軍事技術がもとになったものは数多いけど、核の平和利用についてはまだまだ。最初の始まりから60年以上も経っているのにけっきょく根付いてないのはどうしてか? ほんとは便利だと思ってないか、ほんとは平和利用したくないと思ってるか、そのどっちかでは。
作り出したものは悪用されないように平和利用しなければならないとか。世界の平和を維持するためには必要なのだとか。色々と言われるけど、その実、みんな手に余ってるだけだったりしてね。
「スーパーマン」の世界に浸っていると(レヴューのために観てみたら、案外ふつうにはあまってしまいました)、核融合がおとぎ話のように思える。
現実は、プルサーマル計画は果たしてどうなるのかとか。色々あるわけで。
これを戦争で使ったのがヒロシマとナガサキ。片仮名にすることは本当に良いのだろうか? なんだか、かえって悪い気がする。そして日本はもはや、唯一の被曝国ではない。
これはYouTubeで見つけた動画。
YouTube – 原爆被災記録映画(熱線の影響)
淡々と事実を読み上げていく記録映画の一部。効果的な音声や、悲劇を誘う音楽も流れない。落下地点を調べるために数字とコンパスを使って、黙々と成果を挙げていく様子に言葉を失う。意外と、何にもないほうが凄かったりする典型例か。
なにかというと出てくるのが「爆心地からの同心円」の図。これをはじきだした原点は、そもそも人の手による測量だったようだ。「爆心地となった原爆ドーム」とか「5km圏内」だとか、安易に使い過ぎてしまっていたのかもしれない。
折しも、二次被爆に関しての判決が出た。この年月を経て、被爆認定を却下される人が絶えない現実。
コメント解放してない理由は推測がつくけど、ちょっと惜しい。
近頃、理系を中心に「原子力」という言葉が積極的に使われはじめているそうだ。チェルノブイリの事故や東海村の臨界事故から時間が過ぎ、アレルギー反応が少なくなったからだとか。エコの観点から見直されているとか。
明らかにエコじゃないだろう。「半減するばかりで永久に汚染物質が貯まるばかり」の物質を利用するのが自然と人間の共生する道だというのか。
そりゃもちろん、電気がなければ何もできないような生活を送っているのは認める。だけどそれにもまして、美味しいごはんときれいな水、空気、緑がなければ生きていけない。地球がダメなら宇宙コロニーに行けばいい……というようなことが現実に起こるのだろうか? でもそんな根性では、どのコロニーも食いつぶしてしまうにちがいない。
……等々、いろいろと考えては消えていく。所詮この程度しか心が働かないのだ。田口ランディの「被爆のマリア」で感じる肌寒さは、自分自身に対して起こる感情なのかもしれない。











