龍]の「神威」として覚醒して「神威」となった瞬間だった。元・封真の「神威」は、覚醒したと同時に誰よりも強い力を手に入れ、ジョーカー的存在として[天の龍]に立ちはだかる。そこから始まるのは戦いに次ぐ戦いだ。


最新巻では、[天の龍]は敗走を続け、東京はほぼ壊滅状態である。そして誰も彼もが、大切な人を守ることと、自分の願いを叶えることに小さな矛盾を秘めている。さらには、対立するはずの[天の龍][地の龍]は、その心次第で立場が簡単に入れ替われることも明らかになった。物語は明らかに終盤に差し掛かっており、あとは伏線を回収すれば問題なさそうなのだが(単行本の装画が主要人物をタロットカードの大アルカナに見立てたイメージ画になっており、残りはおそらく4巻であると推測される)、再開の見込みは立っていない。

なぜ、このストーリーは完結されていないのだろうか。体調面なら、他の作品と同様に考慮して描き上げることもできるはずだ。喜ぶファンは大勢いる。創作意欲といえば、何より作者の「完結させたい」という発言が度々話題に上がっている。

発表されている限りでは、社会情勢や世相を鑑みた結果である。時代が進むにつれて実際の事件や災害とオーバーラップすることがあり、たびたび休載。結果的に連載は長期化の憂き目に遭った。読み返してみれば、再開発で消えた建物で戦っているとか、ポケベルで呼び出している姿などで、時間の経過を見せつけられる。そして、いくらフィクションとはいえ「東京が世界の中心」という言葉に薄っぺらさを感じてしまう。描かれた当時は、フィクションとはいえ納得させる力が東京にあった。

ここで、作品と連想しがちな事件・事故を挙げておこう。思いつく限りでは、矢ガモ騒動(1993年)、阪神大震災(1994年)、オウム真理教によるサリン事件(1995年)、神戸児童連続殺傷事件(1997年)、日比谷線脱線事故(2000年)、アメリカ同時多発テロ(2001年)、イラク戦争(2003年)、イラク日本人人質事件(2004年)、秋葉原通り魔事件(2008年)といったところか。そして決定打となったのは、やはり東日本大震災(2011年)だろう。特に2000年以降は、現実がストーリーを凌駕している。作者自身が「そういう部分も含めて、いろんな意味で、最も時代に振り回された作品かなと思っています」と語るのも本音だろうとは思う。たしかに、社会情勢を反映したからこそ、作品は生まれ、だからこそ宙づりにされてしまった。

だがしかし、本質的なところは別にある。それは平成が「決められない」「変えられない」時代ゆえに、起こるのである。

この物語は、登場人物たちに「自らの本当の願い」を決断することを求める。そして、何かを変えていかなければ、物語は先に進まない。この、いろんなことが「決められない」「変えられない」状態は、平成という時代、2018年現在の日本そのものである。それらは登場人物たちの行動・思想に現れている。

◇◇◇

主人公である神威は、本当の願いを何にするか決められない。物語の進行上は、これは厄介だ。なにしろ、それがなければ、この作品で必殺技的な「結界」が作れない。結界を作れない以上、常に誰かに結界を作ってもらわないと、一般市民を巻き添えにして戦ってしまう。
自分探しというよりは、欺瞞に囲まれ、思考が先回りして本当に望むものを感じ取れない状態だ。フロイトの言葉を借りれば、意識ばかりが先行して、無意識にある欲望を抑圧している。いっぽう、宿命のライバルである封真は、すべてお見通しだ。絶対的な存在、いわば全能の状態。封真以外は、自らの欲望に突き動かされるばかりに、無意識に事態を悪化させていく。それは敵味方の区別に意味がない。

だからこそ、絶対的な正義が揺らいでいく。そもそもが[天の龍]と[地の龍]の二項対立の構造が不安定だ。人の手で地球は汚れている。そうであれば地球を再生させることも美しいと言える。しかしそれは、愛する人々の死と引き換えになる。そして、個人レベルでも齟齬が生じる。自分は好きな人を守りたいと願い、当人は生きていたくないと考えている、その正義はどちらに分があるのかわからない。
主人公である神威が、自分の真にやりたいことは果たして何であろうか、何を守りたいのか。そういった大事なことを「決められない」まま、他の人に依存して戦いに突入している。

さらに、先述したとおり、敵と味方がふとした拍子に入れ替わる。Aから見ればYは正しい。しかし、Bから見ればYが正しいとは限らない。やがては視界にすら入らなくなる。信頼できない話者ばかりが生きているとも言える。ポストトルゥースという言葉が成立する前に、すでにそんな世界が立ち現れていたのだ。
加えて私は先ほど、『X』は平成の〈依り代〉だと述べた。つまりは、この主人公の状況は、平成の根幹を成す日本という国の状況の映し鏡である。

ここで私は、加藤典洋『もうすぐやってくる尊皇攘夷思想のために』を参照したい。〈明治150年〉という2017年に、丸山眞男が晩年に行った福沢諭吉の研究を紐解きながら、1850年代と1930年代、2010年代の直結した関係性を示している。

