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サードプレイスは幻想か

「米スタバ、持ち帰り・デリバリーへのシフト加速 「コロナ後」見据え」https://forbesjapan.com/articles/detail/35150

さんざん「サードプレイス」を掲げてきたのに、ひどい方向転換だ。企業が決めたことなので、抗議するわけではないけれど。学校でも、家でも、オフィスでもない「自分の時間」を過ごせる場所。結局のところ、それは外側に依存していただけで、自分で制御できなかったのだなと打ちのめされる。

スタバだけの問題ではないし、日本でも同じことだ。カフェあるいは喫茶店は豊かな時間を提供してきた。多くの人にとって、息を吸うように自然なことだったので、無くなることを考えていなかったのだ。

居酒屋やファミレス、カラオケの深夜営業について、継続的に取りやめるところが増えている。

仕事で遅くなった(という言い訳をしたい)時、いる場所がなくなってしまう。「ちょっと、今日はこのまま帰りたくないのだが……」という時に、フラッと立ち寄るのが難しくなる。そこまでの決意を持たねばならないことだろうか。

Photo by Khara Woods on Unsplash

実際に、そういうことが起きている。

わたしはゲンロン主催のスクールに通って、かれこれ3年ほどになるが、その二次会の重要拠点のひとつである居酒屋が閉店になってしまった。周辺では動揺の声があがった(自分自身も瞬間的にMLへ投稿していた)。この衝撃は、まだ尾を引いている。

そして先日、22時過ぎのリモート仕事を終えた後に困ったことが起きた。自分に「お疲れ!」を言うための小腹を満たす・一杯をやる店が、どこも空いてなかったのだ。「せっかく頑張ったのに…くぅっ…なぜ…」と、昼も食べてなかったので空腹がたまらず、コンビニで飲み物とつまむものを購入。夜の公園で一人飲みである。

世の中には、「おうち◯◯」や「#StayHome」を避けたい人もいる。けれども、家族の絆を声高に言う人が増えれば増えるほど、そういう声が消されていく。

仕事のデキる素敵な人が「なんか最近、在宅になってコーヒー飲まなくなりましたね。あれは結局場所を買っていたんだと思う。もったいなかったかも。いまは家でプロテイン飲んでますよ。家族との時間もできたし。もう、こういう働き方がいい」的な話をしてるのを聞いた。いいなぁ。勝ち続けている。

もちろん、本当に幸せな時間が過ごせる人は構わないのだ。家でも一人になれるだけの理解と、スペースがある人は、そのようにすればいい。そしてたまに、特別な時間を過ごすのもいいだろう。

けれども、それはやはり、限られた人だけの贅沢である。だからこそ、飲み食いをしたり、価値観を共有するための公共の場所が必要だったのだ。

民主主義はカフェから始まったと言うけれど、今回わたしは時代劇を思い出した。屋台や茶店、蕎麦屋でなら町人と侍が話をする(茶事も似たようなことはあるが、それは招かれなくてはならないのでこの場合は当てはまらない)。いま、時代劇チャンネルで流れているドラマの数々は、民主主義が産んだフィクションなのかもしれない。

わたしはいま「家」でも「会社」でもない場所でこの原稿を書いている。いちおう、サードプレイスを確保しているわけだ。他人から見れば、馬鹿なことだろう。家賃と二重に場所を支払い、在宅勤務ならしなくてもいい出費をしている。けれども、わたしが辛うじて生きてこられたのは、サードプレイスのおかげだ。これは幻ではない。幻想にしてはいけない。

だからと言って、わたしに今できることは少なすぎるのだが……。このような場所で過ごして生きていくこと。これは本当に、続けていこうと思う。

2020年のブラックホール

Photo by Hello I’m Nik 🎞 on Unsplash

ここ2〜3ヶ月ほどのあいだに、使いたくないワードが増えてきた。謎の造語がの増殖力がすごい。このままどんどん膨張していき、しまいには無になるのでは、などと思ってしまう。

もちろんすべてを調べているわけではないのだけれど、英語と日本語で、それらを使うときのモードが違うということに気づいた。日本語は、「わたしが〜します」「わたしが〜しよう」ではなくて「〜を守る」「〜してはいけない」が強く働く社会で使われているようだ。

たとえば、social disancingだ。「ソーシャルディスタンシング」のことを、日本でもはや「ソーシャルディスタンス」としか呼ばなくなってきている。

近い将来、特に地方の差別を取材した記事で「日本人があえてソーシャルディスタンスを使った理由」などというタイトルで記事にならなければ良いなと思う。もちろん、非英語圏ではこのような使われ方になりやすい。英語圏でもsocial distanceという語が使われてもいる。特に本邦の場合は単純に語感の違いでこうなってしまったわけだ。それにしても、根本的な違いがあると思われる。

それは、謎の造語にも表れている。

◆「三密」密だ・である」「密な」
サンミツか、ミツミツか。いずれにしても、わたしは使いたくない。厚労省の見解によると以下の通りだ。
1)[密閉された場所]……窓やドアが開いていない、風通しの悪い場所
2)[密集した場所]……人がたくさん集まっている場所
3)[密接した場面]………人と人との距離が近い場面

実は英語版も作っているのだけれど(3Cと呼ぶそうだ)、この手のイニシャルをとった形式は、英語にしても意味がないと思う。日本語話者にとっても、本当に効いているのか疑問だ。
https://www.mhlw.go.jp/content/10900000/000615287.pdf

◆夜の街
ただの職業差別用語。当然ながら、夜だけに発生するウイルスではない。今は陽性とわかった人のうち半分にも満たない人が「夜の街で●人」と謎のカウントをされている。

◆クラスター班
「これを避けよう」という、集団リンチ・ヒステリーの一歩手前を作り出している。差別の温床。血眼になって「クラスターをつぶす」と言っておきながら「差別はよくない」と言うのは現実からすると卑怯な話だ。

他にもいろいろ。賛否両論あるだろうけれど、わたしは使いたくないので否定的なコメントだけ載せた。いずれにしても、これらは「してはいけないこと」を挙げている。「●●を避ける」というだけで、何をすれば良いのかはわからない。

じゃあ何をすればいいんだろうって考えてみた。

もしかして、「ちょっと離れてみる」ぐらいのことではないか? 「三密を避ける」が意味するのは、要するに「ちょっと離れてみよう」なのだ。

公式見解やいろいろなところで「三密の発見が日本モデルを支えている」と強調しているけれど、一周回って実際にできることは「ソーシャルディスタンシング」という世界共通の考え方に近い。

要するに、どの国も同じようなレベルのことしかできないのだ。