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CLAMP展が見せたもの・見えてしまったこと

暑い夏の終わりとともに、CLAMP展は幕を閉じた。(2024.7.13 – 9.23@国立新美術館 企画展示室2E)

https://www.clamp-ex.jp

よりによって展示が終わってから文章を上げるとは何事か? そう思う人もいるだろう。特に意味はなかったのだが、「CLAMP展とは何だったのか……」と振り返るなら、節目の時にアップしておこうと思ったまでだ。

国立新美術館に現れたのは、ファンサービスの手厚さ、見目麗しくてスマートな居心地の良い空間。CLAMPから見せたいものとファンの見たいものがピタリとはまっていた。

しかし、それ以上のものはなかった。

CLAMPを知らない人にも「行ってみたらいいよ!」とすすめたくなる要素が見受けられなかった。Y2Kから90年代へリバイバルの波が来ている2024年、あのCLAMPが、国立の美術館でやるからには、もっとできることはあったはずだ。

ちなみに、昨年春にところざわサクラタウンで行われた、稲葉浩志「シアン」の展示と同じような趣向が見られた。どちらが先に企画されたものかはわからないが、商業作品の展示の方法としては当たり前なのか、しかしいくら何でもパターン化され過ぎているように思う。

企画展の最後には、グッズコーナーに通される。毎日「入場までの待ち時間」と「グッズ売り切れ」の情報を流し続けていた公式運営の様子は、良くも悪くも話題になっていた。一方で、あまり話題になっていなかったようだが、図録については苦情を入れても良いのではなかろうか。美術展の図録なのに、区画ごとに収録されておらず、作品ごとに整理されて編集されている。これでは、あとから振り返ることが困難になる。(後述する年表は、図録に収録されていない)

もちろん、技術的に(さすが美術館……!)と思うところは期待を裏切らなかった。執拗なまでのメディウムへのこだわりは目を見張るものがある。原画1枚1枚の使用画材に、第三者がこれほど踏み込んだマンガの原画展も、なかなか珍しい。

「CLAMP」の頭文字をモチーフにしたメイン展示は「COLOR」「LOVE」「ADVENTURE」「MAGIC」「PHRASE」の5区画。加えて「IMAGINATION」「DREAM」で締めくくられる。

カラー原稿(レプリカと原画を期間中に入れ替え展示していた)は最初の区画「COLOR」にほぼ集中しており、画材や描き方の変遷を軸とした展示になっている。撮影禁止ゾーンだが、とにかく物量が多いのと、訪れた瞬間だけの眼福だと思うと、集中力が増す。ファンへの「つかみ」としては十分すぎる。

「LOVE」「ADVENTURE」に関しては、作中の印象的なシーンの原画がところ狭しと飾られている。特に集中連載時期の手描き原稿に見える連載中の勢い(というか過酷だったんだだろうな……と想像してしまう)ところ、(訂正される前のセリフが見たい!)と思ってしまうなど「原画展あるある」を安心して楽しめる。作品の流れをブツ切りにしてキーワードでカテゴライズさせられるとともに個々のシーンが並んでいるのを見ると、「CLAMPらしさ」を再確認させるとともに、元の作品を知らない人には「なぞかけ」のような光景が広がっている。(しかも展示の中で回収されることはない)

「MAGIC」は映像インスタレーション。最近よく見かける、平面を動かす動画の。アレです。

「PHRASE」は、来場者参加型。銀色のステッカーを1人1枚ひくと、色々な登場人物のセリフが書いてある。その銀色のステッカーは「よろしければ」壁に貼るようにと指示がある。ふと見やると、区画の壁一面には作中のセリフが埋め込められるように貼り付けられていて、それは天井につながる。ことばの渦にいるような感覚に陥る。

この企画展で最も圧巻だったのは、「IMAGINATION」エリアの年表。鎮座した現物に見下ろされている。物理で攻めてきている。

ただし、この年表の欠点は、CLAMP以外の動きが見えないこと。メディアミックスや絵柄やテーマの変更が唐突に始まったように見えてしまう。

また、事情は拝察するにしても、つい最近「東京BABYLON」のアニメ化が企画されたことは少しでも触れられてほしいところ。(見落としの可能性もありますが……)さまざまな作品で〈未完〉と記載しているのだから、歴史を語るのであれば、それぐらい潔いのが良いのではなかろうか。