[私たちは、幕末期(1850年代)の尊皇攘夷思想を「抑圧」するという明治期の「過ち」に目をつむり続けて来たので、80年後(1930年代)、その劣化コピー版としての皇国思想の席巻という苦い目にあったのだった。それと同じく、戦後再び戦前の皇国思想を「抑圧」するという「過ち」を繰り返したために、やはり80年後(2010年代)、また新たな尊皇攘夷思想がさらに劣化の度合いを進めたかたちでやってくるだろうことを予期しなければならないのである。]

そういえば「尊皇攘夷」という考え方で動いていた集団はいつの間にか、「尊皇開国」を幕府に迫り、明治維新が成される。その矛盾はどうなっていたのだろう。私は迂闊にも気づいていなかった。
どうやら、何よりもまず「尊皇」ありきだったというのだ。その正当性を追求すること。それは国を倒す可能性もあり、建国の可能性もある正統性(オードクシー〈O正統〉と呼ばれる)。この時には「日本が何もしていないのに攻められている。尊皇のためには、どうすればよいか」を突き詰めた結果、尊皇攘夷が始まる。

やがて、薩英は実際に外国軍と相対する。圧倒的な軍事力の差を前に、とても尊皇が守れないということがわかる。だから、目的を達成するための論理「尊皇開国」へと向かった。これが、その国が成立した後に、国の内側を満たす正統性、その根拠として持ち出させる合法性(レジティマシ―〈L正統〉と呼ばれる)。つまり政治的な正当性、関係性の中の真実である。

予め〈O正統〉がなければ〈L正統〉は生まれ得ない。「攘夷」の急先鋒が「開国」へと舵を切るには、やはり矛盾があった。しかし、その矛盾を飲み込んだ上で、明治は生まれていた。倒幕を掲げた運動はしかし、江戸城の無血開城で落ち着き、徳川家は華族として生き長らえた。志士のなかには、扶持もままならない者がいたのにもかかわらず、である。

その後果たして、明治はどうなったか。矛盾を抱えたまま出発した政府の発令とともに奥羽列藩同盟により起こったのが戊辰戦争。そして十余年後、西郷隆盛を大将に据えた西南戦争が起きる。これは、攘夷論を飲み込んだ者の想いを「なかったこと」にして、放置したツケにほかならない。政府のみならず世論も、時代遅れの不逞分子として彼らを糾弾した。そのことを、福沢諭吉は強く憂い後世に残している。

そして、丸山・加藤は、幕末の無血開城から約80年後の1945年、日本は再び同じ轍を踏んだことを指摘する。

[国体護持のため]に[時制を鑑み]て、徳川幕府が行った「琉球処分」を取り消すことで……敵方に沖縄を差し出すことで無条件降伏をした。

さて、『X』において、〈O正統〉は神威の決意だ。[愛する人たちが幸せに暮らしていける場所を守りたい]と告げる。その瞬間、封真中での「神威」が覚醒して〈L正統〉がひらかれる。それならば、やるべき手段をとるべきだ。しかし、神威は逡巡して、なかなか行動が定まらない。物語は混迷を深めていく。

◇◇◇

そして、もうひとつが「変えられない」という呪詛だ。

『X』には、物語の未来を「夢見」という未来の予言者が複数名登場する。しかし、ほとんどの者が、未来はひとつ、運命に逆らえないと言う。その多くは暗い夢だ。彼らに見えている未来はいつも正しくて、彼ら自身をも痛めつける。どうか変わってほしいと人が請い願っても、無慈悲なほどに変わらない。

ところで加藤は、正統性を決められなかった日本の態度について、2020年を見据えて、同著でこのように述べている。

[歴史の本を読むと、日本の政治的統治は何をもって正当化されうるか、ということが古代以来の日本の歴史を貫く一大問題だったことがわかる。なぜ、戦国時代を通じて、天皇は廃されなかったのか。自分で新たなルールを作り、「約束」(レジティマシ―=政治的正当性)の根源を刷新(更新)するリスクを取ることを、誰もが怖がったからだ。その結果、日本では、その政治的正当性を誰に帰すかという「約束」ごとは、七世紀に律令制の導入のときに、これを「天皇」に帰すと決めて以来、ずうっとそれを転用することで済ましてきた。その事情は、藤原の摂関政治、源頼朝にはじまる武家政権、幕末期、すべて変わらない。]

この状況は、まさに『X』の泥沼感と底が通じている。それはそのはず。なぜなら、この物語には時代が乗り移っているのだから。この辺りが、いわゆるセカイ系に多く見られる仕組みとは異なる。多くのセカイ系は、読者の内的世界とはつながるかもしれないが、現実と対になるような関係性は結べない。
たしかに、『X』で言うところの空を飛び、炎や水を自在に操ったり、式神を召喚して戦ったり、なんてことは、現実からはみだした行為だ。しかし、そこには間違いなくリアリティがある。登場人物たちは、こちら側の時代を背負っているのである。

そして私たちはいま、変化を求める声をどれだけ上げても、根本から「変わらない」「変えられない」時代に生きている。果たしてどの時点から変わりたいのか、その声を、どこに上げれば良いのか定まっていない。

