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目覚める前に、休め。/『新しい目の旅立ち』

コロナ禍とか、五輪とか、いろいろなニュースに目を覆いたくなる日々が続いている。しかし同時にわたしたちは、覆ったはずの手、その隙間から見てしまう。見たくないというのは口実なのか? いや違う。見たくないという気持ちに、恐怖が勝ってしまうのだ。遅れてしまうことは、現代では社会的な死を意味している。

そんなわたしたちに必要なのが『新しい目の旅立ち』である。なぜなら、その目を休めることができるから。

この本は【タイ文学】だが、タイのことを知らなくても問題ない。むしろ、タイの本ではない。「マッサマンカレー」や「コップンカー」、「象」の世界を期待したら損である(もっとも、タイに生きる作家の書いたものだから、まったく関係ないとは言えないのだが)。タイの現代文学者が旅先のフィリピンで遭遇した出会いを内的にまとめたものだ。広い意味で言えば、随筆や旅行記ともとれるだろう。

作家プラープダー・ユンはフィリピンの「シキホール」という島を訪れる。その島はフィリピンの都市部では「黒魔術の島」と呼ばれている。ここで彼は自然と一体化することを追求するつもりだったのだ。しかし、その目論見は、思いがけぬ方向に転回していく。

哲学者や思想家の名前がたくさん出てくる。世界があるとかないとか、そんな大きいことは言っていない。同時に、ビジネスは哲学であるとか、狭いことを言っているわけでもない。もっと「人」の根本に立ち返ることができる本である。

繰り返しになるが、タイ文学がどんなものかわからなくても問題ない。「外国文学」と聞いて身構えてしまう人にこそ読んでほしい。日本語で最初から書かれているような感覚で読めるはず(おそらく翻訳にあたって気をつけたのだろう)。

特におすすめなのは「田舎暮らし、いいなぁ、憧れるなぁ」と口に漏らす人。都市で暮らす人なら、一度は口にしたことがあるだろう。この本に書いてある感覚が共有できるはず。目を休めたら、見えてくるものがある。

これは休息ということだけではない。目を逸らす、目をつむる。目は放っておくと、真正面を向いてしまうから、意識的にいろいろなところに向けてみる。過去、未来、後ろ、横、見えそうにない彼方とか。

本の性格上、章ごとにベッドで毎晩読んでみるのもよいだろう。たとえば、スマートフォンの代わりに。一気に読んでしまうことだけが、正しいのではない。

さらには、そうして見えてきた結果が、心地よいものではない可能性もある。自分の欲望とか。捨てきれない炎とか。休めることがいいこととは限らないのだ。

それでも、外からの情報を基準にすることで、どんどん自分のピントがズレてしまうことのほうが、ほんとうは怖い。情報から取り残されない代わりに、自分自身を生贄に差し出している、とも言えるのかもしれない。

ちなみに、作者自身が都会者であること、この記事を書いているわたしが東京圏以外で住んだことがない(普通免許を持っていないということで察してください)ので、このような書きかたになってしまった。田舎暮らしの人の感想も聞いてみたいと思っている。

さて、補足になるが、彼の来歴には、舌を巻くほかない。ほぼ少女マンガの「憧れの人」だ。ルッキズムはよくないと思いつつ、「ユン様」と言ってしまいたくなる。

1976年、タイの「メディア王」である父とファッション雑誌編集長の母の下に生まれ、中学を終えると渡米。アートを修めると帰国し、映画批評や短編小説を発表していく。1990年代後半に盛り上がったタイのカルチャーシーンの中心人物に。少々あざとさも感じる(しかし正真正銘の)バックボーンの彼が描く都市生活者の人間関係は、ポストモダン小説として熱狂的なファンを生む。そして2002年の短編集『可能性』は東南アジア文学賞を受賞し、世界文学のなかで【タイ現代文学】が「発見」された。

これは私見だけれども、タイの人にとってみれば、村上春樹に似た受容のされ方があるのかもしれない。

彼のほかの文章も読んでみたいと思った。

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最後に。いま、もしも大切な人にプレゼントするなら、この本だ。絵本以外で、そんな風に感じたのは初めてだ。大切な人にこそきちんと伝えておきたいことが、さりげなく伝えられる気がする。それは「わたしとあなたは違う、個である」ということ。本書の装丁のように、さりげなく、凛とした佇まいで、相手に伝えられたらいいなと思う。もちろん、それを「感じ取ってもらいたい」という思い込みもまた、横暴なのだけれども。