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当事者でも、専門家でもなかったとしても

ここ最近、何かを語り出すときには立場を明かしてからでないと信用されない。特に「当事者かどうか」「専門家かどうか」の2点が重要らしいのだ。

前にもどこかで(Twitterだったかも)「カミングアウトしなくてもいい世界がいい」と書いたり話したりしたが、基本的にそれは変わらない。

もちろんカミングアウトした人のことは尊重したい。でも、それが行きすぎた結果の「アウティング」につながるとは言えないだろうか?


少し前に、「普通じゃない」半生を振り返ったライターのnote記事が話題になった。

私が”普通”と違った50のこと〜貧困とは、選択肢が持てないということ〜

おそらく日本に住む全員に聞き取り調査をしたら、子細はそれぞれの事情があるとしても【選択肢が目の前にない】という点においては「うんうん、だよね!」という反応も結構あるはずだ。ただ、「noteユーザー」の中では、わりと大きな衝撃だったと思われる。少なくとも自身の周りでは「こんな人もいるのか……」といった文脈で話題になることが多かった。

もしもこの話が「聞いたところによると」「こういう人もいる」という体裁で書いたものなら、そこまで話題にならなかっただろう。ライター自身の物語だったところも大きい。

自身のことを語るには、リスクがないわけではない。「あの人って、そうだったんだ……」と思われながら今後生きていくには、かなり大きな覚悟が必要だ。本人の決断の大きさははかりしれない。だからこそ、そのように書き続ける彼女の決意や意志に対して、最大限の敬意をはらいたい。そのうえでも、疑問は残る。果たして、幸せなことだろうか?

くれぐれも誤解しないでいただきたいのだが、「書く人が幸せなのかどうか」の問題ではない。決して個人のハピネスのことではない。「みんなが書き手になれる」時代において、私小説的な振る舞いをしてしまうこと。そうして立ち現れる文章が、時空を越えて読まれ続けるのか、である。


あれは10年以上……15年ほど前だろうか。とある俳優カップルのゴシップがTVから流れてきた。結婚からしばらくして、パートナー以外とのデートが報じられたのだ。正直どうでもいいと思いながらも、流れてきた音声に鳥肌が立った。ある芸能レポーターが「でもXXさんは、複雑な家庭で育っていらっしゃるから、いろいろあっても温かい家庭を守りたいと思っていらっしゃるのではないでしょうか」という謎のコメントで話を結んだのだ。あの衝撃は忘られない。

わたしは耳を疑った。その俳優XXさんのことは好きだった。初耳だった。とはいえ、XXさんの文章では時折、どこかで感じ取れることでもあったから、そのこと自体に驚いたわけではない。むしろ今思えば、同年代で、同じ空気を共有できそうな文章も含めて気になっていたのだ。そもそも、公にされていたことだったのかもしれない。しかし、それを本人のいない場所で、公共の電波に乗せて軽々と暴露する仕事が成り立っていることに驚いた。

その発言を聞いて、わたしはむしろ「複雑な家庭で育っているほど、見切りをつけるのが早いのでは?」と思った。そしてその通りになり、やがてカップルは離婚した。

俳優XXさんの演技に、個人史的なバックボーンが関係なかったとは思わない。それが重要なファクターではあったとしても、そのことに囚われた役ばかりではなかった。それはとても幸せなことだと思う。


そして、時は流れて2020年。上記のようなことをテレビ番組が行えば、「アウティング」と言われてSNSが炎上するかもしれない。しかし伝えるメディアが変わっても、同じようなことはなくならない。その「アウティング」を責める際に、人格否定をすることがある。それだってフェアではない。しかし、そのフェアネスは認められづらい。

プロレスだから楽しめばいいという問題でもなくなってしまった。飼い主とじゃれあって甘噛みしている愛玩動物が時折「シャーッ」と野生を取り戻してしまうような事件が頻発している。そこでは時々、悲劇が起きる。

誰でも発信したものが広まっていくことに可能性を感じていたゼロ年代〜2010年代を経てなお、わたしたちの社会は変わっていない。むしろ、どのような人物が書いているのか? その「顔」が見えないと信用しなくなっている。

プロレスはキャラクターが対戦するからおもしろい。本当に因縁のある相手とデスマッチをやったら、ただの犯罪である。しかし、過度に実存を開陳していけばいくほどキャラクター性は薄まっていく。

だからこそ、そうじゃないことにも目を向けたい。

年収○○万円の家で育ったとか、△△障害だとか、××マイノリティだとか、●●が専門ですとか、◉◉専門家ではありませんとか。おそらくは、カムアウトしなくてもいい、そうじゃない距離感で書いていくことも必要だ。今だけ、目の前の熱狂ではなく、後から、誰かが見つけるために。

なぜなら、人にはあらゆる面があるからだ。やがて意見は変わることもあるだろうし、現在の当事者は、必ずかつての当事者になってしまう。同時期に、複数の課題の当事者であることも可能だ。しかし人が書ける文章には数が限られている。だから、ちょっとだけ離れた距離から見つめることだって大事なのだ。


(もちろん、そうじゃないこともやりますよ。明治の文豪じゃないし、石川啄木より長生きしたいし)


そんなわけで、当事者でも専門家でもないけどコンテンツを語る同人誌を出そうと目論んでいる。最初の0号はわたしだけなので、きっと自身との関係性からは離れられないだろうけれど……。

続報はお待ちください。(更新頻度が落ちている言い訳に換えて)

Photo by Mohamed Nohassi on Unsplash

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