そもそも、このエリアではメディアミックスの話も多く出てくるのだが、アニメーションや声の話があまり出てこない。CLAMP展に寄せた4名の対談が展示されているが、音源で聴けるような仕組みがあっても良かった。仮に、今は声出ししたくないのでも、むしろ年表のところで、ラジオ音源をチラッと聴けるとか、やり方はあったはずだ。

そんな少しばかりの疑問を抱えながら最終区画へ。描きおろしカラー原画では、阿修羅とさくらが微笑んでいる。2人とも2024年版にアップデートされているあたり、さすがとしか言いようがない。だからCLAMPはすごい、という事実は確かなのだが、CLAMP展はどうだったのかというと、やはり腕を組まざるをえない。

冒頭でも「シアン」の展示を引き合いに出したが、多くの人の心をつかんだ商業クリエイティブの取り上げ方は難しいのだろう。作家性にスポットライトを当てることはできる。それ以外のフレームを使うことができないのは、単に制度の問題なのか。インバウンド需要を見込んで国立新美術館での開催だったのか、それ以上に意図があったのかは分からない。いずれにしても、国を代表するひとつの現代アートについての機関で展示するのであれば、やはりもう少し踏み込んだこと、ファンダムではない要素をさらに詰め込む必要があったものと思う。

そして、鬼は滅びたのか?~『鬼滅の刃』最終話について

Photo by Ming Lv on Unsplash

先週の月曜日、何があったか覚えているでしょうか? もはやいろんなことがあって忘れてしまいそうですね。「社会現象」を巻き起こしたマンガ、あの『鬼滅の刃』がついに完結を迎えたのでした。

このマンガは、大正時代が舞台になっているだけではなく、世の中からみた歴史が映し出されているとわたしは考えています。というわけで、その報を聞いて、まず思ったのは「あぁ、やっぱり大正時代だから短いのか……」と。

結末の在り方については、賛否両論さまざまな意見が飛び交っています。作品のクオリティに言及したもの、作者への感謝、他の作品と比較したメタ的内容まで多様なものです。そうしたことは、ここでは扱いません。たしかに、ファンの目線でマンガを読む行為は尊い。けれども、ここではあえて、別の可能性を探りたい。

※ちなみに※この記事には作品の考察をするための「ネタバレ」が含まれています。もしもあなたがネタバレ厳禁と思っているなら、作品を味わってからこの続きを読んでください。もちろん、気にしないなら、このまま読んでいただけるとうれしいのですが。


仮説[鬼滅の刃=近代の鏡物]

何を今さら言っているのかと、訝しがる人もいるかもしれません。『鬼滅の刃』の舞台が大正時代であるのは周知の事実。しかし、これはただの設定ではありません。『鬼滅の刃』という作品は、いまの世の中にある歴史観が映し出しているのです。

平安時代後半から室町時代にかけて、「日本」の文学史では「鏡物」と呼ばれるジャンルが多く見られました。これらはひとつ前の時代を描いた歴史物です。受験生の皆さんにはお馴染みの、ダイコンミズマシの四鏡〜『大鏡』『今鏡』『水鏡』『増鏡』が有名ですね。

主人公を中心に歴史を語らせるという手法は、現代では映像作品との親和性が高くなっています。つまり、大河ドラマや朝の連続テレビ小説です。すでに色んな場所で[『鬼滅の刃』=朝ドラ]説は、ずいぶん取り上げられています。

もちろん朝ドラでも構わないのですが、その際は「朝ドラの視聴者層とファン層が重なる」という部分が強調される傾向になります。ものの見方を映し出しているという意味であれば、むしろ「鏡物」から連なる作品と考えたほうが自然だと思います。

作品全体は言うに及ばず、そのことが最終話にクッキリと表れています。大正時代の奥多摩からはじまり、現代の東京で帰結することになりましたが、最終話は、ただの後日談ではありません。全編にわたり、鬼との闘いを通じて「現代と歴史」を浮き彫りにして来た作品だからこそ、現代を最終話にする必要が合ったのです。


「血縁」の結実

まずは軽く物語のおさらいを。

第一話において、時代は「大正」とだけ明言されています。作中での会話をもとにすれば、おそらくは大正前半の出来事。家族を鬼に殺され、妹の禰豆子を鬼にされた炭治郎は、家族の敵を討ち、妹を人間に戻すために鬼と対決するべく旅に出ます。最初の旅立ちから4年程度。その戦いで繰り広げられるドラマが描かれている作品です。

炭治郎が知らないところで、鬼と人の因縁の戦いは、平安時代の中頃(A.D.900年前後)から続いていました。ただ、善と悪の凌ぎ合いというよりも、むしろ根源的には「血縁」をめぐる争いです。