そのひとつとして、ジェンダーの問題を上げてみたい。性差で役割を振り分けるという姿勢は、無意識のうちに自然な行為として受け止められている。嫌がらせをするとか、明らかな侮蔑に関しては、ここでは検討に入れない。何故ならば、それは『X』には出てこないから。私がここで問題にしたいのは、そういう類のものではない。あえていうならば好意に似た、それぞれにふさわしいとされる振る舞い、生まれついた運命のようなものだ。

私たちは役割をすぐに引き受けてしまうし、与えてしまう。[天の龍]と[地の龍]どちらにも女性の能力者がいる。ひとつには、彼女たちは、総じてみな聡明で美しい。そして、戦いの相手や仲間に恋心を抱く。そして一様に、恋心が能力の邪魔をする。いっぽうの男性陣は、大切なものを守りたいという想いで力を発揮するのにもかかわらず。また、生け贄的な役割を果たすのは、すべて女性である。そして何故か、彼女たちは運命をすぐに受け入れてしまう。そして男たちに後を託す。あなたなら大丈夫だからと。

実は、この振る舞いは、男の側も女の側も、押し付けあっているだけで無責任である。ここにも、日本の「変わらない」という現状が、しっかりと刻印されている。超常能力など持たない私たちも、いつの間にか性差での役割を押し付けたり、引き受けたりしているはずだ。

1985年、まだ昭和の頃、日本でも男女雇用機会均等法が施行された。1989年になって、技術・家庭科の男女共修化が勧められた。2018年現在の最新版である2017年の統計では、OECDが発表したジェンダーギャップ指数は114位。5千円札に樋口一葉が選ばれても、女性作家はいつまでも「女性作家」だ。

物語の中で、小鳥が遺したメッセージは、唯一の希望である。彼女は夢見としての才を本格的に覚醒する前に、「神威」に覚醒した実の兄に葬られた。そうして死ぬ瞬間に見た夢を、愛する2人の男に伝言する。兄・封真と、幼い頃将来を誓った神威に宛てて。

[まだ…みらいは…きまっていない]

少なくとも神威にとっては、希望だ。
私たちの日本にとっても、「まだ決まっていない」ということは希望になる。残念ながら、作中には答えが見つかっていない。そして、平成という時代の間には、まだはっきりと、これ以上のことは結実することはないだろう。

◇◇◇

1999年、約束の日。「それ」は、もう来ない。

『X』という作品が完結しないのは、ただただ時代が悪いのでもない。もちろん、作者の大風呂敷のせいではない。平成という時代が、何も決められず、変わらない時代だからこそ、物語が進むことなく終わっていくのである。

私たちは、すぐに忘れて、何でも古さのせいにしてしまう。今だって、少し古いものはすぐに「昭和っぽい」と言う。黄色い栄養ドリンクが働くオトナに向けて「24時間戦えますか?」と鼓舞したのは平成になってからなのだ。

平成最後の夏に、平成という時代を振り返って記したからには、もう忘れてはならない。この『X』という物語のことも。そして今度こそ、私たちは「決められない」「変われない」ということを止めなくてはならない。まだ、未来は決まっていない、のだから。


【参考文献】


文字数:7804

広告批評が気になる理由

「批評」という言葉は、ウケが悪い。信じられないくらい、本当に一般的にネガティブなイメージがついてまわる。

そのイメージとは、
・人の揚げ足をとってうれしいなんて気持ち悪い。
・誰も喜ばない、人を悲しませることを言うなんてタチが悪い。
・自分で作り出せないくせに、批判するなんて、つまらない人間だね。
―と、およそこのような具合である。

そんな「一般的なイメージ」よりも、さらに厄介なのは、「批評」がほとんど望まれていない業界のことを「批評」する場合だ。

それはたとえば「広告」のこと。

内側の人の多く(影響力のある、有能な人)は「批評」自体が無意味だと思っている。翻って、批評をする側にも「もはや『批評』するだけの価値はない」という応答もある。このままでは話が平行線。実のところ、私にとって師と仰ぐ人たちの中にも、そう考えている人が多い。

どちらの道理も、たしかに一理ある。広告業に携わる人に多いのが、何も生まずに文句を言うとか、難解な言葉や原理を使うことへの拒否反応。その一方で、『広告批評』が終刊を迎えたことに象徴されるように、すでに思想とはかけ離れたところに「広告」があるのだという前提で話してしまう。

しかし私の目には、「批評」と「広告」は切り離せないものだと映る。

もしも「作品性が生まれづらい」のが理由であれば、それ自体を論じることが価値のあること。「広告」は社会に生きる人のことを考え抜いて、新たな価値観を作っていくものだからだ。少なからずの社会を反映しているといえる。その点でやはり、「批評」と「広告」は分かちがたい。

最終的には、いろんなことを思っている人たちに「面白い」と言ってもらえる「批評」が書けるようにならなくては、と思う。 誰に望まれなくても、書いてしまうことがあるとしたら、その理由は目立ちたがり屋だから、ではない。大げさに言えば、詰まるところ「後世のため」なのかもしれない。