そして最終話=205話の舞台は「現代・東京」です。ここで描かれるのは、前話まで活躍していた人物たちの子孫や転生者が平和に暮らす情景。つまり、彼らは「血縁」的な結びつきを持って現代の東京で暮らしています。

この「血縁」に注目してみます。

鬼殺隊を束ねる「産屋敷家」は、彼らの血縁は鬼を出してしまった咎で「呪い」にかかっています。その呪いとは、産まれた子がすぐに命を落としてしまうこと。神職の娘を娶り、鬼を滅ぼすことに「心血を注ぐ」ことで家を絶やさないことが可能になりました。それでも早逝が運命づけられており、序盤に現れる若い当主は97代目です。(明治より前の基準であれば、元服してから数年は生きられる計算ですが……まぁそういう問題ではないですね)

つまり、物語の中での「鬼」は、もともと人だったものが鬼になるという存在です。だから鬼はもともと、人との「血縁」があったのです。

そもそも、血を絶やせばいいという発想はなかったのか? という疑問もありますが、中世的な世界観では家の断絶は忌避するのが不文律です。それと同時に、彼らが鬼のいない平和な世を望んでいたからでしょう。

しかも、隊士たちはそれぞれに内なる「血縁」と対峙しています。先祖との縁で力を得る者もいれば、親戚縁者と袂をわかつことで強さを得る者もいる。さらに鬼だって同様です。血縁だからこその愛憎を「鬼」になることによって満たそうというケースが見受けられます。

主人公の兄妹のみならず、家族の中でのポジションが個人のアイデンティティとしてかなり重要な部分を占めています。家族としての自分と個人が分かちがたく、絡めとられるシーンが多いのは、指摘するまでもありません。家族ごっこをする鬼も登場しますし、炭治郎の「長男だから」と言い聞かせる場面、鬼化して子を手にかけた憤怒の念など、すべて挙げては段落が埋まりそうです。

さらに、「血の継承」は概念だけの問題ではありません。鬼にしても、鬼狩りをする人にしても、その身体に流れる「血」が個人の能力に直結しています。物語の中では、実際問題としても「血縁」は生と死に関わること。自分に流れる血の力が、その運命を変えていく。逃れられない宿命としての「血」が描かれているのです。


生活単位の更新

ただし、ここで忘れてはならないことがあります。鬼殺隊は単なる血族ではありません。むしろ、擬似家族です。産屋敷家の当主は代々、「お館様」と呼ばれて隊士を率いています。御家人制度や、棚親・棚子のようなものですね。特に、輝哉は隊士たちを子のように扱っており、同時に親のように慕われています。隊士の力は親子代々伝わるものもありますが、それとは関係なく顕れることも。それらは異能・異形の姿で存在しています。

つまり、この組織は「鬼を滅する」という目的のためだけに集めた能力者集団。その目的を果たした後で最終的にどうしたのか? そこがラストを見る上では重要になります。

竈門炭治郎・禰豆子の兄妹は、ただ生まれ故郷に帰って元の生活を始めたのではありません。苦難をともにした仲間との新たな結びつきを得ました。新たな生活単位としての「家族」を作り、雲取山に帰還します。どれだけ異能の持ち主とはいえ、市井の人として日々を続けていくのです。

それが仮に、メタマンガである『銀魂』における「最終回発情期<ファイナルファンタジー>」だとしても。これはかなり重要なことです。

しかしながら、最終回が意味するところは、再び「血縁」です。時は移り変わり、「現代の東京」で、彼らの子孫や転生者の近くで平和な暮らしをしています。この状況は、いまの世の中とたいへん似ています。いくら社会制度やテクノロジーが進んでも、「血縁」が重視されています。さんざんもてはやされたシェアリングエコノミーですが、2020年は世界中で「StayHome」が呼びかけられ、本邦では「世帯主」に給付金の案内が来るご時世。

ここで時代を述べるならば、「血縁」というワードを持ち出して皇室について触れないわけにはいきません。大正時代は、皇室で事実上の一夫一妻制度が始まった時代でもあります。厳密に女官制度が廃止されたのは昭和になってからですが「側室」という制度は使われていません。近代化を目指す「日本」にとって、そのような概念は過去に置いてきたかったのでしょう。「血縁」を絶やさぬようにする前時代的な仕組みは瓦解しました。しかし、その新たな制度は、結果として後世に生きる人を「血縁」によって縛ることにもつながっています。


どこに「鬼」はいる?

前述した通り、この作品の中で「鬼」は元々は「人であった」ものとされています。しかしながら、この前提条件には疑問符をつけたくなります。

なぜ「鬼」が生まれたのでしょうか。作中ではラスボスの鬼舞辻無惨が【一番はじめに鬼になった】と呼ばれています。1000年ほど前、薬師(医者)に施してもらった薬が元で鬼になったわけですが、そもそもなぜ「鬼」だとわかったのでしょう。そして何より、この薬師(医者)がその薬を持ちえた理由は……?

(このあたりは、憶測としていろいろな可能性が考えられるのですが)いずれにせよ、鬼は彼だけではなかった、もしくは彼の前にも「鬼」がいたと考える方が自然です。

そして、産屋敷家は「呪い」にかかっています。そもそもそんなものは誰がかけたのでしょう。家族のひとりが「鬼」になるからと言って、産まれてくる子どもの寿命を縮めるなど、連帯責任をとる必要があるものでしょうか?神が祟るというのは、穏やかではありません。しかしながら、登場人物も読み手も、その事実を自然と受け入れています。新興宗教の教祖になっていた「鬼」もいましたが、カウンターになる宗教については、特に描かれていません。それにもかかわらず「神様だから仕方ないね」と受け入れている節があります。「神」の意に反するものが「鬼」ということなのかもしれません。

炭治郎に伝わっていたのは「ヒノカミ」に捧げるための「神楽」であり、日輪のピアス。「鬼」は日の光で焼け死ぬ性質があり、鬼殺隊が使用するのは日輪刀。そうです、神様は日の光=お天道様そのものでもあると推測されます。そう考えると「天照大神」、さらには前述した皇室の存在も自ずと導き出されます。

これらの存在は、特にサジェスチョンされることはありません。海外の読み手は「おぉ、Japnaeseアミニズム」と思いながら読むかもしれません。しかし、登場人物のみならず「日本」の読者も、そこに特段の「イズム」は感じていません。空気のように当たり前にあることとして受け入れているわけです。

このように、「鬼」を語っている時、「神」は語られず物語は進みます。けれども、それ故に、さらに大きな存在であることが暗示されているのです。

誤解を招くかもしれないので強く言っておきますが、この作品は「何か」を礼賛しているマンガではありません。そういうことではなく、神仏習合という形で「日本」の各地に根付いていた信仰の在りようをさまざまなモチーフを使って描いています(無垢さ・素朴さ故の暴力性も作者は描いています)。


現代に横たわる「鬼」

この最終話において、「鬼」を滅するための道具や、その人たちの写真などの遺物が飾られるのはマンションのリビング。かつて「ケガレ」と日常を分けていた存在が、居住空間にあるのは不思議です。しかしながら、都市生活というものは、こんな感じです。かつては禁忌とされていた習慣の多くが迷信と思われ、破られながら日常が営まれています。

しかしながら。「鬼」は本当にいなくなったのでしょうか?

鬼殺隊が動いている裏で、さらに彼らが解散した後も、人はいくらでも「鬼」になったし、人のことを「鬼」と呼んでいたはずです。もちろん、この時代設定はフィクションですが、戦争や震災がまったく起きなかったパラレルワールドだとは思えません。そうであれば、「現代・東京」にする必要はないからです。

最終話では、かつてそこに戦いがあったなど、何事もなかったかのような幸せな空気に包まれています。「好き/嫌い」ではありません。実際のところ、そういう世界が描かれているのです。

これは、まさに本邦の状況と言い換えてもいいと思います。「この事態を教訓に」思っていたことですら、わたしたちはすぐに忘れてしまいます。2020年の今、COVID-19という新型コロナウイルスによっていろいろと起きている出来事は、2011年の震災でも、十分にわかっていたはずのことなのに。

しかし同時に、こんなことも言えます。いみじくも人の心から生まれた「鬼」を昇華させる姿を読みながら、読み手は鬼の側にも心を惹かれてきました。炭治郎も鬼化する直前まで追い詰められました。それはつまるところ、読み手が「鬼」の存在をいつも感じているからなのです。「鬼」はわたしたちの隣人であり、自分もいつか、そうなるかもしれない。むしろ心の中に潜んでいる存在だということに気づかされる。

本当は、設定の年代を考えれば、現実の時間軸とリンクさせる、あるいは匂わせる展開だってあり得たと思います(原案となった読み切りには、外国の話も出ているので…)。けれども、そんな話にはなっていません。それはそうです。世の中の読み手は、それほど望んでいないから。だからここに、ある歴史観が映し出されているのです。